2021/10/01

差別事件を起こした教育現場のジレンマ

差別事件を起こした教育現場のジレンマ


1980年12月10日に起きた、山口県A市立A中学校教師差別事件の当事者A教諭・・・。

そのA教諭に対して、A市教育長は、このように話しました。「A先生をかばうのではないが、まじめな人間ですよ。ただ、まじめな人間なら、こういうことがないかと言ったら、難しい問題ですね・・・」。

A市教育長は、率直に発言する人のようです。「A先生をかばうのではないが・・・」と、A教諭を教育長としてかばう意志をしめしながら、A市教育長がほんとうにかばいたいのは、A教諭ではなく、A教諭を「同和教育に熱心な教師」として、山口県の教育界に発言力のある山口大学教育学部教授をその父親に持ち、将来、山口の教育界の幹部になるべく期待される教師として採用した、A市教育委員会そのものであることを示唆しています。

教室で発生した差別事件をめぐって<差別者>の側に立たされるA市教育委員会・A中学校と、その差別性を追求し学校現場から差別教育を排除しようとする<被差別者>の側との<交渉>の行方の如何によっては、A教諭は、ある意味、微妙な立場に立たされることになります。

A市教育委員会・A中学校は、みずからの教育者としての、特に、同和教育の推進者としての威信が危うくなるときは、迷わず、A教諭を、A市教育委員会・A中学校の同和教育の基本姿勢・基本方針から逸脱した、差別事件の責任者として、A教諭にその責任のすべてを集約してしまう可能性があります。

A市教育長の、「A先生をかばうのではないが、まじめな人間ですよ。ただ、まじめな人間なら、こういうことがないかと言ったら、難しい問題ですね・・・。」ということばは、A教諭による差別事件の解決という緊急の課題に直面した、A市教育委員会・A中学校の精神的葛藤を綴ったことばです。

このA市教育長のことばを少しく検証してみましょう。

A市教育長は、差別事件を起こしたA教諭を「まじめな人間」と評価します。

「まじめ」ということは何を意味しているのでしょう。『広辞苑』でひもといてみますと、「まじめ」とは、「①真剣な態度・顔つき。本気。②まごころがこもっていること。誠実なこと。」という意味だそうです。

「まじめ」というのは、①と②の意味、あるいは①と②のいずれかの意味をもっているということになります。

②は、その人の内面(知・情・意、精神)のあり方を示していますが、①は、その内面が形となって「態度」・「顔つき」にあらわられた状態を示しています。「内なる世界」と「外なる世界」が一致しているとき、その「まじめ」ということばは、称賛されこそすれ、非難されるべきものは何も含んでいません。

しかし、①と②のうち、いずれかが欠落しますと、著しく、「まじめ」という美徳を損なってしまいます。①はあるけれど、②が欠けている場合、その人の「態度」・「顔つき」は、表面的・外面的には「まじめ」ということばがあてはまっても、何らかの事情で、その内面世界・精神世界の破綻が問題になったときは、①と②のギャップ、「外なる世界」と「内なる世界」との亀裂・断裂が問題にされます。

よく、マスコミ(新聞・テレビ)で、学校教師などの教育関係者の不祥事が問題・事件がとりあげられるとき、よく耳にしたり目にしたりすることばは、「あのまじめな先生が・・・」という驚きの言葉です。

いじめ・暴力事件・強制猥褻事件・婦女暴行事件・少女買春事件・窃盗事件・万引き事件・インターネット不正書き込み事件・ストーカー犯罪・ひき逃げ事件・差別事件・汚職事件等が発生したとき、「まじめな先生・・・」が、①をはぎとられると同時に、②を欠落させた現実の姿が明らかになってくるという事例には枚挙のいとまがありません。

「外なる世界」が崩れ、「内なる世界」があらわにされるとき、多くの人々は、「あのまじめな学校教師が、あのようなことをするなんて信じられない・・・」と一様に表現します。

筆者、『部落学序説』を執筆するようになって、読者の方からなんどかメールをいただきましたが、そのひとりに岡山のある中学校教師がいます。その中学校教師、最初は、「わたしのホームページも読みに来て下さい」と好意的なメールをくださっていました。筆者、その時点で、彼のすべての文章をダウンロードして読みはじめましたが、その中学校教師の属しているグループで何が問題にされたのか、兵庫県の部落解放同盟の関係者を加えて、『部落学序説』の執筆者である筆者に対して、極端な誹謗中傷・罵詈雑言を繰り返しなげかけてきました。

その中学校教師、筆者に対して、誹謗中傷・罵詈雑言の限りを尽くしたあと、インターネット上での彼のすべての発言をすべて無かったことにしてほしい、彼のBBS上での発言をすべて削除するので、筆者の<反論>もすべて消去してほしいとの要請がありましたが、筆者、その時点で、岡山の某中学校教師とその背景にいる部落解放同盟の関係者に対する<信頼感>を完全に喪失していましたので、彼らの一方的な都合のいい論理を受け入れることをよしとせず、彼らのBBSにおける誹謗中傷・罵詈雑言の記事をただ記録するにとどめました。

最近、岡山の某中学校教師、そのBBSを完全に閉鎖することで、問題の解決を図りたいようですが、彼と、その背後にある部落解放同盟、あるいは岡山の被差別部落の関係者の、筆者に対する誹謗中傷・罵詈雑言は、1年10ヶ月も続いていますが、筆者、そのすべてをダウンロードして記録しています。筆者、いつでも、その全文を公開する用意があります。

筆者にメールをくださった方々の中には、彼は、「まじめな教師・・・」であるとコメントされる方もおられます。その「まじめな教師・・・」が、こと、インターネットの書き込みになると、別人格のように、極めて傍若無人な、誹謗中傷・罵詈雑言にまみれた発言をすることになるのですが、どういうことなのでしょう。

インターネットの世界では、『広辞苑』の「まじめ」という言葉についての説明の①の意味はほとんど表現されず、言葉を介して、②の意味だけが一人歩きします。岡山のある中学校教師による、筆者に対する誹謗中傷・罵詈雑言は、その教師の「内面世界」・・・、「まごころがこもっていること。誠実なこと。」の欠如を示すものでしかなくなります。

A市の教育長は、A中学校教師差別事件の当事者となったA教諭のことを「まじめな人間である・・・」と評価します。

筆者、1980年に起きた、A中学校教師差別事件の『論文と資料』集を精読して、差別・被差別相互の言説を批判検証しているに過ぎませんが、A中学校教師・・・、A市教育長が評価するように「まじめな人間」であるのかもしれませんが、少なくとも、『広辞苑』の「まじめ」という言葉の①と②の二つ要件を充たすことのできる「まじめな教師」ではなかったようです。

A教諭がまじめな教師であるかないかの判断は、無学歴・無資格の筆者の主観的な判断でしかない・・・、学歴・資格を持ち、A市の教育界を指導している教育長の判断の方を社会的に許容される妥当な判断とする・・・、と考えられるひとも多いでしょうが、筆者、次の点で、A教師が「まじめな教師」であったという説に疑問をさしはさみます。

それは、以前に紹介した差別事件の経緯です。そのまま再掲します。

「そのA教諭が、理科室で、フレミングの法則を教えていたとき、A教諭の指の出し方を生徒に模倣させます。親指・人指指・中指の3本を、3次元的に直交させて、親指を導体の向き、人指指を磁界の向き、中指を起電力の向きとして具体的に教えていたのですが、A教諭の指の出し方をみながら、44人の生徒はそれを模倣しようとします。

しかし、中には、フレミングの法則の指使いとは異なる出し方をする生徒もいます。

そのとき、A教諭は、生徒が将来、「差別行為」をしないように指導する必要を感じて、自分の親指を曲げて、「4本指」を生徒の前に突き出して、「4本指を出してはいけない・・・」と指導します。

すると、「男子の生徒たちが、「どうしてか?」と声をあげた。」といいます。

A教諭は、生徒の<問い>に納得のいく<答え>を出さずに、「それは言えない・・・」と答えたといいます。

しばらく沈黙のときをおいて、A教諭、「九州のある所に行って、そんなことをしたら、殺される、気をつけろ!」と発言したといいます。

生徒は、そのような言葉を語るA教諭の真意を理解できず、「殺されるって、どうしてか?」とさらに質問を続けたといいます。

しかし、A教諭は、生徒たちの質問に、生徒たちが十分納得のいく説明をすることなく、「4本指」の話を中断し、フレミングの法則の説明に戻ったといいます」。

A教諭・・・、その授業を受けた被差別部落の生徒からの差別表現であるとの訴えに端を発した、被差別部落からの事実確認に際して、基本的には、被差別部落の人々に対する差別行為になるおそれのある「4本指」を自ら提示して、「4本指を出してはいけない。九州では大変なことになる・・・」(A教諭著《差別発言の反省と今後の信念》)と、「不用意」に、「生徒の差別行為防止」を意図した「同和教育」上の「指導」を行ったと弁明していますが、A教諭、そのクラスの生徒たちに、「九州のある所に行って、そんなことをしたら、殺される、気をつけろ!」と発言したことはないと断言します。A教諭の弁明では、彼の授業を受けた生徒たちが聞いたという、「九州のある所に行って、そんなことをしたら、殺される、気をつけろ!」という発言は、生徒たちの<ソラミミ>であり、生徒たちは、教師が話してもいないことを語って嘘をついている・・・、ということになります。

A教諭の弁明は、A教諭の、そのクラスの生徒たちに対する<不信感>の表明です。

筆者、これほど、自分の教え子に対する<不信感>、うそつきよばわりする教師を他に知りません。自他共に、「同和教育に熱心な教師」の役を演じ続けるために、A教諭、そのクラスの生徒たちは、差別・被差別の立場を問わず、事実とは違う<ウソ>の表現をして、A教諭を窮地に陥れている・・・、というのです。

そのような思いや姿勢の中で、A教諭の同和教育担当者としての指導、そして、理科の授業そのものも成立するはずがありません。

<教育>というものは、本来、教える側と教えられる側の間の<信頼関係>が成立してはじめて、効果的に実践しうるものだからです。

そう考えますと、A市教育長のいう、A教諭に対する評価、「A先生をかばうのではないが、まじめな人間ですよ・・・」という評価は、そのまま信じるに足ることばではなくなってしまいます。教える側が教えた内容(同和教育)と、教えられた側が受け取った内容(差別教育)との間に大きな亀裂があり、教える側が、教えられた側が受け取った内容を教える側の与り知らぬことであると全面否定することは、「まじめな教師」としてのイメージをそこなうだけでなく、「まじめな人間」のイメージもそこなうものになってしまいます。

A市教育長の目からみた、A教諭の差別事件の解決の難しさは、「まじめな人間」が、なぜか差別事件の当事者になる・・・、という一点にあります。

A市教育長のことばは、教育界においては、「まじめであるかな否か」ということと、「差別するかしないか」ということとは、必ずしも一致しないことがあるということを意味しています。人間として、まじめであるか否か、教師として、まじめであるかいなかは、差別するかしないかということと、無関係に成立する・・・、その間に、亀裂が走った場合、その亀裂をどう受けとめ、解明し、解決していったらいいのか・・・、そこには、「難しい問題」があるということなのでしょうか・・・。

A市教育委員会とA中学校・・・、A教諭が、そのクラスの生徒たちに、「九州のある所に行って、そんなことをしたら、殺される、気をつけろ!」と言ったのが事実であるのかどうか、調査をします。その調査というのは、その授業に出ていた44名の生徒に対する聞き取り調査をしたり、アンケート調査をしたりするというものではなく、生徒44名の「生活ノート」を提出させ、その授業があったあとの記録を読んで、そこに、その授業とA教諭の指導内容に対して、どのような書き込みがあったのか・・・、を調べるというものです。

『論文と資料』集の中で、このような論評がなされています。

「事件が表面化して、學校側は、同クラスの生徒たちの生活ノートを調べた」。しかし、「生徒たちは、この事件について具体的反応」を書きとどめることはなかったといいます。その結果、A中学校側は、A教諭の「指導」は、「生徒たちには、それほど深刻なカゲをおとしていなかった」と判断したといいます。

もし、A教諭の「同和教育」「指導」が、差別教育であるなら、その授業を受けた生徒たちは、深刻な影響を受け、そのことについて、何らかの形で、「生活ノート」に書き込むはずだ。その「生活ノート」に何の書き込みもなされていないのは、A教諭の「指導」が、生徒たちに何の影響も与えなかったことを意味すると・・・。

しかし、A教諭の授業を受けた44名の生徒に対する、被差別部落の側が実施した聞き取り調査の中で、次のような生徒の<対応>が明らかになるのです。

被差別部落の住人ではない、一般の生徒の親は、自分の子どもから、授業中に、教師からこんな話があったと聞かされて、このように答えたといいます。「そんなことを口にしてはいけない・・・」。当然、その日の「生活ノート」に、A教諭の授業を受けた生徒たちは、「4本指」という差別表現について、自分の意見を書き込むことをしなかったと思われます。

被差別部落出身の生徒たちの受けとめ方は以下のようなものでした。

(学校教師から)「部落に対して、そんな言われ方を聞いたのははじめて・・・」。被差別部落出身の生徒たちは、A教諭によって、生徒の前に「4本指」を差し出しながら、差別表現・差別行為をされたことで深刻なショックを受け、ことばにすることができない状態でした。

他の生徒は、「親友にも、部落の話はできない。話せば、それが原因で離れてしまうかも・・・」という不安を語ります。「生活ノート」に、A教諭の差別表現・差別行為について書き込めば、そのことを通して、A教諭から不利益、まかり間違うと、いじめや差別を受けることになるかもしれないという不安と、「生活ノート」を通じて、自分が被差別部落出身であるということが明らかになることを危惧するという不安が込められています。

また、被差別部落出身の生徒は、そうでない生徒と違って、結婚するときにも、「一歩、引いて考えなければならないのだ・・・」と、差別的現実を前にその壁の厚さに絶句する生徒もいます。

その結果、A教諭から授業をうけた日、クラスの生徒の中で話題になったことは、「次の日・・・みんなの中で話題にならなかった。自分も話せなかった・・・」といいます。

A教諭の授業中の差別表現・差別行為は、その授業を受けたクラスの生徒44名のこころの中に、暗い影を残し、被差別部落出身の生徒も、そうでない一般の生徒も、そのできごとに対して<沈黙>を守るようになるのです。当然、生徒の「生活ノート」・・・、クラスの担任が読むことになる「生活ノート」にA教諭の差別性を指摘することばなど書き込まれるはずもなかったのです。

A市教育委員会・A中学校は、A教諭の授業が、そのクラスの生徒44名にどのような影響を与えたのかを調査するために、生徒44名に聞き取り調査をしたり、アンケートを実施したりするのではなく、クラスの生徒の個人名の入った、その「生活ノート」を出させて、その書き込みの有無と内容をもとに、A教諭の差別表現に対する生徒たちの影響力を判断しようとしたのです。

被差別部落出身の生徒も、そうでない一般の生徒も、「生活ノート」に何の書き込みもしていないという理由で、A教諭の授業中の同和教育の指導は、生徒に何の影響も与えていない・・・、ということで、決着がつけられようとしたのです。

日本全国の津々浦々の学校で、発生したと思われる部落差別事件・・・、その事件の概略は、同和教育の教材として紹介されます。しかし、筆者の目からみますと、あまりにも、パターン化され過ぎて、わかったようでわからない同和教育の教材になってしまっています。差別事件が発生した、個々の地域社会の歴史と文化、社会生活・・・、差別事件の当事者となった教師の生い立ちと、受けた教育・・・、いろいろな要素が切り捨てられ、抽象化され、パターン化されてしまったとき、換骨奪胎され、生気をうしなってしまったような無味乾燥な差別事件の記録・報告から何を学ぶことができるというのでしょうか・・・。

『部落学序説』とその関連ブログ群の筆者の経験からも、全国的に発生する差別事件を抽象化して教訓的に学習させられる従来の同和教育より、地域の歴史と文化、社会生活を視野にいれながら、教育現場における具体的な差別事件を正しく認識することの方が、日本の社会から、教育現場から、部落差別をなくすために大きく貢献すると思われます。

筆者、すべての差別事件は、正しく<知解>されることによって、部落差別完全解消への有力なあしがかり、てがかりを得ることができると思います。ときどき、部落差別について、正しく生徒に<知解>させる努力を怠って、あいまいな認識のまま、「同和地区」の有力者やボス格の人々と一緒に飲んだり遊んだりして、「部落の人と交流をしている」、「だから、自分のしている同和教育は正しい」、「机上の学問ではない・・・」などと主張する教師も出てきますが、そんな、ごまかし、いつまでも続くことはありません。いつか、A市立A中学校のA教諭のように、自ら、そのような姿勢の過ちに気付かされる日がやってきます。

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