2021/10/03

「旧百姓」の視角

「旧百姓」の視角


しばらく『部落学序説』の執筆から離れていました。といっても、5日間ですが、筆者にとっては、相当長い時間離れていたような気がします。ほんとうは、毎日、毎日、原稿を書き続けなければならないのでしょうが、何分、微才微能ゆえに、思うようにはなりません。

この文章の題に、「「旧百姓」の目から見た・・・」という表現を用いていますが、なぜ、「平民」ではなくて「旧百姓」なのか・・・、どこからか、そのような質問が出てくることを期待していたのですが、どこからもそのような質問はありませんでした。

「旧百姓」と「平民」・・・、両概念はどのような関係があるのでしょうか。

一般的には、「旧百姓」=「平民」という図式が成立しているようですが、「旧百姓」という概念と「平民」という概念はまったく同じ概念なのでしょうか。「同一概念」であるとしたら、両概念の「外延」(構成要素)と「内包」(共通属性)は完全に一致しなければなりません。

ところが、「旧百姓」という概念と「平民」という概念の「外延」と「内包」を比較検証していて気付いたのですが、両概念の間には、相当大きな隔たり、差異があります。「旧百姓」と「平民」とは、必ずしも同じ人々を指しているわけではないのです。

『広辞苑』(初版)をひもといてみますと、「平民」についてこのような説明があります。「①官位のない普通の人民。庶民。②1869年(明治2)設定された族称の一。士・農・工・商の士を除くものを呼び、華族・士族の下位。1947年廃止。(以下略)」

『広辞苑』では、明治2年にすでに、「平民」という言葉が使用されていたようですが、そのあとも、明治政府の公文書には、「平民」という概念だけでなく、それ以前に使用されていた「人民」・「庶民」という言葉が多用されていますので、「平民」という概念の外延と内包が定着するのには、相当時間がかかったように思われます。

松島栄一(平凡社世界大百科事典)によると、「1871年(明治4年7月)には廃藩置県があってから、武士は士族と呼ばれることとなった。このとき、これらに対応して、一般の人民を、平民とよぶこととなったのであった。」そうです。

『広辞苑』と『平凡社世界百科事典』の用語の説明に従いすまと、「平民」という概念は、「士族」という概念が明確化されることによって、はじめて、定義付けが可能な概念ということになります。「平民」は「平民」であって、決して、「士族」ではない、その両者の間には、明確な線引きがなされていたということになります。

この文章で取り上げている、「穢多非人ノ称廃止」廃止は、廃藩置県(明治4年7月)が行われた直後(明治4年8月)に布告されています。そして、旧「穢多非人」は、戸籍上、「平民」に加えられ、明治政府や地方行政によって「平民同様」の扱いがなされていきます。つまり、廃藩置県後も、「平民」概念の外延の拡大、ひいては内包の変更が行われているのです。

「平民」概念の外延が、国内政治上、実質的に確定されるのは、明治5年1月、それまで「卒族」と言われた人々のうち、「世襲の卒は士族に編入」され、それ以外の「卒族」は「平民」に組み入れられます。旧「穢多非人等」が「平民」に組み込まれたあとも、「平民」に組み込まれた人々がいたということです。

さらに、明治5年11月には、「平民で任官の者が、士族に編入された」(ひろたまさき『差別の視線 近代日本の意識構造』吉川弘文館)のです。その時点で、任官されているひと(官吏・公務員)は、先祖伝来百姓の末裔であるにもかかわらず「士族」に組み込まれたのです。

「平民」という概念に、卒族の一部・「穢多非人等」が、その外延に加えられることになり、その外延から百姓出身の官吏・公務員が除かれていったのです。

つまり、「平民」という概念が、「皇族・華族・士族・平民」という近代身分制度の中の「平民」として位置づけられ、その概念の外延と内包が確定されたのは、明治5年11月頃になると考えられます。

確かに明治2年頃、「平民」という概念が既に使用されていたのかも知れませんが、今日の歴史の教科書に出てくるような形での「皇族・華族・士族・平民」の中の「平民」は、明治政府が「平民」という概念を採用して数年後になってはじめて確定していくのです。法制度上からみると、「平民」概念の確定は、大日本帝国憲法の成立をまたなければなりませんが、筆者は、事実上、明治5年11月頃に、「平民」という概念は、明治政府・近代中央集権国家の身分制度をあらわす言葉として日本の社会の中に定着していったと思われます。

近世幕藩体制下の「旧百姓」が「平民」とされてから、近世幕藩体制下の「旧穢多」が「平民」とされるまでの時間的へだたりは、わずか2年程度にすぎません。両者が、「平民」にされてから、その概念が固定されるまでにはさらに1年数ヶ月を要しています。

つまり、「旧百姓」を「平民」と呼び、それを前提として、「旧穢多」を「新平民」と呼ぶには、そうとう発想に無理が生じてきます。現代のような情報社会ではありません。明治政府が出した布告が、瞬時にして、日本の津々浦々に配信され、短期間に周知徹底されるというようなことはほとんど考えられません。明治4年の太政官布告第488号・第489号の「穢多非人ノ称廃止」廃止に関する布告ですら、日本全国の津々浦々に伝播するためにはそうとう時間を要しているのです。

「旧百姓」を「平民」あるいは「古平民」とよび、「旧穢多」を「新平民」とよぶことができるための時間的な差というのは極めて少ないのです。短時間の間に、「旧百姓」は「平民」であり、「旧穢多」は「新平民」であるという命題が一般化していったのでしょうか。筆者は、想像することすらできません。

部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる学者・研究者・教育者は、「平民」という概念を、「近世幕藩体制下の百姓」=「近代中央集権国家の平民」という図式のもとで解釈してきました。そのため、今日、その研究論文をひもとく人々は、「平民」という概念でもって、近世幕藩体制下の「農・工・商」と近代中央集権国家の「農・工・商」を同時に解釈することになってしまうのです。

権力の奉仕の学としての日本の歴史学のひずみのひとつがここにあります。

『部落学序説』では、長州藩の史料をもとに、近世の身分制度を「武士」・「百姓」という2大範疇で把握してきました。明治政府は、近代中央集権国家の身分制度を創設するために「士族」・「平民」という2大範疇を作り出していきました。

史料をすなおに読みますと、下記ふたつの等式は成立が困難になってきます。

近世幕藩体制下の「武士」=近代中央集権国家の「士族」
近世幕藩体制下の「百姓」=近代中央集権国家の「平民」

近世から近代へ、江戸時代から明治時代へ、その移行に際して、明治政府から、「人民」・「庶民」と呼ばれていた日本国民は、「百姓」から「平民」へ、概念の変遷と共に、その概念にともなう「外延」と「内包」を大きく変えられていったのです。

近世幕藩体制下において、「百姓」として、その自覚と責任を持って生き抜いてきた人々は、明治新政府によって打ち出される「旧百姓」の解体、そのあとに続く「平民」化に、敏感に反応します。『明治初年解放令反対一揆の研究』の編集者・好並隆司は、日本の歴史学者の中には、「百姓を愚民とする見方が基本にある」と指摘しています。彼等は、「明治初年の諸一揆は農民の愚行に過ぎず」、「新政府の諸政令の一貫としての解放令も農民には理解できなかった」とみるというのです。

好並は、「明治初年解放令反対一揆」の史料・伝承と、「歴史学研究における定説」との間に「背理した実態」があるといいます。「このようなズレを正しく埋める理論的・実習的作業が今日とりわけ重要であり・・・明確な解答をださなければならない義務が研究者には求められている。」といいます。

筆者は無学歴・無資格・・・、「研究者」に列するものではありませんが、近世幕藩体制下の「百姓」≠近代中央集権国家の「平民」という命題のもとに、一般的に言われる「部落解放令反対一揆」の本質を、「平民」ではなく、「旧百姓」の立場から迫っていきたいと思います。
 

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