2021/10/03

キリシタン弾圧、真宗の関与、外交問題への発展

キリシタン弾圧、真宗の関与、外交問題への発展

史料集に『大阪の部落史』(解放出版社)があります。その「第4巻(資料編・近代1)」を発刊に際して、編集を担当された北崎豊二・大阪経済大学名誉教授が、インターネット上でこのような発言をしています。

「なぜ1868年から始めて、「解放令」が出された1871(明治4)年から始めなかったのか。これについては編集委員会でも議論がありました。しかし、私は1868年説を強く主張しました。というのは、これは「五カ条の誓文」に関係します。ご存じのように「五カ条の誓文」は、明治天皇が維新政府の基本方針を天地神明に誓うという形式で公表したもので、その中に「旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ、天地ノ公道二基クベシ」という条項があります。これがその後の部落問題の展開にかなりの影響を与えていると思われます」。

部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究者・教育者の間で支配的な、近代部落史の起点を「明治4年の太政官布告第61号」に置く考え方は、今もなお健在なようです。北崎は、そのような潮流の中にあって、明治4年を遡る明治元年の「五カ条の誓文」に、行き詰まっている部落史研究の活路を見いだそうとしているようですが、明治元年の「五カ条の誓文」に固着することによって、一般説・通説とは、その内容において大差なさそうです。

『大阪の部落史』の「第4巻(資料編・近代1)」の内容は8章から構成されていますが、明治元年から明治4年までの史料は、「第1章 地方行政の中の部落」の中に20の史料が集中的に収録されています。『部落学序説』の立場からみると、20の史料の中で、「旧穢多」に直接関係する史料は、13にとどまります。その他の2章~8章までに収録されている史料は20ありますが、やはり、「旧穢多」とは関係がない史料も相当数含まれています。

「第8章 ゆるぎない信仰」の中で、浄土真宗門徒による「キリスト教伝道者に対する妨害や暴行」事件について、北崎は、「両者の宗教的体質の相似性ゆえの衝突」として認識しています。

しかし、明治初年代になされた浄土真宗によるキリスト教排撃の動きは、「両者の宗教的体質の相似性」が引き起こした私的「衝突」・・・として受け止めることが、果たして、歴史の事実にかなっているのでしょうか。

「旧穢多」の多くは、近世幕藩体制下においては、浄土真宗に所属していました。彼らの菩提寺は、浄土真宗の「穢多寺」・「茶筅寺」と言われた寺でした。浄土真宗は、近世幕藩体制下において、キリスト教排撃と弾圧の要として、積極的に幕府に貢献してきました。長州藩においても、幕府同様、浄土真宗の持っているキリシタン排除の思想の故に、浄土真宗を優遇してきました。

明治元年から明治4年までの「旧穢多」は、近世幕藩体制下の「役務」に従事し、キリシタンに対しても、宗教警察として取り締まる側、「糾弾」・「きよめ」をなす立場にいました。北崎は、「幕末の開国以来キリスト教の進出に対して、真宗を中心に排耶論が展開された」といいますが、浄土真宗は、「排耶論」を論じただけでなく、その傘下の宗教警察である「穢多」を通して、直接、キリシタン弾圧に関与していたのです。

キリシタン弾圧を含むキリスト教に対する攻撃は、「両者の宗教的体質の相似性」に基づくものではなく、「非常民」(近世幕藩体制下の宗教警察)による「常民」(キリシタン)に対する官憲による迫害として遂行されたのです。

『大阪の部落史』(解放出版社)は、部落史研究の史料を選定し直すことで、部落史研究の新たな枠組みをも設定しようとしているのではないかと推測されます。部落差別問題の先進地・情報発信地としての『大阪の部落史』に新たな枠組みを提示することで、またぞろ、近代部落差別の本当の淵源を覆い隠すことにつながるのではないかと、筆者は憂慮します。

近代部落差別の歴史を紐解くものは、「明治4年の太政官布告第61号」から筆を起こすべきである、それ以前に遡っても「明治元年の五カ条の誓文」までに限定すべきである・・・との、意図が見え隠れしているように思われます。

筆者が所属している教団の同和担当部門のトップは、筆者に、「天皇制問題に触れないなら、運動に参加することを許してもいい。しかし、天皇制批判をするなら、一緒にはやれない・・・」と話していましたが、なぜ、部落解放運動に関与する方々(学者・研究者・教育者・運動家等)が、そこまでして、明治天皇制を擁護して、「明治4年の太政官布告第61号」を美化するのか、筆者は不思議でなりません。

のちの時代の人はともかくとして、「明治4年の太政官布告第61号」を出した明治新政府の決断は、迷いが一点もない日本晴れのような決断だったのではなく、その当時の外交・国政上の様々な問題に直面し、やむを得ずとらざるを得なかった苦渋の決断以外の何ものでもないのです。

筆者は、「明治4年の太政官布告第61号」を美化し、理想化して、歴史の事実とは異なる「共同幻想」に埋没することによってではなく、「明治4年の太政官布告第61号」の背後にある明治新政府の苦渋に満ちた決断を分析し、その背後にある政治的意図を明確にすることによって、本当の歴史を明らかにすることができるのではないかと思っています。

『大阪の部落史』(第4巻(資料編・近代1))を読んでいて、筆者は、歴史学の限界を感じてしまいます。部落史研究は、まだまだ夜明け前とほど遠い闇の中を模索する営みをつづけていくのでしょうか・・・。『部落学序説』の筆者である私は、部落史研究家の論文を比較検証していく過程の中で、ほとんどの部落史研究家の論文はその人の主観の産物に過ぎないことに気がつきました。彼らは、自分たちの脳裏にある「部落」を言葉にしているに過ぎないことが分かったのです。筆者は、筆者の主観を前面に出すことなく、その間隙を、歴史学以外の諸科学によって埋めようとしました。歴史学がとりあげることがない2級・3級の史料、あるいは伝承を、研究素材として使用してきました。その結果、明治元年から明治4年までの部落史見直しの史料・資料は、意外なほど豐富に存在していることに気付いたのです。

この『部落学序説』は、いわば、その学的検証作業の中間報告のようなものです。

筆者の『部落学序説』を正当に批判できるのは、山口県の部落解放同盟の方々だけなのでしょうか。彼らは、筆者の『部落学序説』をたたき台にして、より高度な解放理論を構築すると宣言されていますから、やがて、筆者の『部落学序説』を批判的に継承して、被差別部落の側からの「部落学」が登場してくることになるのではないかと面われます。そのときを楽しみに、この『部落学序説』の執筆を続けています。

話を元に戻しますが、幕末・明治期におけるキリスト教と仏教の葛藤は、決して、北崎がいうような「両者の宗教的体質の相似性」に尽きるものではありません。

明治元年(慶応4)3月、明治新政府は、以下のような太政官布告を出します。「切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御禁制タリ。若シ不審ナル者有之ハ其筋ノ役所ヘ可申出、御褒美可被下事」。全国津々浦々にこの高札が立てられるのですが、幕末にその存在が明らかになった「隠れ切支丹」追究の手は、明治新政府成立後に激しさをましていきます。

九州鎮撫総督に随行した大隈重信(早稲田大学創設者)は、このように語っています。「われわれは考えた。キリシタンに臨むに政府の威厳を以てせば、容易に彼らの心を翻すを得べしと。然るに実際之れを糾問するに際し、彼等は一々反抗を為し、且つ此の事のみは官命と雖も決して之に従わざるの決心を示したり。・・・鄙民と想ひしも、・・・未だかって深く其の操志の強固なるものにありしを感ぜずんばあらず」。

明治新政府は、キリシタン弾圧(キリスト教迫害)に対して激しい批判を受けたとき、姑息な方法で事態の解決を図ろうとします。それは、高札の「切支丹邪宗門」は、「切支丹と邪宗門」の意味で、「切支丹」だけを禁止したわけではないと説明します。しかし、そのような詭弁が外交上罷り通ることはないのですが、「切支丹邪宗門」が「切支丹」と「邪宗門」に分離されたことで、1.明治新政府は「切支丹」を「邪宗門」として認識していない、2.明治新政府のいう「邪宗門」は浄土真宗のことであるという、新たな誤解が生じるのです。浄土真宗側は、明治新政府に激しく抗議を展開します。

海老沢有道・大内三郎著『日本キリスト教史』によると、明治新政府のキリシタン弾圧の背景にある、「国民の各層をおおっているキリスト教邪観の動向」を見逃すことができないといいます。明治新政府は、「キリシタン禁令を解除して国民の不評を買う」ことはできないといいます。

大隈重信は、九州鎮撫総督沢宣嘉と共に、「慶応4年2月に浦上のキリシタンを捕らえ、4月には戸主180名を呼び出して棄教を命じたが、聴きいれないことがわかると、13名を処刑にした」(安丸良夫著『神々の明治維新-神仏分離と廃仏毀釈』岩波新書)といいます。諸外国の度重なる抗議にもかかわらず、明治新政府は、同年5月には、木戸孝允を送り込んで、「キリシタン114名を津和野、福山、長州の3藩に流す」ことを決めのです。

しかし、信仰告白をするキリシタンはあとをたたず、明治2年12月初旬には、「キリシタン3434人を捕らえて18藩に送るという処置がとられた」(安丸)といいます。「幕末の排仏論に対抗した仏教徒」(安丸)は、明治新政府に自己の存在を示す絶好の機会としてとらえ、自ら、キリスト教弾圧加担を申し出るのです。両本願寺は「朝廷に忠誠」を誓い、「膨大な献金」を行ない、自らを明治新体制に順応させようとするのです。明治新政府も、「幕末期にキリスト教の教義を研究」していた浄土真宗5派(東本願寺・西本願寺・仏光寺派・専修寺派、錦織寺派)を動員してキリシタンを「教誨」させようとするのです(明治新政府は公的には許可しなかったようですが・・・)。

『耶蘇結末記』(崎陽茶話邪教始末)によると、迫害されたキリシタンは3770人にのぼり、32藩の獄に繋がれたとあります。「太政官代より御達」によると、明治新政府は、「国禁」を犯したキリシタンの仏教への「改心」のめどがたたない場合は「厳刑」に処すべく通達を出しています。キリシタンの「棄教」・「改心」を迫る明治新政府の取った方法は、大隈重信の言葉にでてくる「糾問」(拷問を伴う取調)であったわけです。

明治新政府は、国辱として受け止めていた治外法権撤廃の要件である「拷問制度の廃止」を、キリシタン弾圧という形で、具体的に否定してのけたのです。日本は、外交を結んだ国の文化や宗教を批判し迫害する、国際外交上の道理のわからぬ国・・・として、諸外国に受け止められていきます。明治新政府は、自ら、治外法権撤廃の先送りをしたと批判されてもやむを得ないものがあります。

明治初期のキリスト教と浄土真宗の間の軋轢は、北崎がいうような、単純に、「両者の宗教的体質の相似性」に基づくものではないのです。近代天皇制国家に順応し、自ら服従していく宗教教団の葛藤が背後にあります。

明治新政府が神道を中心とした国家建設を目論んでいることを知った浄土真宗側は、禁制幕藩体制下においてそうであったように、キリシタン弾圧側に身を置くことによって、その保身を図るのです。全国津々浦々にあった、宗教警察機能を担っていた「穢多寺」・「穢多」を動員して、キリシタン弾圧に協力していくのです。

もちろん、宗教警察である「穢多」がなしたことは、当時の法と政策に基づく、キリシタンの探索・捕亡・糾弾・処刑であって、決して、残虐な犯罪行為ではありませんでした。禁制幕藩体制下の司法・警察官として、当然の職務として遂行されていったとおもわれます。長崎にあっては、隠れキリシタンが顕在化するのと同じく、「隠れ穢多」(身分を隠して内偵・密偵をする穢多)もその姿が明らかになるのです。

「穢多・非人」によるキリシタン弾圧は、明治新政府という権力から出された命令に従った司法・警察官の当然の職務として遂行されます。決して、キリシタンを惨殺した五島列島の福江藩郷士のような振舞いはしなかったと思われます。

明治2年12月、キリシタン弾圧に関連して、諸外国から総批判を受けた明治新政府は、それを追いかけるように起こったキリシタン虐殺事件を握りつぶしてしまおうとします。

福江藩郷士、中山文三郎・原広助・宗岩尾・江口清人は、キリシタンの一家を、「皇国」に対する「不埒」と指摘、2、3言葉を交わしたあと、キリシタンを棄教しないことは「(武)士道」に対する侮辱であるとして、百姓・友吉、その女房、虎吉女房・よね、その小さな子供・勇次、その娘・れつを、刀で惨殺し、家を血の海で染めるのです。

長崎県知事は、外国から指摘される前に公表すべきであるといいますが、明治新政府は、隠蔽工作をします。「ばれたらばれたときのこと・・・」、血を流すことに躊躇いをもたない「武士」の本性がここにあります。

そのとき、「穢多・非人」はどこにいたのか・・・。彼等は、司法・警察として、法に忠実に行動していたとおもわれます。「非常民」のよりどころは、「法の執行」です。キリシタン残虐事件の福江藩郷士、中山文三郎・原広助・宗岩尾・江口清人を犯人として逮捕するときには動員されたでしょうが、彼等と一緒になって、キリシタンに私的リンチを加えることはなかったと思われます。

明治新政府は、キリシタン弾圧の理由として、イギリス公使に『浦上村耶蘇教探索書』を提出します。その中で、明治新政府が、キリシタン弾圧の根拠としてとりあげていることがらは、唖然とします。

キリシタンは、隣近所と絶え間なく争いを起こし、「日本の神仏を更に尊敬せず」、「鳥居」ある場所は避けて「左右の畑地を踏み付け」る、死者を出した場合は、「勝手に埋葬」し、墓をつくるときは「横型」にする、葬儀に際して「戒名」代を払わず、農作業するとき「日本の暦」を使わず、「注連縄を門口に張る」ことを忌み嫌う、「病気」になっても「医師」をまねかず、「経文」をとなえ、体を摩って迷信でなおそうとする・・・。明治新政府が真顔で、イギリス外交官に提出したキリシタン弾圧の理由は、このようなものだったのです。このような理由がキリシタン弾圧を正当化できる類のものではないことは言うまでもありません。

明治新政府は、日本の国辱である治外法権撤廃を急いで、このように語ります。「天皇陛下ハ将来設立スベキ法律ニ於テ、外国人民ハ諸事尽ク日本人民ト同等ノ権利ヲ有スル・・・政府ノ威権ヲ以テ生命・・・ヲ保護スル事ニ付テハ、一視同仁ノ理ヲ主トシ、更ニ内外ノ差別ヲ設ケザルベシ」(岩波近代思想体系『対外観』)。外国人に対するキリスト教弾圧・拷問・処刑を示唆する日本の明治新政府の提案を、諸外国が容認するはずもありません。残虐な血の香りのする明治新政府の担い手は、このことに気付くことはなかったのでしょう。

明治新政府は、幕末・維新の「残虐」をすべて「穢多」を身代わりとして押しつけ、明治4年、「太政官布告第61号」によって、外国交際上の表向き、形式的に排除するのです。「穢れ多し」という名前を取り除くかわりに、明治新政府の残虐な血の穢れを押しつけられるのです。スケープゴート(身代わりの犠牲)とされた「旧穢多」の悲惨は、この明治4年の「太政官布告第61号」にはじまります。

筆者が尋ねた、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老が語っていた、「わたしたちの先祖は、江戸時代300年間に渡って武士でした。しかし、明治の御代になって差別されるようになりました・・・」という言葉の背景を尋ねて十数年、無学歴・無資格であるにもかかわらず多くの時間を割いて調べた結果、分かったのは、このような背景でした。

明治4年の「太政官布告第61号」は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」のいう、「身分解放令」・「賤民解放令」・「部落解放令」・「賤称廃止令」等では決してないのです。「旧穢多」は、明治政府の、草莽の「スケープゴート」(身代わりの犠牲)とされたときから、部落差別のるつぼに追いやられていくのです。「旧穢多」の悲惨な歴史は、更に積み重ねられ、深化されていきます。司法・警察にたずさわる「役人」のリストラ・・・、そのたどりつく先が、今日でいう「部落差別」だったのです。
 

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