2021/10/01

「水平社宣言」の本文批評の背景

「水平社宣言」の本文批評の背景

「水平社宣言」の研究史に関して、筆者の手元にあるのは、ごくわずかです。

その中でも、参考になるのは、吉田智弥著『忘れさられた西光万吉』(明石書店)です。

吉田智弥氏は、「私はこれまで水平社宣言を批判したり・けなしたり・貶めたり、というような評価は聞いたことがありません。」と記していますが、「水平社宣言」を、<史料として>また<文献として>、本文批評の対象にする・・・、ということは、つい最近のことのようです。

彼は、また、このようにも記しています。「水平社宣言は、部落解放運動のバイブルのような扱いになっていますから、今日、これを正面から批判した文章にはなかなかお目にかかれません」。

「水平社宣言」は、戦前・戦後を通じて、部落解放運動に関わっていく人々にとっては、バイブル(聖書)に等しい存在であって、多くの部落解放運動家は、この「水平社宣言」を無条件に受け入れ、それに依拠してきたと思われます。

「水平社宣言」には、近世・近代における「穢多」の末裔にとって、歴史の「中点」のような側面があります。戦前戦後の水平社運動・部落解放運動は、1922(大正11)年3月3日に明らかにされた「水平社宣言」を絶えず「想起」しながら、それぞれの時代の部落差別撤廃のための闘いを続けてきたのです。

「水平社宣言」は、部落差別撤廃のために闘う「被差別部落」の人々にとって、彼らの父祖たちが作成した「宣言」を「想起」することによって、そこから、常に、部落解放運動の基本的な精神に立ち戻り、水平社運動に関わった人々の「熱と光」に触れることで、新たな息吹と反差別闘争への意欲をくみとってきたのです。

「水平社宣言」と、それぞれの時代が直面した状況との間を、「想起」の形で往復することは、「水平社宣言」そのものと、「部落解放運動」との間に相乗効果をもたらし、「水平社宣言」は、「部落解放運動」に基本的な方向と運動のあり方を指し示し、「部落解放運動」は、「水平社宣言」を単なる、「水平社」の「宣言」ではなく、「今でも思想的に十分通用する日本発の世界的な人権宣言」にまで高めることに結果しました。

戦後の「部落解放運動」は、日本の社会に存在する部落差別を世界にしらしめ、その運動のバイブルともいえる「水平社宣言」を「日本発の世界的な人権宣言」にまでおしあげてきたのです。

しかし、吉田智弥氏は、現代の部落解放運動は、「部落問題の不幸」に直面しているといいます。

「部落問題の不幸」というのは、同和対策事業によって「達成されつつある平等」は、必ずしも、「被差別部落」の人々にとって、その部落差別からの「解放」に直結してこなかった・・・、国家や地方行政が、同和対策事業の名目で「被差別部落」の人々に提供してきた「平等」のための施策は、「被差別部落」の人々がこころから願う「部落差別」の完全解消に直結してこなかったという亀裂のことです。

吉田智弥氏は、両者の間には「千里の径庭がある」といいます。「質的な落差がある」といいます。

そして、深刻なことには、「そこのところは当初は部落の人たちの大衆的な認識としても、運動側の理屈としてもまったくわからなかった。まして同伴者においてをや。・・・」という状況があったといいます。

吉田智弥氏は、自らをどの立場に置かれてこの文章を書いているのか、筆者には、知るよしもありません。大衆的な部落民、部落解放運動家、それと連帯する学者・研究者・教育者・政治家・企業家・労組・・・。

吉田智弥氏は、「部落問題の不幸」に、「同和対策事業」に内在する問題に加えて、「同和教育事業」にも大きな問題があったといいます。

多くの時間と費用をかけて実施されたにも関わらず、「同和教育事業」は、部落差別問題の基本的なことがらも解明することはできなかったというのです。「「部落とは何か」についての定義ができていません・・・・」。また、「「部落民とは何か」の定義も曖昧です・・・」といいます。

そして、「部落問題認識の大きな躓きの石」である、「士農工商・えた・ひにん」の枠組みから基本的にはまだ自由になっていない・・・、といいます。「士農工商・えた・ひにん」の小手先の変更では、「躓きの石」を取り除くことはできません。

部落解放研究第40回全国集会(2006年度)においても、『福岡発!今Dokiの部落史学習-部落史学習の新構想』(福岡市同和教育研究会・大谷和弘、原田雅秀)の中で、福岡教育大学の石瀧豊美氏の「武士・町人・浦人・宗教者・かわた(穢多)など」という新たな図式が紹介されていますが、吉田智弥氏は、「そうした歴史学者の研究に沿った物のいい方では、なおさら「部落民」という規定が難しい。」といいます。

吉田智弥氏は、いいます。「事実」と「理論」がどこかで食い違ってきている・・・。そして、その食い違いの発端は、「「水平社宣言」ではないか・・・」というのです。

吉田智弥氏は、「水平社宣言」を、「今でも思想的に十分通用する日本発の世界的な人権宣言」であると確信しながら、そうであるにも関わらず、戦前における国民総動員体制下の水平社運動の変節、また戦後の同和対策事業・同和教育事業下の部落解放運動の変節を防ぐことができなかったのか・・・、と自らにといかけ、そして自らその問いに答えます。水平社宣言の中にその原因が内在しているはずだと・・・。その変節の「予兆」は、「すでに「水平社宣言」のどこかで垣間見ることができるはずだ」と。

吉田智弥氏は、その「仮説」を証明するために、「水平社宣言」のテキスト批判をはじめるのです。

吉田智弥氏は、「すでに発表されている研究者の文章を寄せ集めて転記しているに過ぎない・・・」といいますが、現時点での、「水平社宣言」の本文批評に関する研究の網羅的紹介であると思われますので、吉田智弥氏の文章をてがかりに、「水平社宣言」の本文批評(テキストクリティーク)に挑戦してみましょう。

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