2021/10/03

太政官布告の釈義 5.「身分職業共平民同様」

太政官布告の釈義 5.「身分職業共平民同様」


【身分職業共平民同様】

『脱常識の部落問題』(かもがわ出版)に、小松克己という人の論文が掲載されています。「執筆者紹介」によると、埼玉県の高校教員ということです。彼の見解は、今日の教育者の歴史感覚がどういうものであるのかを示しています。

小松は、「従来の部落問題・部落史の基本的な「枠組み」すらも論議の対象となり深められている」という現状を踏まえて、教育者の立場から、「次のようなことを課題」とすることを宣言します。①同和対策審議会答申の見直し、②近世政治起源説の見直し、③教材内容の見直し。

筆者が問題に感じるのは、②と③です。なぜなら、小松は、間違った歴史認識のもとに、部落史教育の見直しを図ろうとしているからです。間違った歴史認識というのは、「前近代社会」と「近現代社会」の「差」(「種差」の「差」)を、「身分差別を前提とする」かしないかに置いていることです。小松は、「前近代社会」を「身分差別を前提とする社会」と認識し、「近現代社会」を「身分差別を前提としない社会」であると認識します。小松は、身分差別を前提としないのが近代社会の通例である」といいますが、このようなとぼけた歴史認識はどこから生まれてくるのでしょうか。無学歴・無資格の筆者ですら、首をひねりたくなります。

小松は、従来の「貧困と差別の歴史」という視点に加えて、「労働と生産の歴史」・「交友と連帯の歴史」を明らかにする必要があるといいます。小松は、「前近代の部落史を学ぶ場合には、こうした複眼的な学習が欠けがちなので、このことに留意する必要がある。そして、前近代の被差別民が差別の中で、①農業に励み田畑を拡大してきたこと、②社会になくてならない多くの品々を生産・販売してきたこと、③日本の伝統文化とされる数々の芸能のにない手であったこと、④多様な生業を行うことで、江戸期の人口停滞期にも着実に人口を増大させてきたこと、など被差別民本来の姿を把握させることが重要視されなければならない・・・」といいます。

小松にとって、「身分」を考察する上で大切なのは、「役務」より「家業」なのでしょう。「役務」の問題を傍らに押しやった上で、今後の部落史教育の内容として「家業」の方に重点を置こうとします。

小松にとって、「「歴史を学ぶ」ということは現在の視点に立って、望ましい未来を築く展望をもつための学習である。」といいます。その際の重要な教材のひとつとして、「穢多」身分の中にも「医者」がいたことをとりあげます。「武蔵国のある村では、「医道巧者」の「穢多」身分の者が近隣の村人の治療にあたり「重宝」がられていた・・・」という史実をとりあげています。「穢多」の中にも優れた人物がいたということを認識しなければならないということなのでしょうか・・・。小松にとって、近世幕藩体制下の「穢多」は、「賎業」だけでなく、「農・工・商」・「芸能」等に従事していた・・・ということを強調するのです。

小松は、「今もこうした例を地域の史料のなかにうずもれたままにしているのではないか」といいます。確かに、小松が指摘する事例は、日本全国に存在している可能性があります。長州藩の本藩・枝藩とも、同種の事例を確認することができます。

しかし、今日の社会のなかでエリートの職業のひとつである「医者」と、近世幕藩体制下の「医道」に関与した「穢多」とを同一視するというのは、どのような意味をもっているのでしょうか。そのことで、「部落の子どもたち」が、そうだ、自分たちの先祖の中には医者をしていた立派な人もいるのだ・・・ということで、「差別に負けず自信をもった生き方ができる」ようになるのでしょうか。「穢多医者」の末裔の子どもならともかく、そのような先祖を待たない多くの被差別部落の子どもにとって、差別に負けない生き方をする起因になると考えることは難しいのではないかと思います。

ゲーテの『ファウスト』のなかで、ファウストはこのように語ります。「千巻の書物をひもといて、いたるところで人間は苦しんでいる、まれに幸福な人がいた、ということを読めというのか・・・」。千巻・万巻の被差別部落に関する史料を紐解いて、そこに、「まれに幸せな人がいた」という事実を確認しても、そこから、部落差別の完全解消につながる展望は出てこないのではないでしょうか・・・。

小松克己の高校教師としての論法は、知識階級の部落差別問題にかかわるときの、ひとごと・他人事の典型的なものです。教育者にとっての緊急の課題は、「無名の末裔」として生きる多くの被差別部落出身のこどもたちに、彼らの認識を変えるような論法を提供することにあるのではないでしょうか。

ちなみに、長州藩の枝藩である徳山藩においても、「穢多」が「医者」をしていたという事例もあります。その際の「穢多医者」は、今日でいう、「警察医」に該当します。凶悪犯の捕亡に際しては、同心・目明し・穢多・非人が動員されますが、その際、凶刃によって負傷する者がでてきます。その「非常時」に、現場に動向して、負傷者の手当てをしていたのが、「穢多医者」(近世幕藩体制下の警察医)であったのです。緊急事態の場合、武士・百姓・町人も「穢多医者」の世話になったし、「穢多医者」の方も、その職務に対する責任感から、惜しみなく武士・百姓・町民に医術を施したことでしょう。「穢多医者」が緊急医療だけでなく、風邪や腹痛など一般的病気まで診るようになると、当時の医者の組合から、藩に対して、「穢多医者」の医療行為を制限してほしいとの訴えがだされたと思われます。徳山藩の場合、「牢番医」も「穢多医」にはいりますが、徳山藩の場合、身分は「穢多身分」ではなく、「百姓(町人)身分」が兼務していました。

筆者は、重要な問題(「役務」に関する問題)をそのままにして、周辺的な問題(「家業」に関する問題)に膠着する方法では、本当の問題解決にはいたらないと思います。

小松の、近世幕藩体制下の「穢多」の職業(家業)を、限りなく、「農・工・商」の職業に近づけて解釈する論法から、明治4年の太政官布告の「身分職業共平民同様」にするとの布告はどのような意味を持つことになるのでしょうか・・・。小松の『脱常識の部落問題』(かもがわ出版)に収録された論文は、中途半端に歴史を研究している高校教師の「遊び」・「思いつき」以外のなにものでもありません。部落差別の解消どころか、部落差別の本当の淵源(政治起源)を否定し、近現代国家権力を部落差別に対する責任から無条件に免罪する営みに堕することになります。差別問題に取り組むものが「権力の走狗」のような発言をすることは好ましくありません。

小松は「被差別部落の起源がきちんと把握できないと、部落問題は解決できない」といった一面的な思い込みこそ問われなければならない」といいますが、筆者は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」という枠組みを温存しているかぎり、小松の論法は、歴史学者・研究者としても、歴史教育者としても、被差別部落の子どもたちに、部落差別からの本当の自由・解放を教えることはできないと思われます。

小松克己のような発想を持つ高校教師は、埼玉県だけでなく、山口県においても多数みられます。

『部落学序説』の立場から、明治4年の太政官布告の「身分」・「職業」という表現について、より詳細な検証が必要なようです。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...