2021/10/02

川路利良の指摘する「卑弱の傭夫」は旧穢多にあらず

 川路利良の指摘する「卑弱の傭夫」は旧穢多にあらず

(旧:近代警察における「番人」概念の変遷 その12)

司法卿・江藤新平の命を受けて、西欧の警察制度の調査に渡欧していた川路利良は、帰国後、江藤新平の政敵となった大久保利通の内務省下の「大警視」(東京警視庁のトップ)として活躍することになります。

川路利良は、帰国後明治6年10月「警察制度につき建議」を提出します。川路は薩摩藩の下級武士であったためか、速やかに江藤新平から離れて、同じ薩摩藩出身の要職、内務卿・大久保利通に加担することになりますが、大久保利通は、政敵・江藤新平の存在だけでなく、その業績をも抹消して歴史から消し去ろうとします。そして、その一部を、川路利良に帰するのです。

『山口県警察史』によると、「司法・行政両警察の概念と限界が明確化されたことは、わが国の警察が司法警察の領域にとどまらず、1歩前進して行政警察の分野へと発展していったことを示すものである。司法警察と行政警察の区分は、1795年のフランス刑法に由来するといわれるが、これをわが国に制度化したのは川路利良の建議によるもので、彼の大きな功績である。」といいます。

川路利良には、「日本警察の父」という栄誉が与えられますが、かなり、大久保利通の後押しがあったのではないかと思われます。

『山口県警察史』は、そのことばに続けて、このように記しています。「しかし、最初にこれを区別したのは明治5年8月に司法卿江藤新平によって制定された「司法職務定制」であった・・・」。

『部落学序説』の筆者は、『山口県警察史』のこういう歴史記述を高く評価しています。「明治6年政変」、「江藤新平」対「大久保利通」の権力闘争を描くにあたって、できるかぎり両者を公正にみようとする姿勢がうかがえるからです。『山口県警察史』の執筆者の、公正な歴史感覚は、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常・民」としての「穢多・非人」について、また、明治以降のその消息について、その歴史のあとをたどることができるように、その歴史を執筆しているところなどにも見られます。

『山口県警察史』は、筆者の目からみると、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常・民」としての「穢多・非人」について、差別的まなざしを向けることのない希有な歴史の書であるといえます。「賤民史観」の極めて希薄な論文であるといえます。

フランス人法学者ジュ・ブスケや司法省官僚・福岡孝弟等の名前は出てきませんが、『山口県警察史』の記述から容易にたどりつくことができます。

川路利良の「警察制度につき建議」の中に、司法卿・江藤新平のもとで設置された「番人制度」への全面的な批判が出てきます。川路は、「番人」を「卑弱の傭夫」と呼びます。「番人」とは、東京府下に配置された1200人の、司法省警保寮の監督下にある「番人」のことです。その大半は、近世幕藩体制下で司法・警察に従事していた「穢多・非人」の類(自身番・番太等も含む)ではないかと思われます。

川路は、そのような「番人」に、日本の首都・東京の治安をまかせるのは、国内外に対して「体裁を失する」に等しいというのです。川路は、司法省が設置した「番人制度」の廃止を建議するのです。そして、「卑弱の傭夫」(「番人」)を廃止し「邏卒」を採用することを提言するのです。

筆者は、川路の文章を読みながら、ほんとうに、「番人」は「卑弱の傭夫」たりや・・・、と自問自答するわけです。

「部落学の祖」川元祥一も、その著『部落差別を克服する思想』の中で、この点に着目し、「その判断は性急だし、一方的というものだ。」と反論します。

川元が川路説を批判する理由は、近世幕藩体制下の司法・警察に従事していた「穢多・非人」は、犯人逮捕のため、日頃から「武術、捕術、十手術」というものを「訓練」していたし、中には「道場」(当時の警察官養成学校)を開いている村もあったといいます。

「関東地方(関八州)では、よく知られている「馬庭念流」の免許皆伝を取った被差別者の名が300人、被差別部落の石碑に残されている」といいます。広島県・長野県でも類例が見られるそうですが、筆者が遭遇した資料でも、山口県・愛媛県でも類例を文献上確認することができます。「このようにして身につけた術や経験」を評価しない川路に怒りに似た思いさえ抱く川元ですが、川路利良の「警察制度につき建議」という文章をよく読んでみると、川路と川元の間に、若干認識に違いがあるような気がします。

川路はこのように語ります。

「我国各国トノ交際ハ自主独立ト称スト雖ドモ、其実ハ所謂半主ナルモノニシテ、間々属国ノ体裁ヲ免カレザルモノアリ。如何トナレバ、横浜ニ各国ノ国旗ヲ掲ゲ其兵卒ヲ置キ、府下ニ外国人跋扈不法アリト雖ドモ之ヲ国法ニ処スルノ権ナク、甚シキニ至テハ外国人府下ノ番人ヲ捕縛スルニ至ル。此等数件ヲ以テ観ルトキハ国ニシテ国ヲ為サズ、実ニ浩歎長大息ス可キノ極ミタリ。コノ国辱ヲ雪ガント欲セバ・・・(筆者注:「卑弱の傭夫」、つまり「番人」を廃止し)・・・強幹ノ邏卒ヲ置」くこと「目前ノ急務」である。

川路の建議文を読んでいると、「卑弱の傭夫」とは、「番人」(旧穢多・非人)のことを指しているより、当時の日本国家、明治政府、大久保利通等の政府要職、川路利良等の官僚の「現実」を表現しているように思われてなりません。

日本に駐留している外国人兵士が窃盗・殺人等の犯罪を犯しているのを、「番人」が現行犯逮捕して連行しようとしたとき、その駐屯地から銃剣で装備した外国の軍隊(兵士)が出てきて、犯罪を犯した外国人兵士だけでなく、それを逮捕しようとした日本人「番人」までその駐屯地に連行されていってしまう・・・。それもそのはず、日本人が外国人に対して危害を与えた場合、多額な賠償金を請求されることを恐れた明治新政府は、「番人」に剣・銃を持たせず、ただ「棒きれ」を持たせたに過ぎないのですから・・・。「番人」がどれだけ、伝統的な「武術、捕術、十手術」を身につけていようと、外国の駐留軍に銃器を突きつけられて、犯罪を犯した外国人兵士を奪取・連行されても、日本人「番人」は為す術がなかったことでしょう。「卑弱の傭夫」とは、不平等条約改正に失敗した大久保利通や、その官僚の川路利良に他ならなかったのです。

責任をもっともな理由をつけて他者に転訛するのが当たり前のように行われていた明治新政府の中で、明治新政府の警察システムの不備と限界を「番人」に押しつけるなど、朝飯前だったのでしょうか・・・。やがて、明治新政府は、警察官の一部に「帯刀」を許可します。しかし、同時に「抜刀」を禁止します。「抜刀」するときには、上使の許可が必要になります。上使の許可がないとき、銃・剣を振りかざし凶行に及ぶ外国人兵士に「抜刀」できない点では、棒切れをもった「番人」と、その「卑弱」さにおいて何ら違いはないと思われます。

やがて大久保独裁政権は、切り捨てた「旧穢多・非人」の「非常・民」としての専門的知識と技術・経験に頼らざるを得ない事態に遭遇することになります。大久保独裁政権は、その政敵・江藤新平の政策のただしかったことを事実として認めざるを得なくなります。(続く)

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