2021/10/02

「賤民史観」と遊女6 「人身の自由」考察に関する今日的意味(憲法改正問題の隘路)

「賤民史観」と遊女6 「人身の自由」考察に関する今日的意味(憲法改正問題の隘路)


『部落の歴史と解放理論』の著者・井上清は、雑誌『部落』(31号)に掲載された西光万吉の回想を紹介したあとで、「水平社の宣言は、学者の書斎ではなく、じつに最もしいたげられ人身の自由をうばわれた女たちの物干場で、労働者となったオルグによって書かれたのである。」と記しています。

井上清は、「遊女」を「最もしいたげられ人身の自由をうばわれた女たち」と呼んでいます。「女たち」ということばに、「最もしいたげられ」と「人身の自由をうばわれた」という、2つの修飾語句がつけられています。この「最もしいたげられ」ということばと、「人身の自由をうばわれた」ということばは、どのような関係にあるのでしょうか・・・。

【最もしいたげられた】

「最も」ということばは、英語の最上級を表現することばのようです。「最も」ということばを、正確に理解するために、森田良行著『基礎日本語2』(角川小辞典)をひもといてみましょう。

森田は、「形容詞、形容動詞、ある種の動詞や名詞に付いて、事物・事態の程度が他の複数対象の中で、他に比して度が大きい場合に用いる。」と概略を説明したあとで、このことばの意味を詳細に分析します。

森田は、「最も」ということばは、「他(複数)との比較を前提」として、「連続した流れの中で状態の程度が極大もしくは極小となる場合」を指すといいます。

井上清が、「最も虐げられ・・・た女性たち」と表現するとき、そのことばの意味は、空間的には、この世の中に存在する「虐げ」(虐待)、たとえば、部落差別・学歴差別・障害者差別・女性差別・民族差別等の中で、「遊女」に対する差別ほど、ひどい「虐げ」(虐待)はない・・・、ということを意味します。また、時間的には、差別の歴史の中で、「遊女」ほど、虐げられたひとはいない・・・、ということを意味します。

つまり、「遊女」は、空間的にも時間的にも、最も「虐げ」(虐待)されたひとびとである・・・、ということを意味します。「遊女」は、「被差別の極み」を経験したひとびとであると断言しても過言ではないでしょう。「遊女」が経験した塗炭の苦しみを前にすると、その他の「虐げ」(虐待)・差別は、背後に退かざるを得ないでしょう。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、「遊女」も「部落民」も、同じ「賤民」概念で把握し、その外延と属性を混同・融合・同化するのが常ですから、「賤民史観」の学者・研究者・教育者は、「遊女」が空間的・時間的に経験した塗炭の苦しみを、「部落民」概念にも「周延(distribution)」(近藤・好並著『論理学概論』岩波書店)させてしまいます。つまり、「遊女」の被差別経験を、「部落民」の被差別経験にも波及させてしまうのです。

【人身の自由をうばわれた】

「遊女」に対するもうひとつの修飾語句は、何を意味するのでしょうか・・・。この「人身の自由」ということばは、1889(明治22)に出版された、伊藤博文著『憲法義解』(岩波文庫)の大日本帝国憲法第23条の解釈の中に出てきます。「本条は人身の自由を保明す。逮捕・監禁・審問は法律に載する所の場合に限り、其の載する所の規定に従ひ行ふことを得べく、而して又法律の正条に依るに非ずして何等の所為に対しても処罰することを得ず」。大日本帝国憲法第23条は、「警察及至司獄官吏」の職務に対する法的制限を設けることで、「臣民」の権利を保全しようとするものです。

井上清が、『部落の歴史と解放理論』を出版したのは、1969(昭和44)年です。

『部落学序説』の筆者である私が22~23歳頃のことです。筆者の高校の同級生たちが大学を卒業して頃です。団塊の世代による学園闘争・大学闘争はなやかなりし頃です。筆者は、高校3年の担任によってつけられた「落伍者」のことばとおり、大学進学はしませんでした。無学歴・無資格の「落伍者」としての人生をたどることになったので、学園闘争・大学闘争にはまったく無関係でした。連合赤軍浅間山荘事件で、虐殺された学生の中に「同窓生」の名前が報道されたときは、愕然としました。そのときの筆者の素朴な気持ちは、「せっかく大学に進学したのに、どうして・・・」という疑問でした。

筆者の経験からしても、1969年というのは、日本国憲法が制定されたあと、戦後民主主義が確実に定着しはじめた時代です。

その時代に、井上清という戦後の民主主義の担い手である学者・研究者・教育者が、戦前の大日本帝国憲法第23条の「人身の自由」に関する規定に拘束されていた・・・とは考えられません。井上清が使った「人身の自由」は、日本国憲法第18条「奴隷的拘束及び苦役からの自由」に由来するものではないかと思います。

「第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰を除いては、その意に反する苦役に服させられない」。

日本国憲法は、日本国憲法・序文の前に、さらに「まえがき」があります。

「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」。

戦後の民主教育・憲法教育の中で、あまりとりあげられることのない「まえがき」ですが、大日本帝国憲法下最後の天皇のことばです。「朕は・・・公布せしめる」。最近の改憲論者の多くは、この天皇のことばを無視します。このことばは、天皇の本心ではなく、「占領下」におけるやむを得ざることばであった・・・と認識されます。彼らはいいます。「占領軍に押しつけられた日本国憲法ははやく改正されなければならない・・・」、と。

天皇は、日本国憲法の制定を「深くよろこぶ」と宣言していますが、最近の改憲論者の多くは、昭和天皇のこのことばを無視します。

また、日本国憲法が、「帝国議会」の最後の「議決を経た帝国憲法の改正」であるという、昭和天皇のことばをも無視します。自由民主党の『新憲法草案』では、この昭和天皇のことばは、完全に削除されます。

『部落学序説』の筆者である私は、自由民主党の『新憲法草案』の中に、この「まえがき」が完全に削除されていることが不思議でなりません。昭和天皇のことばを、どのように認識し、日本国憲法の改正を提言するようになったのか、わが国の憲法の履歴・・・というものを、「まえがき」で残すべきではないかと思います。

私は、「国粋主義者」ではありませんが、非常に気になります。自由民主党は、戦前とは異なる「軍国主義」を構築しようとしているのではないか・・・。新しい「軍国主義」構築のためには、日本国憲法の「まえがき」に記された、昭和天皇のことばなど、ごみくずにいれるかのごとく削除してかえりみない・・・。自由民主党は、「天皇」をあらたに利用することで、新たな「軍国主義」を構築しようとしているのではないか・・・。筆者の脳裏を、そんな不安・疑心がよぎっていきます。

少し脱線気味になりましたが、「人身の自由」に関して、もう少し理解を深めるために、大日本帝国憲法・日本国憲法・新憲法草案を比較してみましょう。

大日本帝国憲法第23条 日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ

日本国憲法第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

自由民主党新憲法草案第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。
2 何人も、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。


当然、比較の基準は、日本国憲法第18条です。日本国憲法第18条をどのように解釈したらいいのか・・・。

無学歴・無資格の筆者が、リガールマインドを身につけるために独学で日本国憲法を学んだときのテキストは、その当時の司法試験のテキストとしても用いられていた橋本公亘著『憲法原論(新版)』です。橋本のことばを引用しながら、日本国憲法第18条の一般的解釈をたどってみましょう。

橋本は、『憲法原論(新版)』第2章第9節「第9項 人身の自由」において、第18条を、「人間の身体的自由を拘束されないことを内容とする自由権である」と解釈します。そして、「人間の身体に対する直接の拘束は、精神の自由に対する拘束とならんで、人間の自由に対する最も重大な拘束であるから、とくにこの自由は、尊重されなければならない。」といいます。

橋本は、「奴隷的拘束」を「身体の自由の拘束が人格を無視する程度に至っているものをいう」と解釈します。また、「その意に反する苦役」とは、「本人の意志に反して強制される労役」と解釈します。

橋本は、このふたつは、「国家」に対しても「私人間」に対しても適用されるといいます。

橋本は、特に「国家」について、「国家は、国民に対して、奴隷的拘束を加えたり、犯罪による処罰の場合を除き、その意に反して苦役を強制することはできない。」といいます。もし、「国家」が憲法に反して、「奴隷的拘束」と「苦役の強制」を施行された場合、「国民は、国家に対し、かかる拘束の行われないことを要求できる。」と解釈します。橋本は、この自由は、「人格にとって本質的なもの」であるから、これは、「絶対的に尊重」されなければならないといいます。

それでは、「その意に反する苦役」とは何か・・・。

日本国憲法第18条は、「その意に反する苦役」について、抽象的表現で記述するのみで、「その意に反する苦役」とは何か、具体的事例を列挙することはありません。そこで、憲法学者は、「その意に反する苦役」とは何か・・・、「法解釈」でもって、その内容を確定しようとします。

橋本は、「消防法第29条第5項」・「水防法第17条」・「災害救助法第24条、第25条」に定められた「非常の場合」も「その意に反する苦役」と解釈しますが、この3点については、「公共の福祉の観点から」、例外事項であるといいます。「非常災害の復旧、消防、水防という非常の場合」は「労役の強制も一時的であるから・・・合憲である」といいます。

注目すべきは、橋本は、「その意に反する苦役」として、日本国憲法上、許されないことがらとして、「戦争中存在した徴用のようなもの」は、日本国憲法「第18条の禁ずるところである」と断定します。日本国「憲法が軍隊を認めていないのであるから、ありえないことである。」というのです。

日本国憲法の下で、もし戦争という非常事態が生じたら、国民は、軍事徴用に対して、「その意に反する苦役」として、「国家に対し、かかる拘束の行われないことを要求できる」ということを意味します。国民は、国家の要請する軍事徴用に対して拒否を宣言・行使する権利を有する・・・ということを意味します。

橋本公亘著『憲法原論』は、日本の司法試験史上、そのテキストとして認められたことのあることから考えると、戦後のある時期の日本政府は、橋本公亘の憲法解釈をある意味、認めていたということでしょう。

自由民主党の『新憲法草案』では、日本国憲法第9条の「戦力」と「交戦権」に関する条項を削除、「戦力」と「交戦権」を遂行できる軍隊(「自衛軍」)の新設を宣言します。

それが、自衛のための戦争であったとしても、戦争の遂行には、国民に対して、「軍事的徴用」が実施されると考えて間違いないでしょう。「軍人」として臨時徴集されるだけではありません。男女を問わず、「徴兵」だけでなく、さまざまな「軍事的徴用」が実施されることになると思います。そのとき、日本国憲法第18条の一般的法解釈では、国民は、「その意に反する使役」として、国家に否を突きつける権利を行使することができます。

しかし、自由民主党の『新憲法草案』においては、日本国憲法第18条の「。又、」が「2 何人も」が置換され、「の場合」が挿入されるのみで、一見、日本国憲法第18条と、自由民主党の『新憲法草案』第18条とは、ほとんど差異がないようにみえます。

「自衛隊」を「軍隊」にするけれども、「国民」(男性・女性)の「軍事徴用」はしない、という意味なのでしょうか・・・。

『部落学序説』の筆者としては、自由民主党の『新憲法草案』第18条が、「奴隷的拘束」と「その意に反する苦役」が、別項に分離されているのが気になります。

1項の「奴隷的拘束」の禁止は、平時における警察権力の規制条項ですが、2項の「その意に反する苦役」の中から、橋本公亘が、その著『憲法原論(新版)』で指摘する、「憲法が軍隊を認めていないのであるから、ありえないことである。」という解釈は、自由民主党の『新憲法草案』では自衛隊が軍隊(自衛軍)として承認されるのであるから、日本国憲法第18条が認めていた、「その意に反する苦役」として忌避することができた「軍事徴用」を拒否することができなくなってしまいます。

日本国憲法第18条が、自由民主党の『新憲法草案』において、分かち書きにされていることの意味するものは、国民に深刻な事態を引き起こすことになります。

日本国憲法下では、国民は、「軍事徴用」を「その意に反する苦役」として退ける権利をもっています。しかし、自由民主党の『新憲法草案』では、「軍事徴用」を「その意に反する苦役」として退ける権利が、最初から否定されることになります。

次に、日本国憲法第18条と大日本帝国憲法第23条を比較すると、どういうことがいえるのでしょうか。

大日本帝国憲法第23条の「人身の自由」には、「法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」として、日本国憲法第18条のいう「奴隷的拘束」についての言及はありますが、「その意に反する苦役」についての文言はありません。大日本帝国憲法は、軍隊の存在を前提としていますので、橋本がいう「戦争中存在した徴用のようなもの」に関する規定が当然存在することが想定されます。

それは、大日本帝国憲法第31条にあります。

「第31条 本章ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」

この第31条に対して、伊藤博文はこのように解釈します。

「憲法は猶非常の変局の為に非常の例外を掲ぐることを怠らず。蓋国家の最大の目的は其の存立を保持するにあり。熟練なる船長は覆没を避け航客の生命を救ふ為に必要なるときは其の積荷を海中に投棄せざるべからず。良將は全軍の敗を避くる為に已むを得ざるの時期に當りて其の一部曲を棄てざることを得ず。国権は危難の時期に際し国家及国民を救済して其の存立を保全する為に唯一の必要方法ありと認めるときは、断じて法律及臣民権利の一部を犠牲にして以て其の最大目的を達成せざるべからず。此れ乃元首の権利なるのみならず、亦其の最大義務たり。国家にして若此の非常権なかりせば国権は非常の時期に際りて其の職を盡すに由なからむとす」。

橋本がいう「戦争中存在した徴用のようなもの」は、この大日本帝国憲法第31に明言されているといってもよいでしょう。

自由民主党の『新憲法草案』に、大日本帝国憲法第31条に相当する規定や、伊藤博文の法解釈などに触れていないのは、それを否定するのではなく、国民の目から「隠す」意図があってのことでしょう。自由民主党の『新憲法草案』は、日本国憲法第18条を、「奴隷的拘束」と「その意に反する苦役」を分割することで、「その意に反する苦役」を、憲法上の解釈をもってする、事実上の改憲を目論んでいるのではないかと推定されます。

自由民主党の『新憲法草案』では、将来的な「戦時下」において、第18条第2項の「その意に反する苦役」に関する規定の中には、「戦時下の軍事的徴用」は含まれていない・・・、という憲法解釈のもと、『新憲法』、国民全体または一部が、その自由・財産・生命を「自衛軍」によって「犠牲」に供せられる可能性があります。

『ナショナリズムとジェンダー』の著者・上野千鶴子は、その書の最後でこのように語ります。

「もし、国家が「わたし」を冒そうとしたら? 「わたし」はそれを許否する権利も資格も持っている。もし、国家が「あなた」を冒そうとしたら? 「わたし」はそれを許否する権利も資格も持っている。「わたし」の責任とはそのような国家に対する対峙と相対化の中から生まれる。それは「国民として」責任をとることとは別なことである。

「わたし」の身体と権利は国家に属さない。そう女は-そして男も-言うことができる。「慰安婦」問題が女性の「人権侵害」として言説構成されるのならば、「兵士」として国家のために殺人者となることもまた男性にとって「人権侵害」であると、立論することが可能だ。人権論はそこまで射程を持つだろうか。「慰安婦」問題が突きつける問いは、単に戦争犯罪ではない。戦争が犯罪なのだ」。

上野千鶴子の主張は、日本国憲法下では、自然法の範疇だけでなく、実定法の範疇においても、「立論することが可能」であると思われます。しかし、自由民主党の『新憲法草案』の下では、戦前の男と女の自然的性差に基づく「臣民」としての価値の等級、「男」は軍事に携わる「非常民」として、「女」は直接軍事に携わることができないが「慰安婦」・「看護婦」(「常民」)として徴用される時代と異なって、軍事的・政治的・社会的・文化的差異としての「非常民」(男・女)と「常民」(男・女)の差異に基づき、「国家」と「非常民」(自衛軍)のために、圧倒的多数の「常民」が、その戦争に巻き込まれ、さまざまな局面で軍事徴用され、その「犠牲」に供されることになります。そのとき、国家とその軍隊(自衛軍)は、上野千鶴子の「身体と権利は国家に属さない」という主張を否定してやまないでしょう。上野千鶴子だけでなく、圧倒的多数の「国民」の「人身の自由」が犠牲にされることになります。

「遊女」とされ、「娼妓」とされ、「慰安婦」とされ、「売春婦」とされ、その精神だけでなく、身体も、国家的差別・搾取・収奪の対象にされた「女性差別」の悲惨な現実は、「部落差別」の現実をはるかに凌駕するものであり、『部落の歴史と解放理論』の著者・井上清が指摘する「最もしいたげられ人身の自由をうばわれた女たち」の痛み・苦しみは、決して「部落差別」のそれと混同・融合・同化してはならないのではないでしょうか・・・。「部落民」と「遊女」を同一視することで、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、ますます強固に、日本の社会を差別に染め上げていきます。

「賤民」概念、「賤民史観」を破壊し、とり除き、「賤民」概念の外延とされたひとびと、それぞれの歴史を、実証主義的に、「唯物史観」・「皇国史観」・「軍国史観」・「マルクス主義的進歩史観」・「自由主義的進歩史観」・「近代進歩史観」に代わる「史観」が見つからないときは、歴史学を相対化し、歴史学に全面的に依拠しない、たとえば、筆者の「部落学」・・・のような学際的研究で明らかにしていく必要があると思われます。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...