2021/10/01

事実認識の違いを越えて存在する問題


1980年12月10日に、山口県A市立A中学校で起きた部落差別事件・・・。

その当事者となったA中学校のA教諭の記憶と、その授業を受けたクラスの、被差別・差別の両方の側に身を置く生徒の記憶の違い、いずれの記憶が事実なのか・・・?

前者は、「4本指を出してはいけない。九州では大変なことになる」と言っただけで、クラスの生徒たちがいうような、「九州のある所に行って、そんなことをしたら殺される、気をつけろ!」などと言った覚えはないと主張されます。

A教諭にとってみれば、クラスの生徒たちは、A教諭の発言の聞き違い、誤認識をしているに過ぎない、場合によっては、生徒たちの悪意・誹謗中傷・罵詈雑言、A教諭が学校教師であることを不当におとしめる所作と映ります。

結局、A教諭は、<栄転>という形で、A中学校を離れなければならなくなりますが、この差別事件が、1980年12月26日「地区の学力促進学級保護者会」で公にされ問題にされた翌月の1981年1月15日、A市立A中学校校長と地区役員2名の3名で会合がもたれますが、そのとき地区役員から、「疑問と意見」が提起されたといいます。

地区役員「「九州の方にいったら大変なことになる」とは、こちらの方ではいいとも受けとられる」。
A中学校校長「「九州の方へいけば大変で、こちらの方ではどうということはない。」というのではない。これが舌足らず、説明不足で、誤解を招く最たるものだが、当人が九州ということばを出したのは、当人の友人が北九州で先生をしており、この教材で授業をした。その友人は、生徒が4本出してやっているのを特別注意せずにいたところ、これが問題になった。当人は、授業中にフッーと、そのことを思い出したので、そういう表現をしたのである」。

A中学校校長は、A教諭から問題の授業について聞きただしたあと、地区役員との会合にのぞんでいるのですが、最初からA教諭と地区役員の間で、事実確認の場が提供されなかったことで、問題は、複雑化していきます。

A校長は、なぜ、最初の事実確認のとき、A教諭を同席させなかったのか・・・。

A校長にとって、A教諭は、山口県の教育界の名門の出であり、兵庫県の中学校で同和教育を習熟した熱心な指導者である、「日ごろ、同和教育に励んでいる」彼を、「同和に関する事件がおこるたびに確認会へ出席させていくことになれば、・・・恐怖心が芽生え、同和教育の推進に支障をきたす」ことになるといいます(第2回事実確認会でのA校長の発言)。

A教諭は、そのクラスの生徒たちに、「4本指を出してはいけない」「同和教育」を実践したのであって、「差別教育」をしたのではないと、A教諭を弁護します。

A校長は、「先生というものは意外と小心で・・・(その同和教育の指導内容について、被差別部落の側から問題提起されると、同和教育への)・・・やる気をなくす。」と語ります。被差別の側は、このA校長の言葉を、「教育の専門家がやっていることに、ケチつけ無用・・・」と主張していると受け止めます。

そして、1981年9月30日の第3回確認会とのときになって、はじめて、A校長に付き添われて、A教諭が出席し、問題となった授業における事実確認がすすめられていきますが、そのとき、A教諭は、問題発覚当時、A校長が語った、「「九州の方へいけば大変で、こちらの方ではどうということはない。」というのではない。これが舌足らず、説明不足で、誤解を招く最たるものだが、当人が九州ということばを出したのは、当人の友人が北九州で先生をしており、この教材で授業をした。その友人は、生徒が4本出してやっているのを特別注意せずにいたところ、これが問題になった。当人は、授業中にフッーと、そのことを思い出したので、そういう表現をしたのである。」という言葉を<全面否定>します。

この説明・・・、A校長の<捏造>になるのでしょうか・・・。A教諭が問題視されているようなことは、山口だけでなく、九州においても、全国的によく起きていることで、特別問題にされることではない・・・、というA中学校校長の差別的な認識を表出したものになってしまいます。

A教諭は、「なぜ九州ということばが出てきたのか?」という、被差別の側からの質問に、「クラスに九州からの転校生がいたこと」「友人の話し」「短絡的に結びついた」・・・と答えます。

「クラスに九州からの転校生がいた・・・」というのは、A教諭が、「4本指を出してはいけない。九州では大変なことになる」「同和教育」したクラスの生徒の中に九州からの転校生がいたということを意味しています。

「友人の話し・・・」というのは、A教諭の書いた『差別発言の反省と今後の信念』という文書によりますと、「友人が九州の大学に在学中に「パチンコ屋で4本指を出したら大変なことになった」という話」です。このA教諭の友人のことばは、A教諭の「同和地区はこわいという潜在意識」を増強したといいます。

この「クラスに九州からの転校生がいたこと」「友人の話し」という、ふたつの要因が、A教諭をして、「4本指を出してはいけない。九州では大変なことになる」という「同和教育」の実践に踏み切らせたといいます。「同和教育に熱心な教師」によってなされる即席の、場当たり的な「同和教育」・・・、A教諭から、被差別の側が納得のいく説明が語られることはありませんでした。

しかし、山口の地においては、地区役員の「「九州の方にいったら大変なことになる」とは、こちらの方ではいいとも受けとられる。」という発言を裏打ちするような状況がありました。

それは、日本共産党系の運動団体・全解連に大きく影響を受けた、山口県の被差別部落の人々の中にも、自らをさして、「4本指」ということばを使用している人々が少なくなかったからです。もちろん、「4本指」を自らを語るときに使用するひとびとは、それを「自称語」(被差別者が被差別者のことを語るときのことば)としてではなく「他称語」(差別者が被差別者のことを語るときのことば)として・・・。

近代部落差別における典型的な差別語である「特殊部落」ということばと同じく、この「4本指」ということばも、典型的な差別語です。「特殊部落」ということばも、「4本指」ということばも、被差別部落・被差別部落民に対してなげかけられるとき、それは、無自覚であれ自覚であれ、差別発言・差別行為・差別表現になります。「死語」(言葉としては存在していても無意味化された言葉)にならなければならない言葉です。

被差別の側は、「部落民でさえ、部落民であると言っているのに、なぜ、わしらがお前らのことを部落民と言って悪いのか!」と言い続けてきたといいます。「特殊部落民でさえ、特殊部落民であると言っている・・・」。「4本指ですら、4本指であると言っている・・・」。

その強烈な印象を与えるのが、詩集『部落』の「五本目の指を」です。

全文を孫引きで引用します。

私がはじめて恋を知ったのは
二十一の秋
私はかぎりなく彼をしたい
彼はやさしく私をいたわっていたようだった
冬になると
彼の部屋のコタツに火を入れて
私達は話し合った
私が彼のオヨメさんになる日のことを

その夜は、雪がシンシン
しずんでいた・・・
”春”になったらネ
指切りしましょう
私の指がかあいいと言って
からめた指を
二人は長い間大切にしていた

その彼が
私を四本指
だといいはじめたのはいつからだったか
彼のおかあさんにあった日から
二人の上に春は来なくなっていた
私には見えないけれど
たしかに指が
四本だという
切れたのは指切りした指だろうか
約束を守らなかったのは
私ではなかたのに
私は四本指の娘だという
持って生れた不幸せだという

私は想った
私は泣いた
生れ出た家のひくいのきのこと
ねこのひたい程の耕地をむさぼる一かたまりの部落民のこと
血族結婚の末の精神異常者のこと
若者たちは自暴自棄
追いかえされた若妻
テテナシ子

私は死のうと思った
傷をいやす為に
ちゃんとした五体になる為に
私の心の中でプッツリ切られてしまった
五本目の指を
その指をかえせ
その指をかえせと
うたいながら

傷口はいえないだろう
傷口はいえないだろう
傷つけたものへのいかりとなって
その口はひらくだろう
なお大きく
深く
いたみながら

この詩の内容、被差別に置かれた側の悲しみと、差別されることへの抗議の声としては、訴えるものを多く持っています。とくに、差別問題に関心があったり、差別問題に取り組む、知識階級・中産階級の人々にとっては、部落差別とはなにか、それを直感的に知ることができる優れた詩であるとは思います。

しかし、筆者、この「五本目の指を」という詩は、その詩が綴られる前提となったものの見方や考え方に大きな問題を秘めていると思われます。戦後のある部落解放運動・・・、日本共産党系の全解連の運動の理念や人間観のひずみが前提されているように思われます。

A市立A中学校A教諭も、山口県の公立中学校で同和教育に関与していく過程の中で、目にすることになった詩です。この詩を、表面的な意味でしかとらえることができず、この詩の背後にある問題の本質を見抜くことができなかったA教諭の必然的な差別表現が、「4本指を出してはいけない。九州では大変なことになる」ではないか・・・、筆者はそう推察します。

A教諭が、「4本指を出してはいけない。九州では大変なことになる」と言ったのか、それとも、「九州のある所に行って、そんなことをしたら殺される、気をつけろ!」と言ったのか、いずれが事実であっても、その発言の前提となっているものの見方や考え方は、批判検証に値します。

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