2021/10/01

ある「旧穢多」の群像(部落地名総鑑・人名総鑑の問題の中で・・・)

ある「旧穢多」の群像(部落地名総鑑・人名総鑑の問題の中で・・・)

「M源兵衛・Y新蔵・・・」

インターネット上で、この節に関連したページを検索していて、上記のような表現に遭遇しました。そのページは、著名な部落史研究者の書いた文章の1節ですが、この人名表記方法を前に、少しく考えこまざるをえませんでした。

その部落史の研究者は、なぜ、「M源兵衛・Y新蔵・・・」と「旧穢多」の名前の姓を「M」だの「Y」だののイニシャルで表現したのでしょうか。部落史の世界に、通説・俗説の世界から一歩でも踏み込めば、その「M」・「Y」が「毛利」・「吉富」のイニシャルであることはすぐにわかってしまいます。それなのに、なぜ、あえて「M源兵衛・Y新蔵・・・」と表現したのでしょうか。

昨今、「部落地名総鑑」や「部落人名総監」のことが話題になっているようですが、どちらかいいますと、問題の本質に迫らないで、いたずらに、部落解放同盟方々と反部落解放同盟の方々との間で、「部落地名総鑑」や「部落人名総監」をめぐって、皮相的な批判の応酬合戦が続いているようです。江戸の敵を長崎で・・・みたいな、復讐的発想に満ちたやりとりに、この国と社会の精神的な貧困さを見てしまいます。

「部落地名総鑑差別事件」に関する文章(部落解放研究所編『部落解放史』熱と光を・下巻)に、部落地名総鑑に関する定義が出てきます。

「地名総鑑とは、全国で5300を越す部落の地名と所在地、戸数と主な職業を都道府県別に編集し、1冊の本にまとめたものの総称で、今日までに発覚しただけで9種類に及んでいる」。

「総称」としての「地名総鑑」は、(1)全国の部落について言及している、(2)都道府県別に編集されている、(3)「地名」・「所在地」・「戸数」・「主な職業」が掲載されえいる、(4)1冊の本にまとめられている、(5)複数種類存在する・・・、という属性でもって定義されています。

部落解放同盟が「部落地名総鑑差別事件」として「地名総鑑」を差別文書として告発するとき、その「地名総鑑」は、すべて、上記の(1)~(5)の条件を満たしているということになるでしょう。

「地名総鑑とは・・・」の定義の中にでてくる「部落」とは何なのか・・・。

『部落解放史』の表現はあいまいです。最初にその存在が確認された「部落地名総鑑」は、1975年の『人事極秘部落地名総鑑』です。そのあと、あいついで『全国特殊部落リスト』(第2)・『全国特殊部落リスト』(第3)・『大阪府下同和地区現況』(第4)・『日本の部落』(第5)・『特殊調査報告書』(第6)・『まる特分布地名』(第7)、1978年には『同和地区地名総鑑』(第8)の存在が明らかにされました。第9番目の地名総鑑は、その一部をコピーしたものです。

「地名総鑑とは・・・」の定義の中にでてくる「部落」とは、「特殊部落」および「同和地区」のことであることがわかります。「特殊部落」の前の「旧穢多村」に関する地名総鑑は、「部落地名総鑑」に含まれていないようです。

上記9つの「部落地名総鑑」のうち、上記「地名総監」の定義に違背しているのは、第4の「地名総鑑」である『大阪府同和地区現況』です。『大阪府同和地区現況』は、表題の文字通り、大阪府にのみ限定されたもので、「(1)全国の部落について言及している」という要件を満たしていません。しかし、部落解放同盟は、『大阪府同和地区現況』を「部落地名総鑑」のひとつに数えました。

『部落学序説』の筆者は、この『大阪府同和地区現況』の内容について一切情報をもっていませんので、それがどういう類の資料なのかまったくわかりません。

山口県にも《同和地区の概要》という文書があって、そこには、「部落地名総鑑」の内容と重なる記述が多数みられます。もちろん、この《同和地区の概要》という文書は、山口県と山口県教育委員会が、同和対策事業・同和教育事業のための基礎資料として作成したもので、上記の差別文書である9つの「部落地名総鑑」と同一視することはできません。

文書の表題は同じでも、誰が何のために作成したか・・・によって、その文書は、同和対策事業・同和教育事業の基礎資料、あるいは部落解放運動の組織化と運動の推進のための基礎資料になる場合と、被差別部落のひとびとを就職・結婚時に差別するための「部落地名総鑑」になる場合に分けられることになります。

昨今の「部落地名総鑑」に関する問題提起・議論は、両者が安易に混同されて、意図的にセンセーショナルな報道合戦が行われているようで、『部落学序説』の筆者としては、この節で、関連史料を引用するときの時代的状況・環境は決してこのましいものではありません。

部落解放同盟の方々から、筆者に対して差別的であると指摘のあった、被差別部落の「地名」・「人名」に関する「禁忌」(タブー)視の問題について、すでに『被差別部落の地名とタブー』と題して「反論」・「弁明」・「言訳」をしてきましたが、今回、「旧穢多」の群像(地名・人名)について具体的にとりあげることになるので、もう一度、「部落地名総鑑」・「部落人名総鑑」について、より、実践的に確認しておこうと思ったわけです。

『部落解放史』によると、1982年、「高知県の8つの市の家族名簿が販売されていることが発覚」したそうです。筆者が、下松市の、当時現役であった職員の方からいただいた「下松市末武地区世帯主名簿」の中から、被差別部落の住人だけを取り出せば、「家族名簿」といわれる「部落人名総鑑」ができあがるのでしょうか・・・。『部落解放史』は、「部落地名総鑑」については定義していても、「部落人名総鑑」には一切定義をしていないようです。「部落人名総鑑」は、それが全国・都道府県レベルだけでなく、市町村レベルで流布されてもより深刻な差別状況を生み出します。市町村内の個々の被差別部落のレベルでの「部落人名総鑑」についても同様です。

今回、『部落学序説』で、「「旧穢多」の精神史的考察」を考察する際に使用する史料には、「旧穢多」の地名・人名に関するリストが含まれています。

当然、『部落学序説』の筆者としても、その史料に出てくる「旧穢多」の地名・人名の取り扱い方について、過去、どのような取り扱いかたがされてきたのか・・・、調べることになります。

その結果、遭遇したのが、「毛利源兵衛・吉富新蔵・・・」と記すべきところを、あえて、「M源兵衛・Y新蔵・・・」とイニシャルまじりに表現した部落史研究者(石瀧豊美:研究分野 近代史・教育史・地方史・部落史の研究者、明治維新史学会・教育史学会・軍事史学会・社会経済史学会九州部会・福岡地方史研究会・福岡県地域史研究所に所属、福岡地方史研究会会長・福岡県地域史研究所研究員・福岡教育大学非常勤講師で「部落解放論」を教授されている)の表現です。

なぜ、「毛利源兵衛・吉富新蔵・・・」と記すべきところを、あえて、「M源兵衛・Y新蔵・・・」と記す必要があったのでしょうか・・・。

部落研究・部落問題研究・部落史研究に際して、「フィールドワーク」(現地調査・被差別部落探訪)を実施しようと思えば、「毛利源兵衛・吉富新蔵・・・」の現在の子孫と直接つながってくるためでしょうか・・・?

『部落学序説』でいう「旧穢多」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として、その職務に忠実に生きたひとびとで、「毛利源兵衛・吉富新蔵・・・」もその「旧穢多」に数えられるべきひとです。

「毛利源兵衛・吉富新蔵・・・」は、小川順藏・古賀菊次・古賀斉基地・島津覚念・梅津和三郎・松田太平次・村井元半七・本田茂次郎・沢田甚之十・川越新次郎・津本茂八郎・津本亦次郎・巌平次・巌金次・樋口関蔵・小川為次郎・小川森次郎・古賀京太郎・松田松次・吉田和吉・金沢安兵衛の21名の「旧穢多」と共に、「旧穢多」とは何であるか・・・、その答えを内蔵する文章を残しているのです。その文章は、彼らの在所まで記されています。その在所名をひろいあげれば「部落人名総鑑」にくわえて「部落地名総鑑」のようなものができあがるでしょう。「小川順藏」を例にとっても、その在所は、「福岡県筑後国御井郡西久留米村千四百九拾七番地」と記されています。

地元福岡県の部落史研究者、しかも、福岡教育大学で非常勤講師として「部落解放論」を指導されている部落史研究者によっても、「毛利源兵衛・吉富新蔵・・・」と実名記載されず、「M源兵衛・Y新蔵・・・」と記号化・暗号化されてしか紹介されない史料というのは、まともな評価がされているのかどうか、疑問が残ります。

『部落学序説』の筆者である私は、上記23名の「旧穢多」に対して、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」的まなざしを向けることなく、彼らを、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として、その「非常民」であるがゆえに、国家・社会から受容・排除を経験せざるを得なかった、「旧穢多」の精神史・・・に光をあてることができるのです。「部落差別」を拡大再生産するのではなく、「部落差別」を根底から解体し、「部落差別」の完全解消にむけた道程の上に、彼らを位置づけることができるのです。

「旧穢多」の地名・人名をかかげて、その存在を記録に残した「旧穢多」23名の意志に敬意を表して、「M源兵衛・Y新蔵・・・」ではなく、「毛利源兵衛・吉富新蔵・・・」として論述していきたいと思います。

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