2021/10/01

差別解消の主体者を育てる部落史学習の欺瞞性について 4

差別解消の主体者を育てる部落史学習の欺瞞性について  


岡山の中学校教師・藤田孝志氏が、2001年佐賀市同和教育夏期講座の講演の中で語る、その「部落史学習」の目的は、「差別解消の主体者を育てる」こと・・・。

藤田孝志氏にとって、その「差別解消の主体者に育てる」という教育目標は、被差別部落出身の生徒ではなく、一般の生徒を対象に向けられます。「部落外」の生徒が、「部落」出身の生徒と同じ「被差別の立場」に立ち、「部落」出身の生徒に向けられた差別をみずから引き受け、「部落」出身の生徒に代わって、その差別に抗議・批判をしていくことができる主体を育てることを意味します。

藤田孝志氏の考えでは、<「部落外」の生徒は、「部落」出身の生徒になることはできない>けれども、「部落」出身の生徒と同じ「被差別の立場」に立つことによって、「部落外」の生徒を限りなく「部落」の生徒と同じ立場に立たせることができ、その結果として、「部落外」の生徒を「部落差別解消の主体者」に育てることができる・・・、ようです。

『部落学序説』の筆者の目からみますと、藤田孝志氏の論法は、極めて粗雑で荒っぽい論法に見えます。

岡山の中学校の教師・藤田孝志氏自身が、どこまで、そのことを信じているやら・・・。

藤田孝志氏の論法に、一般性・正当性があるかどうかは、藤田孝志氏が、学校同和教育・社会同和教育を離れた家庭の中で、どのような「同和教育」・「部落史学習」を実践されているかどうかで決まります。つまり、藤田孝志氏が、その息子さんや娘さんに対して、「おまえは、部落外の人間であるけれども、部落の人間と同じ被差別の立場に立って、部落差別と闘わなければならない・・・」と教えているかどうかによって決まります。

筆者、岡山の中学校教師・藤田孝志氏については、インターネット上で藤田孝志氏が自ら語ることばを通してしか知りません。人権感覚にとんでおられる藤田孝志氏は、たとえ実の子のことであっても、その個人情報を外部にもらすことはしないでしょうから、藤田孝志氏が、家庭教育において、どのように「同和教育」・「部落史学習」を実践されているのか、藤田孝志氏のHP/BBS/ブログを通じて知ることはできません。

しかし、筆者がいままでであった学校教師は、小学校・中学校・高校・大学の教師の区別なく、ダブルスタンダードで指導されている場合がほとんどです。教室で、学歴差別や学歴主義に対して批判的な指導をされている教師であっても、いざ、自分のこどものについては、学校教師として演じているパフォーマンスを中断し、突然、世間一般の親に戻る教師が少なくありません。幼いときから、英才教育を施し、中高一貫の有名私立や、国公立の進学校や大学に進学させるために、なりふりかまわずそのために奔走する教師の方々も少なくありません。

筆者、同和教育・部落史学習の第一人者を自負する、岡山の中学校教師・藤田孝志氏が、そのようなだダブルスタンダードでじぶんのこどもを育てているとは思えませんので、やはり、藤田孝志氏、自分のこどもを、「被差別の立場」に立たせ、「差別解消の主体者」としてはぐくみ育ててこられたのでしょうか・・・?

しかし、『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、藤田孝志氏が、学校同和教育・社会同和教育だけでなく、家庭教育においても、自分のこどもを「差別解消の主体者」として育てておられたとしても、藤田孝志氏の「同和教育」・「部落史学習」のありかたそのものに疑問を感じてしまいます。

「部落外」の生徒を、「部落」の生徒と同じ、「被差別の立場」に立たせることは、学校教師として、その権威・権力を背景に、そのクラスの生徒に押し付ける精神的抑圧・精神的暴力となるのではないでしょうか・・・? そのような、小学校・中学校の生徒に対して、「部落外」の生徒であるにもかかわらず、「部落」の生徒と同じ「被差別の立場」に立たせられ、「差別解消の主体者」になるべく、そのクラスの生徒を仕立てることは、精神的抑圧・精神的暴力・・・、他のことばに言い換えますと、教師の側からなされる組織的<いじめ>に他なりません。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏の「同和教育」・「部落史学習」の理論と技術は、「詐欺師」のそれに他なりません。

『広辞苑』で「詐欺」ということばをひきますと、このような説明があります。

さぎ【詐欺】①いつわりあざむくこと。②[法]他人をだまして錯誤におとしいれ、財物などをだましとったり、瑕疵ある意志表示をさせたりする行為。

『部落学序説』の筆者の目からみますと、岡山の中学校教師・藤田孝志氏の「差別解消の主体者を育てる部落史学習」の実践は、その中学校教師という、社会的権威・権力をもってする、そのクラスの生徒を<だまして錯誤におとしれ>、「部落外」の生徒であるにもかかわらず、「部落」の生徒と同じ「被差別の立場」にたたせ、その生徒に「被差別の立場」からの「瑕疵ある意志表示をさせたりする行為」の実践に他なりません。

岡山の教育界が、藤田孝志氏の「差別解消の主体者を育てる部落史学習」を承認し、全国の小学校・中学校の教師として送り込み、その詐欺的同和教育・詐欺的部落史学習を<流布>させてことについては、筆者、大いに疑問と失望を感じます。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏は、「文献の時代背景や社会状況、社会通念なども十分に考慮して読解していくことが何よりも重要である・・・。」と指摘されるかもしれませんが、藤田孝志氏が、2001年佐賀市同和教育夏期講座で、『時分の花を咲かそう-差別解消の主体者を育てる部落史学習を求めて-』と題して講演されたその講演についても、「時代背景」・「社会状況」・「社会通念」が存在し、藤田孝志氏のその講演は、それらから強い影響を受けたものであり、藤田孝志氏、一学校教師にその責任を押し付けられるものではないと主張されるかもしれません。

しかし、『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、生徒の主体性を育てる教育者は、みずから主体性を体現していなければならないと考えます。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏が、2001年佐賀市同和教育夏期講座で講演したときも、教育者としての主体性をかけて講演しなければならなかったのであり、安易に、「時代背景」・「社会状況」・「社会通念」を前提すべきではありませんでした。

その当時の、部落解放運動の基本方針・基本テーゼに暗黙裡に依拠したり、「部落民とそうでない者を分ける境界線が曖昧になってきた・・・」として、「部落民」概念の再編をはかり、部落解放運動を恒常化しようとする勢力に追従し、あらたな「部落民」概念としての「被差別市民」(33年間15兆円の同和対策事業・同和教育事業で解放されなかった<遅れた意識>の部落民と、部落出身ではないけれども、部落差別・部落解放と闘う人々で構成される)の担い手を養成すべく、「差別解消の主体者を育てる部落史学習」の普及を目指して音頭をとること、そのこと自体が大きな問題をはらんでいたのではないかと思われます(参考:野口道彦著『部落問題のパラダイム転換』)。

筆者、<詐欺師の弁>と思われるような「被差別の立場」という概念的装置を持ち出すべきではなかったと思われます。それは、結局、「差別するひと」・「差別されるひと」、「差別」・「被差別」の社会的関係をあいまいにすることによって、「被差別民」・「部落民」という概念の外延の拡大にもに奉仕することであり、その存在をあいまいにし、被差別部落のこどもたちから、語るべき先祖の歴史を奪い、過去・現在・未来におけるその歴史的レーゾンデートル(存在理由)・アイデンティティ(歴史的自己同一性)を剥奪することに他なりません。

戦前の学校教育・・・、大日本帝国憲法下のこどもたち(日本と樺太・朝鮮半島・台湾・満州などの植民地)を「皇軍」として戦場へ送り出していった当時の学校教師たち・・・、それは、一教師としてのいとなみではなく、それは、当時の「時代背景」・「社会状況」・「社会通念」に基づくものであった・・・、それらを無視して、一教師個人の責任を問うことは、学校教育の現場に立つ教師に対する不当な批判・介入である・・・、そんな、雰囲気が漂う、<教育界>は、教師としての主体性を自ら放棄して、国家・権力に忠実な<走狗>としてのありようを明言しているのではないでしょうか・・・?

岡山の中学校教師・藤田孝志氏の講演にみられる問題性と、最近マスコミを賑わしている大分県の教職員不正採用事件・汚職事件の闇と、深く、広く、どこかで通底しているように思われます。

『部落学序説』の筆者の「差別」・「被差別」についての認識は、『部落学序説』が「序説」であることを反映して、すでに言明してひさしくなります。『部落学序説』のまえがきの以下の文章をお読みくださればさいさいです。

 ・部落学序説の課題
 ・部落学とは何か
 ・部落学の研究主体
 ・差別・被差別の類型化

筆者の視点・視角・視座からしますと、岡山の中学校教師・藤田孝志氏の「差別解消の主体者」という概念、「差別(真)」(従来の部落解放運動で「差別者」とラベリングされてきた一般の民衆)に「被差別の立場」をとらせることは、「被差別(偽)」(被差別部落出身ではないのに、被差別部落出身者であるかのような言動をとる人々のこと)をすすめることであり、岡山の中学校教師・藤田孝志氏のいとなみは、自ら、<精神的的似非同和>を実践するとともに、その指導に服する生徒をも<精神的似非同和>行為者にしたてあげることに他ならないと思われます。

岡山県の戦後の学校同和教育・・・、最初から、根本的・本質的に間違っていたのではないでしょうか・・・?

藤田孝志氏が、「渋染一揆」をとりあげた「部落史学習」の授業実践で、被差別部落の生徒が、「えた身分の人たちがケガレていることは大きな間違いだと思う。間違っているのは百姓だと思う。」と書いた感想を高く評価して、その問題性に気付かないところに、藤田孝志氏の「同和教育」・「部落史学習」の限界が存在しているように思われます。

藤田孝志氏が、岡山の中学校でそのような、差別的な授業実践をされていたとき、教育界の一般的通念としては、「差別するひと」・「差別されるひと」という二分化的発想を補正すべく、「差別させるひと」・「差別をゆるすひと」・・・などの概念的視野が拡大されてひさしかったのではないでしょうか・・・?

近世にあっては、「百姓が間違い・・・」、近代・現代にあっては、「部落外の人間が間違い・・・」、そこに収斂する、岡山の中学校教師・藤田孝志氏の「同和教育」・「部落史学習」の理論・実践は、最初から、瑕疵ある理論・実践でしかなかったのではないでしょうか・・・?

次回、<偏狭な「差別意識」と「まなざし」理解>を論じて、藤田孝志氏の講演録に対する批判・検証をj継続します。

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