2021/10/01

差別解消の主体者を育てる部落史学習の欺瞞性について 3

差別解消の主体者を育てる部落史学習の欺瞞性について  


2001年佐賀市同和教育夏期講座の講演の中で、その講師の岡山の中学校教師・藤田孝志氏は、「被差別の立場に立つことは自分にはできないのかと悩んだことがあります。」と語っています。

この場合の、藤田孝志氏が使用する「被差別の立場」ということばは、部落差別を受けて、こころに痛みを感じている被差別部落の人々が置かれている立場・・・、という意味で使用されています。いわゆる「被差別の立場」ということばが持っている一般的・通俗的な意味合いで使用されているのですが、藤田孝志氏、この「被差別の立場」ということばを、その講演録の中で括弧付のことば(「被差別の立場」)を使用することがあります。

そのときは、この「被差別の立場」ということばは、藤田孝志氏固有の意味合いをもってきます。

藤田孝志氏固有の同和教育・部落史学習に関する論説の中で使用される括弧付の「被差別の立場」というのは、藤田孝志氏が、かって「被差別の立場に立つことは自分にはできないのかと悩んだ・・・」、その苦悩と戦いの中から紡ぎだしたことばです。

藤田孝志氏は、「われわれは・・・部落の人間になることはできない」といいます。

藤田孝志氏、「そんなことを部落の人間は求めていません・・・」といいますが、それは、被差別部落の一部の人々の見解であって、被差別部落の人々の中には、学歴・資格を持ち、中学校の教師をされ、しかも、部落解放を人間解放を受けとめ、熱い思いをもって、「差別解消の主体者」たらんとする藤田孝志氏のような存在が、「部落の人間」になり、反差別の戦いに共闘してくれることを望む人々も少なくありません。

戦後の部落解放運動においては、「われわれは・・・部落の人間になることはできない」のではなく、熱心に同和教育・部落史学習を実践している、岡山の中学校教師・藤田孝志氏のような人は、是非、「部落の人間」になってほしいと、被差別部落の人々からあつい視線・まなざしをなげかけられているのではないでしょうか・・・。

講演の中で、藤田孝志氏は、かって「被差別の立場に立つことは自分にはできないのかと悩んだ・・・」と語っておられますが、その悩み、少し考えすぎでなかったのではないでしょうか・・・? そこまで、悩んでおられるなら、それを、被差別部落の人々、とくに、岡山で部落解放運動をされている方々に申し出れば、彼らは、よろこんで、藤田孝志氏を、「部落の人間」同様に、それにとどまらず、「部落民」として受け入れてくれたのではないでしょうか・・・?

しかし、藤田孝志氏、「部落外の人間」「部落の人間」になることはできないと堅く信じて、「部落外の人間」のまま、「部落の人間」が立たされている「被差別の立場」を共有しようとします。

この段階で使用されている「被差別の立場」は、一般的・通俗的に使用されている意味としてではなく、藤田孝志氏固有の同和教育・部落史学習の指導理念が反映されたことばになっています。

藤田孝志氏、この「被差別の立場」をこのように、自己了解します。

「被差別の立場」に立つということは、「部落外の人間」である「われわれは・・・部落の人間になることはできない」という現実を受容しつつ、「部落の人間」が置かれている「被差別」と同じ立場に身をおいて、「部落外の人間」「部落の人間」に対して向ける「差別の眼差し、差別の視線」「真正面から受けとめ、そしてその差別と闘っていく」ことと同義である・・・、と。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏にとって、被差別部落出身ではないものが「被差別の立場」に立つということは、差別者が、「差別の立場」から「被差別の立場」に身を移し、被差別部落の人々にかわって、被差別部落の人々に対する差別と闘っていくこと、差別者の「糾弾」に参画していくことのようです。

筆者のものの見方・考え方からしますと、藤田孝志氏がイメージされている「被差別の立場」とは、人権派の弁護士が、被差別者の側にたって、差別者の差別の不合理性・不法性を指摘・糾弾する様に似ています。弁護士が被差別者に代わって、その代理人として、差別者と弁論を交わし、その非を認めさせる様に似ています。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏、「被差別の立場」に立つことは、「差別をなくしていく主体者に自分がなる」ことを意味するといいます。

藤田孝志氏にとって、「部落史学習」の目的は、「差別解消の主体者を育てる」ということですが、「差別解消の主体者」とは、まさに、「被差別の立場」に立つことができる人のことであり、被差別部落の人々に代わって、<代理人>として、被差別部落の人々に対する差別と闘う、「部落解放」にかかわることであるといいます。

藤田孝志氏の、「部落史学習」の目的は、いたって、単純明快です。

藤田孝志氏が、岡山の中学校で教えるクラスの生徒を、「部落外の人間」から、藤田孝志氏がいう「被差別の立場」に身を置く「部落解放」の担い手に仕立てあげることです。藤田孝志氏、「部落差別をなくすということは、すなわち部落解放ということ」であるといいます。

岡山の中学校で実施されている同和教育・部落史学習は、<恐るべき>同和教育・部落史学習のようです。

藤田孝志氏によると、被差別部落出身者ではない一般の生徒を、「被差別の立場」に立つことができる、明日の「部落解放」の担い手として育成しようとするのですから・・・。筆者、藤田孝志氏が、被差別部落の生徒を対象に、明日の「部落解放」の担い手として育てることについては何の問題も感じないのですが、被差別部落出身ではない一般の生徒を、その教育・指導、同和教育・部落史学習によって、部落解放の担い手に育てることについては、非常に大きな違和感を覚えます。

筆者の息子や娘が、中学校教師・藤田孝志氏からそのような教説を吹き込まれますと、<親>として、その<偏向教育>に対して、激しく抗議することになるでしょう。<生徒に差別解消の大切さを教えることは当然であるとしても、被差別部落出身ではない、一般の生徒に、被差別の立場に立ち、部落解放の担い手になることを指導することは、行き過ぎであり、公教育の逸脱行為・背信行為である>・・・、と。

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