2021/10/01

「我々」資料と「吾々」資料

「我々」資料と「吾々」資料


「水平社宣言」の原文をどこに求めるか・・・。

そのことによって、「水平社宣言」のどの部分が西光万吉によって書かれ、どの部分が平野小剣によって書かれたのかが大きく別れてきます。

朝治武・吉田智弥両氏は、「崇仁小学校所蔵のビラ」の「水平社宣言」を原文として採用します。

しかし、西光万吉は、水平社創立大会の時には、「水平社宣言」は印刷物としては配布されていないといいますので、筆者は、雑誌『水平』の「水平社創立大会記」に収録されている「水平社宣言」を原文として採用することにしたのですが、両者は、使用している言葉が大きく違う場合があります。

「兄弟よ。我々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であった。」(雑誌『水平』)
「兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であった。」(崇仁小学校所蔵のビラ)

両者を比較すると、すぐに分かりますように、一人称複数の代名詞「われわれ」という言葉は、雑誌『水平』に収録された「水平社宣言」では「我々」が使用されているのに、崇仁小学校所蔵のビラの「水平社宣言」では「吾々」が使用されています。

「我々」を使用しようが、「吾々」を使用しようが、どちらも「われわれ」なので大した意味の違いはない・・・、と主張されたり、「我々」は製版時の誤植に過ぎない・・・、とその違いを過少評価する人々も少なくありませんが、「水平社宣言」の共同執筆者としての西光万吉と平野小剣の文章を比較してみますと、「われわれ」をどちらの漢字で表現するかについては明確に2分されます。

西光万吉は「吾々」のみを使用し、平野小剣は「我々」のみを使用する・・・、という明確な文章表現上の違いがみられます。

この違いに注目するとき、「水平社宣言」執筆において、西光万吉と平野小剣の言葉と思想のどちらがより強く反映されることになったのか、一目瞭然になります。雑誌『水平』に収録された「水平社宣言」は、その文章の大半が平野小剣によるものであると推定することもできるようになります。

雑誌『水平』に収録されている「水平社宣言」では、「われ」ないし「われわれ」という言葉は、全部で9回使用されています。第1番目から第8番目までは「我」ないし「我々」が用いられ、第9番目だけに「吾々」が用いられています。

9番目の「吾々」は次の文の中に出てきます。

「そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである」。

「我々」と「吾々」が文体的特徴をしめしている、言葉の刻印であるとしますと、西光万吉は、平野小剣の「我々」文書を引用、再構成しながら、最後に、「そうして・・・」という文章を、自分の言葉と文体で表現したのではないかという推測も成り立ちます。

「そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。
水平社は、かくして生れた。
人の世に熱あれ、人間に光りあれ」。

雑誌『水平』第1巻第1号に収録された「水平社宣言」の最後のくだりこそ、浄土真宗の僧侶の息子、宗教家の息子であった西光万吉の人となりを伝えている文章になります。そして、「水平社宣言」の末尾のこの言葉こそ、水平運動に携わった人々の心奥に、あるいは、脳裏に深く刻み込まれ、朝治武氏の指摘される「歴史的記憶としての「水平社宣言」」として、「被差別部落」の人々のこころのよりどころ、部落解放運動の「原点」・「起点」になっていったのではないかと思われます。

そうしますと、「水平社宣言」の2資料説を色分けしますと次のようになります。

■「吾々資料」(西光万吉の文章)
■「我々資料」(平野小剣の文章)

宣言

全國に散在する我が特殊部落民よ團結せよ。

長い間虐められて來た兄弟よ。

過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた我等の爲の運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事實は、夫等のすべてが我々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を勦るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際我等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。

兄弟よ。

我々の祖先は自由、平等の渇迎者であり、實行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへクダラナイ嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そうして我々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。

我々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。

我々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。

そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。

水平社は、かくして生れた。

人の世に熱あれ、人間に光りあれ。

大正十一年三月三日 全國水平社

西光万吉は、闘争的な「平野小剣」の運動家としての言葉・文章を引用、再構成しながら、「水平社宣言」の本文を綴り、最後に、浄土真宗の門徒・宗教者に相応しい、祈りの言葉を付加したのではないかと思われます。

「水平社宣言」の西光万吉と平野小剣による共同執筆説・・・、どの言葉と文章が「西光万吉」のものであり、どの言葉と文章が「平野小剣」の文章であるのか・・・、それを確定することは、非常に困難なものがあります。

西光万吉の文章の中には、「私どもは、吾々は、・・・あまりに遅く生まれてきた、等とは云わない。」という表現もみられます。「私ども」という言葉を地の文であるとしますと、「吾々」は引用文に用いられていることになります。

西光万吉は、「水平社」の「宣言」を執筆したのであって、この「宣言」でみずからの思想・信条を綴ったのではないからです。

それに、平野小剣は、「2月26日夜・・・、宣言は西光君が筆をとった。決議もみなで決定したが・・・」と、「水平運動に走るまで」という文章の中で明言しています。西光万吉が、「水平社宣言」の原案を作成し、阪本清一郎・米田富・駒井喜作・桜田規矩三・南梅吉と平野小剣で「協議」されて確定されているので、「水平社宣言」に使用されている言葉や文章の分析は、さらに複雑化、混迷状態に陥らざるを得なくなります。

朝治武氏は、西光万吉と平野小剣の言葉・文章・文体より、両者の思想性を視野に入れて、第7項・「水平社宣言」の2資料説で色分けした「水平社宣言」のように、西光万吉と平野小剣の思想が滲みでている箇所を特定します。

朝治武氏は、その思想性を西光万吉の「人間主義」、平野小剣の「部落民意識」として表現します。次回、「西光万吉と平野小剣」と題して、朝治武氏の主張する「人間主義」・「部落民意識」を批判・検証しながら、『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座から、朝治武説の問題点を明らかにしていきたいと思います。

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