2021/10/02

「賤民史観」と遊女5 「遊女解放令」を瓦解させた明治の知識階級2

明治5年の「遊女解放令」・「芸娼妓解放令」(太政官布告第395号・司法省布達第22号)は、日本の歴史上最初の人権宣言とよばれるにふさわしいものでしたが、司法卿・江藤新平のひきいる当時の司法省の英断によってなされたものです。

その「遊女解放令」・「芸娼妓解放令」を、明治政府の内部から瓦解させた人々がいます。

『部落の歴史と解放理論』の著者・井上清は、その著・『日本の歴史 20 明治維新』(中公文庫)の中で、「遊女解放令」・「芸娼妓解放令」の公布のきっかけになった「マリア・ルーズ号裁判」に触れてこのように語ります。

「意外な副産物があった。というのはペルー船長より、日本にも芸妓・娼妓のような人身売買の事実があるのではないかと反撃され、日本側の正義人道のやり場に困ることにもなった。そこで裁判が終わって1ヶ月あまり後の10月2日、太政官布告で、芸妓・娼妓や前借金による年期奉公人などは、人にして人身の自由を奪われたもので、極端にいえば牛馬に異ならず、人より牛馬に代金を請求するいわれはないから、これらはすべて無償で解放すべしと令した。その文辞はいかにも人身の自由を強調するようだが、無償解放の根拠を人と牛馬の関係にこじつけるなど、芸妓・娼妓・年期奉公人の自由の人権を真剣に守ろうとするものの発想とは認めがたい・・・」。

井上は、そのことばに続いて、「余談だが・・・」といって次のように論じています。

「当時フランスにいてこの解放令を知った木戸孝允は、フランスにも売春婦取締りの是非論があるのと思い合わせて、外国人になにか言われたからとて、「にわかに娼妓放還のごせんぎ、いかなる御情実に候や、かくのごとく相成り候ては、玉石相混じ風俗もますます紛乱、かつまたついに人の健康の保護も決して行き届き難きことと相察せられ申し候」と井上馨に書いている」。

当時の司法卿・江藤新平ひきいる司法省は、「法治主義の番人」(毛利敏彦著『明治六年政変』)を自ら任じ、「正当な法的手続き」(同書)に基づいて、明治政府の権力を私物化して権益を追究する「長州汚職閥」の告発と糾弾に力を注いでいました。それに危機感を感じた「長州汚職閥」は、薩摩藩・大久保利通をたてて、「長州汚職閥」の「反対勢力」である江藤新平の追い落としをはかります。その結果、明治6年政変によって、江藤新平は抹殺され、「長州汚職閥」を免罪し、彼らを包み込んだ、「薩長中心の「有司専制」体制」(同書)、つまり、大久保利通独裁体制がつくられるのです。

山城屋和助事件(山県有朋)・三谷三九郎事件(山県有朋)・尾去沢銅山事件(井上馨)・小野組転籍事件(槙村正直)・・・の「長州汚職閥」による「汚職・不祥事」の「罪責」を不問に付し、それを批判・究明するものに対して、言論の弾圧を徹底していくのです。

井上がとりあげている木戸孝允の井上馨にあてた書簡は、「長州汚職閥」による、その「反対勢力」である江藤新平の追いおとしの一連の文脈のなかでよまれるべきものです。

井上は、明治5年の「遊女解放令」・「芸娼妓解放令」を、「意外な副産物」として、「自由の人権を真剣に守ろうとするものの発想とは認めがたい・・・」と切って捨ててしまいます。そして、やがて、明治5年の、日本の歴史上最初の事件宣言・「遊女解放令」・「芸娼妓解放令」が瓦解されていく背後で暗躍していた明治6年政変の動きから切り離して、「余談」として解釈してしまいます。

明治5年の「遊女解放令」・「芸娼妓解放令」は、司法卿・江藤新平と、彼を「反対勢力」とみなした大久保利通との間の「政争」の中で、「公」を主張しながら「私」腹をこやすことで、その性質を同じくする「遊廓業者」によって、「まきかえし運動」が展開されます。

「人身の自由」を侵害され、苦海に沈む女性たちのうめき苦しみに耳を傾けるのではなく、「民間」の「事業家」(「遊廓業者」)の権益をまもるために、明治5年の「遊女解放令」・「芸娼妓解放令」の事実上の破棄宣言である「貸座敷渡世規則」を施行するのです。その理由は、「私娼の弊害」という、理由にならない理由でした。「遊廓」の存続を前提として、「私娼か公娼か」の二者択一を突きつけ、「公娼」を制度化し、「遊廓を公認」する道を選択したのです(岩波近代思想大系『差別の諸相』)。

明治政府の私設「広報官」である福沢諭吉は、『学問のすすめ』(8編・明治7年)の中で、「男も人なり女も人なり。・・・其功能如何にも同様」と宣言していたのですが、『差別の諸相』の注解者・ひろたまさきは、福沢諭吉の女性論は、「文明的な良妻賢母の要請を求める主張」であり、「娼婦的存在には同情を示さなかった」といいます。

福沢諭吉は、その『品行論』において、「そもそも娼妓の利害に就いては今更これを論ずるもの少なく、所謂道徳家の所望に任ずれば無き方が宜しと云ふは勿論のことなれども、人間世界は道徳のみの世界に非ず。人類の身も之を二様に分かつときは、一方は人にして一方は禽獣に異ならず。・・・」というのです。

「遊廓」は「人間世界には非ざるなり」と説く福沢諭吉にとって、その世界に身を置く「遊女」(娼妓)は、「人に非ず」、「人非人」に等しい存在としか見えなかったのでしょう。福沢諭吉にとって、「遊女」(娼妓)は、「人身の自由」が保障される「臣民」(人間)の対象外だったのでしょう。

福沢諭吉は、「仮に今、人間世界に娼妓を全廃して痕跡おもなきに至らしめん歟、その影響は実に恐るべきものならん。」といいます。

遊郭を廃止すると、数ヶ月を経ないで、「満都」に「獣欲」氾濫して、「良家の子女」がその餌食となるというのです。「遊女」(娼妓)が遊廓という苦界で、うめこうが苦しもうが一向に構わないが、「良家の子女」がその被害にあうのは「社会の秩序」を守る上で無視できない・・・というのです。

福沢諭吉は、「遊女」(娼妓)は、「最も賤しく、最も見苦し」い存在であるといいます。「其業たる最も賤しむ可く、最も悪む可くして、然かも人倫の大義に背きたる人非人の振舞いなり」と断定するのです。

『品行論』において、福沢諭吉は、売春制度に対する自らの主張を明らかにします。「我輩は娼妓を廃せんとする者にあらず、却って之を保存せんと願」うというのです。福沢諭吉は、諸外国から日本の遊廓制度に対する批判、「人身の自由」に対する批判があれば、それをさけるため、「深く之を隠すの注意なかる可らず。」と提言します。

日本の公教育における歴史教育で、福沢諭吉はどのような人物として教えられているのでしょうか・・・。「福沢諭吉は豊前中津藩(大分県)の士族で、緒方洪庵の適塾(大阪)で洋学を学び、幕末に欧米に留学し、イギリスの自由主義を学んだ。帰国後、慶応義塾を設立し、欧米思想の紹介と教育に一生をささげた。」(文英堂『くわしい学習事典・中学歴史の精解と資料』)と教えられているのではないでしょうか。福沢諭吉の顕彰は、紙幣に刷り込まれることによって、いまでも続けられているのはなぜでしょうか・・・。

『部落学序説』の筆者の目からみると、明治政府の中には、江藤新平のように人権の確立に努力したひともいれば、彼を政争上の「反対勢力」として排除・抹殺した大久保利通・木戸孝允・井上馨・福沢諭吉のような人物もいたということです。明治5年の、「遊女解放令」・「芸娼妓解放令」(太政官布告第395号・司法省布達第22号)は、明治政府内部の権力闘争の犠牲になってしまったのです。しかし、筆者は、その布告・布達がもっていた歴史的意義は重大であると確信しています。

筆者が所属している日本基督教団西中国教区山口東分区の分区長であった加藤満牧師は、筆者が、「反差別」の視点・視角・視座から、明治以降の「過去」の人物を容赦なく批判することに対して、筆者の「人格にひずみがある」と「批難」し、筆者に対して、いじめと疎外・排除をもって接してきました。

上野千鶴子は、その著『ナショナリズムとジェンダー』の中で、「歴史とは、無限に再解釈を許す言説の闘争の場である」といいました。この「闘争」に参加しないかぎり、私達は、問われることのなかった「罪責」にいつまでも拘束され、その「罪責」の拡大再生産の担い手として差別社会の中に取り込まれ、組み込まれていくのではないでしょうか・・・。

福沢諭吉が『品行論』を出版した1885(明治18)年当時、福沢諭吉ですら、「遊女」(娼妓・芸妓)と「旧穢多」を同一視することはなかったように思われます。(続く)

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