2021/10/01

差別解消の主体者を育てる部落史学習の欺瞞性について 1

差別解消の主体者を育てる部落史学習の欺瞞性について  


2001年佐賀市同和教育夏期講座の、岡山の中学校教師・藤田孝志氏による講演録『時分の花を咲かそう-差別解消の主体を育てる部落史学習を求めて-』の内容を批判検証していますが、インターネット上で公開された文章は、すべて<著作物>として認められています。

この著作物、不特定多数のために公開されるのが常ですが、藤田孝志氏のこの講演録も、インターネット上の<著作物>として一般に公開されたものです。

<著作物>は、一定の条件のもとで、自由に引用することが許容されていますが、筆者が、岡山の中学校教師・藤田孝志氏の講演録の内容を<批判・検証>することは、著作権法の許容の範囲です。

さて、岡山の中学校教師・藤田孝志氏にとって、<部落史学習の目的>とは何なのでしょうか・・・?

筆者が、あらためて、このような問いを立てるのは、藤田孝志氏が、その講演において、その講演の聴衆である、佐賀市の小学校・中学校の教師の方々に対して、<部落史学習の目的>を、「明確に・・・自覚」することの「大切」さを力説しておられるからです。

部落史学習において、その目的をどのように設定するか、藤田孝志氏は、「すごく問題であり、大切なことだ」といいます。

筆者、無学歴・無資格、教育学・歴史学の門外漢であり、岡山の中学校教師・藤田孝志氏の教育学・歴史学領域の専門用語を理解するに疎いものでありますが、部落史学習だけでなく、その他の授業科目の学習内容においても、授業の「目的」は、常に明確にされた上で、授業が行われていると思っていますが、しかし、藤田孝志氏の言葉によりますと、「目的」を持たないで、あるいは、「目的」を明らかにしないでなされる部落史学習も少なくないようです。

「目的」のない部落史学習とは、どのようなものなのか・・・?

筆者の、部落史研究・部落史教育の「師」である、元山口県文書館の研究員・北川健先生も、部落史学習に際して、「その目的と課題を明確に確認し、また学習の内容が充分それに相応したものとなっているかどうか不断に吟味検討していくこと」の大切さを唱えておられます(《郷土に関する近代部落史学習の意義と課題》)

部落史学習においては、「「何のためにこの史実をとりあげるのか」「この史実を通していったい何を云おうとするのか」、そういったことが具体的、真剣に検討されなければならない。」といいます。

なぜ、部落史学習に際して、あえて、学習の目的と検証が要求されるのか・・・?

北川健先生は、それは、部落史学習が「双刃の剣」になる可能性があるから・・・、といいます。教師自身によって、「差別解消」のために部落史の学習を実践していると自覚されていても、その自覚に反して、その部落史の学習がそのまま、差別的授業・・・、と受けとめられる場合も少なくないからです。

北川健先生は、「たとえば、歴史を踏まえての問題提起がなされても、郷土の歴史が広く明らかにされえない山口県の状態では、「あんなことはよその地方の、それも極端にひどい例だ。山口県ではそんなことはない」などというような、何の根拠もなく問題を矮小化する云い方が結構まかり通っているという事態がある・・・」といいます。

部落史学習が、「差別解消」ではなく、差別の拡大再生産に堕さないためにも、部落史学習の「目的」を明確にすると同時に、その部落史学習の授業実践において、どのような指導がなされ、生徒にどのような知識と意識の変革をもたらしたのか、常に「検証」が必要になってきます。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏は、部落史学習の目的は、その講演題にも示されているように、「差別解消の主体を育てる」ことにあります。

「差別解消の主体を育てる」とは何を意味するのでしょうか・・・?

2001年佐賀市同和教育夏期講座の講演録を読む限りでは、「差別解消の主体を育てる」という<課題>は、中学校における部落史学習の指導の<主体>である教師・藤田孝志氏と、その指導に服することになる、部落史学習の指導の<客体>である、そのクラスの生徒に<共通>した課題のようです。

藤田孝志氏は、その生徒に先立って、「差別解消の主体」者になっている・・・。その知識と経験を生かして、藤田孝志氏は、部落史学習の授業を通して、そのクラスの生徒を、「差別解消の主体」になるべく<招いている>と思われます。

藤田孝志氏は、その部落史学習の授業実践において、生徒たちに、このように話しかけるといいます。

「差別を僕といっしょになくしていこうや」。

藤田孝志氏が、部落史学習の先進的指導者として、「差別解消の主体」であるという自負心のもとに、そのクラスの、被差別部落出身の生徒やそうでない一般の生徒を含めて、藤田孝志氏と同じような「差別解消の主体」になりましょうと、呼びかけているのです。

講演録によりますと、藤田孝志氏の「差別解消の主体」というのは、<部落解放の主体>になることを意味します。

藤田孝志氏が、そのクラスの被差別部落出身の生徒に、<部落解放の主体>になることをすすめるのはなにとなく理解することができますが、被差別部落出身ではない、一般の生徒に対しても、同じ指導をされることは、どうように解釈すればいいのでしょうか・・・。そんなこと、可能なのでしょうか・・・?

岡山の中学校教師・藤田孝志氏によると、岡山の中学校においては、その部落史学習の授業において、被差別部落出身ではない、一般の生徒に対して、<部落解放の主体>になるように指導することが許容されているようです。

このことに含まれている問題は、あとで詳細に論じるとして、岡山の中学校教師・藤田孝志氏のいう部落史学習の目的としての「差別解消の主体を育てる」こと、その中で使用されている「差別」について、藤田孝志氏がどのように認識されて、部落史学習の授業実践をされているのか、批判・検証してみることにしましょう。

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