2021/10/02

旧穢多を近代警察から排除する大久保利通の政策

旧穢多を近代警察から排除する大久保利通の政策

(旧:近代警察における「番人」概念の変遷 その11)

明治6年政変、政敵・江藤新平を「除族のうえ、斬首梟首という極刑」(毛利敏彦著『明治六年政変』)に処した大久保利通は、明治新政府内における権力を一身に集め、大久保独裁体制を構築していきます。

「明治6年政変」というクーデターによって、政敵・西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣等を排除した大久保利通は、明治6年11月、自らが設置を提案した(海外視察から帰ってきた川路利良の建議を採用する形で・・・)内務省の内務卿に就任します。

大久保利通は、明治7年(1974)1月10日「内務省職制及事務章程」を制定、司法卿・江藤新平が司法省に設置した「警保寮」を内務省に移管させます。江藤新平が、司法省(「司法権」)の下に帰属させた警察機構を、大久保利通は、内務省(「行政権」)に帰属させるのです。

「警保寮」の司法省から内務省への移管は、単なる行政改革・組織変更ではなく、近代日本の警察制度を決定的に方向づけるものでした。それ以降の近代日本の警察システムは、「行政権」に帰属し、国内政治を担当する内務省に集中されることになるのです。江藤新平が意図していた法の番人としての警察ではなく、権力の番人としての警察が成立することになるのです。このことが後の時代にどのような影響力をもっていったのか、戦前の特別高等警察(政治警察)の実態をみればすぐにわかります。

大正14年(1925)2月、政府は、「治安維持法」を議会に提出します。「貴・衆両院では、学問、言論を圧迫する悪法案だと反対があり、議会外では、労働組合、社会主義団体から新聞記者、学者、弁護士らが、「日本始まっていらいの悪法案」だと、かってない大規模な反対運動を展開したが、3月には議会を通過、4月公布された。・・・政府は、労働者、農民の運動は弾圧しない、学問研究は本法によって妨げられない、「まじめな社会運動」は差し支えないと弁明したが公布の年の12月、まず学生の社会科学研究運動が治安維持法適用第1号になった。続いての弾圧が・・・千数百人にのぼる大検挙であった。」(松尾洋著『治安維持法と特高警察』教育社歴史新書)。

昭和11年(1936)には「思想犯保護監察法」が公布され、「保護司」に「思想犯」を監視させ、政治団体だけでなく文化団体・宗教団体まで弾圧の対象にされていきます。

『治安維持法と特高警察』の著者・松尾洋は、「明治維新いらいの日本の政治構造の特質からきている」と指摘していますが、『部落学序説』の筆者は、日本の近代警察が、時の政府の「権力の走狗」と化し、民衆の弾圧機関になってしまった発端は、「明治6年政変」、大久保利通による謀略と暴力による権力奪取にあると思っています。

司法卿・江藤新平のもとで、窮地と失脚の淵にたたされた「山城屋和助事件・三谷三九郎事件の山県有朋、尾去沢銅山事件の井上馨、小野組転籍事件の槙村正直・・・と、汚職・不祥事を続出させていた長州藩は・・・罪責をうやむやに」され、「没落寸前の淵から這い上がる」ことができたといわれます(毛利敏彦)。大久保利通が、「警保寮」を「司法省」から「内務省」に移し、近代警察システムを「行政権」に帰属させた直接の効果でした。

大久保利通は、「警察システム」を自己の支配下に置くことで、大久保独裁体制(「有司専制」)を確立していくのです。

司法省は、明治6年6月、次の太政官布告を出します。

「従来各地方ニ於テ、邏卒又ハ取締組或ハ捕亡吏等ノ名称ヲ以テ其実番人ノ職ヲ奉ジ居候類ハ都テ番人ト改称致スベク、此旨相達候事」。

この布告によって、「邏卒・取締組・捕亡吏」と「番人」の職務内容が区別され、「番人的職務を担うものは「番人」と称するよう」命じられたのです。司法省は、「番人」の称を嫌う地方からの訴えをすべて退け、「「番人」というのは全国共通の名称であって、地方が勝手にかえてはならない」と命じるのです。

近代警察システムである「警保寮」を帰属させた内務省は、明治7年4月、司法省が設定した警察官の「番人」呼称の全国強制を撤回するのです。ただ、「番人」という呼称を廃止しただけではありません。司法省の近代警察機構構築における、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての「旧穢多・非人」をも、再び排除しようとするのです。

「旧穢多・非人」は、「司法省・江藤新平」対「内務省・大久保利通」という権力抗争の中で「浮沈」の憂き目にあうのです。「江藤新平」の政策によって「浮」の状態に置かれた「旧穢多・非人」は、「大久保利通」の政策によって「沈」の状態に追いやられるのです。近代日本の警察として、近世幕藩体制下の司法・警察であった「旧穢多・非人」の人材・知識・技術が必要不可欠であったにもかかわらず・・・です。

明治7年1月、司法省が作成した「警察規則案」の配布を不許可にし、明治8年3月「行政警察規則」をあらたに制定させます。明治6年6月の「警察規則案」は、「幻」の「警察規則」として終わってしまうのですが、それとともに、司法卿・江藤新平が予定していた、近世幕藩体制下の司法・警察に従事していた「旧穢多・非人」の近代警察システムへの組み込みは、表向きは中止されてしまいます。法律上「番人」の存在も否定されてしまうのですが、しかし、彼らの近世幕藩体制下300年間に渡って培われ継承されてきた専門的知識と技術なしでは近代警察システムを充分運用することができないと悟った政府は極めて「いびつな形」で、彼らを近代警察システムの中に組み込むのです。

筆者の造語である「半解半縛」ということばでしか表現できないような複雑な関係におかれるのです。そのことが、やが、現代の部落差別の「難解さ」に通じていくのです。(続)

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...