2021/10/02

「賤民史観」と遊女5 「遊女解放令」を瓦解させた明治の知識階級3

近世幕藩体制下の「遊女」は、多くは「百姓」身分(農・工・商)の末裔でした。

しかし、明治維新以降、近世幕藩体制下の身分制度、武士(將軍・藩主・藩士・士雇・穢多・非人)・百姓(農・工・商・雑)は廃止され、新たに近代中央集権国家の身分制度、天皇・皇族・華族・士族・平民が創設されます。

近代中央集権国家の身分制度において、「士族」とされた人々は、旧体制の身分上の特権を喪失します。そのことで、「旧武士」階級は、経済的に大きな打撃を与えたのではないかと推測するのですが、実際は、そうでもなかったようです。

『武家の女性』(岩波文庫)の著者・山川菊枝によると、近世幕藩体制下の「武士」階級は、その石高によって、「家来」・「女中」・「馬」の数が規定されていたようで、その数を自由に調整することができないことから、石高の少ない「武士」階級は経済的状態が極めて悪かったそうです(「百石取りの泣き暮らし」)。

明治になって、旧身分制度が解体されるとともに、旧「武士」は、旧「家来」・旧「女中」を封建的義務で扶養する必要はなくなってしまいます。そこで、多くの「武士」階級は、近世幕藩体制下における「武士」階級の特権の喪失を、悲しむのではなく、むしろ喜んだというのです。

それなら、百石以下の下級の「藩士」(山川は「平士」と呼ぶ)はどうだったのかといいますと、近世幕藩体制下のときから、「禄だけでは生活ができない」状態に置かれ、「家族も、無役の人は当主までもいろいろの内職を」しなければならなかったようです。「それ以下の同心(足軽)ともなれば、半農半工、田畑も作り、内職もして、かろうじて暮らした」そうです。

山川菊枝は、このように綴ります。

「ちょっと考えると50を越して明治を迎え、今までの地位と禄とをにわかに失った○○は、さぞ困ったことと思われるのですが、本人の手記によれば、旧藩時代は生活に苦しんだが、明治になって息をついたとあります。おそらくこれは○○一人ではなく、少なくとも下級武士の大部分に共通の経験であったのでしょう。自己の勤労や技能によって生活し得るかぎり、身分制度からの解放は、いくらかでもよい生活をもたらしたのでしょう・・・」。

「藩士」階級よりさらに下の「武士」階級(同心・目明かし・穢多・非人)の場合、下級の「藩士」(「ひらのさむらい」)より、さらに、「家職」にその経済的基盤を移していたでしょうから、「同心」だけでなく、「穢多・非人」も、明治維新にともなう旧身分制度廃止によって、直接的に経済的打撃を受けることは少なかったのではないかと思います。幕末期、旧「穢多」の皮革に関する收入は減少傾向にありましたので、ほとんどの「穢多・非人」は、「皮革」に関する收入にこだわらず、それまでの「家職」の知識・技術を駆使して、近世幕藩体制から近代中央集体制への変革の時代を乗りこえていったのではないかと思います。

明治維新によって、旧身分制度が撤廃され、その特権を失って、路頭に迷うようになったのは、上層の「武士」(將軍・藩主・家老・藩士)でも、またその対極にある下層の「武士」階級(100石未満の藩士・中間・足軽・穢多・非人)でもなく、中層の「武士」であったようです。

山川菊枝によると、近世幕藩体制下、経済的破綻によって、「武士」が「ひそかに娘を娼妓に売ったことが露顕」して、「切腹を命ぜられ、家は断絶・・・」という状況に追い込まれたひともいたといいます。

すでに『部落学序説』で言及してきたとおり、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「同心・目明かし・穢多・非人」から、「遊女」(娼妓)をとるということは、権力に対する著しい逸脱と認識され厳罰が課せられましたから、正規の「武士」ではない「武士」身分・「同心・目明かし・穢多・非人」から、「遊女」(娼妓)が出るということはほとんどありませんでした。

山川は、下層の「武士」(100石未満の藩士)、「士雇」(中間・足軽)、「穢多・非人」は、近世幕藩体制下、「世襲の特権にたよらず、またはそれにたよって生活し得るだけのものを与えられなかったために、勤労の習慣と技能の習得によって、額に汗して衣食の資を得ていた・・・」といいます。

ところが、中層の「武士」の場合、「浮華逸楽に陥っていた旗本と上層武士」は、近世幕藩体制下の特権的身分を喪失することで、「衣食の資」を得るすべを知らず、経済的困難に直面するようになります。職業的な知識・技術も持ち合わせていない中層の「武士」、100石から200石取りの小禄の「旗本」の中からは、その娘を「芸娼妓や妾奉公に出」すものがでてきます。

山川菊枝によりますと、「没落した旗本の娘の中に、芸娼妓や妾奉公に出たものが多かった」そうです。

下層の「武士」階級は、「政治に、産業に、教育に、指導的な役割を演ずることになり・・・今日から見ればいうに足りない程度のものにせよ、ともかくも女たちが家庭で得た多少の教養や技術は、この大きな変革の荒波を漕ぎぬけて、自分を救い、家族を救う上にも役立てば、新しい時代を育てる教育者の任務を果たす上にも大きな力となったのでありました。」といいます。

山川は、さらに続けて、「日本の教育界に大きな貢献を残した明治初期の女教員のほとんど全部が、田舎の貧乏士族の娘たちだったこと、また最初の紡績女工の仕事を進んで引き受けた義勇労働者もそれらの娘たちであった・・・」といいます。

山川がいう下層の「武士」階級の中に、「穢多・非人」がふくまれていたことは、次の資料からも確認されます。

信州の「長吏」の末裔である中山英一は、その著『私を変えた源流』の中で、富岡製糸工場のことに触れています。明治4年の「穢多非人ノ称廃止」の太政官布告が出された1年後、明治政府は、「富国強兵」・「殖産興業」を打ち出しますが、その一環として、群馬県富岡に官営製糸工場を設立します。

この官営製糸工場は、政府の模範工場で、「フランス式の機械製糸工場」でした。この工場で製糸業の知識と技術を習得した女性は、それぞれの出身地で指導的な役割を果たしていきます。旧藩士の娘は、全国から、この「伝習工女」に志願したといいます。

中山は、「旧松代藩士・・・横田数馬は、当時15歳であった娘の英(和田英の名で知られる。弟秀雄は後に大審院長)に、最新技術を習得させたいとし、英も最先端の職業に魅せられて伝習工女として入場した。」といいます。「英は努力の末、一等工女に昇格して2年後に帰郷し、県立模範工場の教授となり、草創期のおける製糸工場の教授となり、草創期における製糸業発展に寄与した。」といいます。

中山は、そのあと、さらに続けて、「富岡工場で英に技術指導した人は、地元の筆で、彼女は部落出身であった。筆は士族出身の英に対しても決して気後れすることなく自信と誇りをもって教え導いた。」と記しています。

和田英は、33年後、50歳のとき(明治40年頃)に、富岡工女時代を回想して『富岡日記』を著します。その一節を、中山はこのように引用します。

「私に糸のとり方を教えて呉れた人は、西洋人より直伝の人で、○○筆と申す人で有りましたが、実にやさしく教えて呉れました。・・・妹の如くにして呉れました。・・・」

そのあとに続く英の文章は、中山英一も共有している「賤民史観」的色彩に彩られています。「賤民史観」形成期のものの見方・考え方が、33年前の記憶に遡って普遍化されていますので、省略しますが、「旧藩士」の末裔である娘が、官製製糸工場で知識と技術の習得する際、その知識と技術を「旧穢多」(旧長吏)の娘から学んだ・・・、しかも、その筆という娘は、フランス人技術者から直接学んだ聡明な人物であったことを物語っています。

近世幕藩体制下の「旧穢多」(旧長吏)の家職から考えても、当然、あり得ることです。

このような事例は、日本全国に散在しているのでしょう。こういう事例が、一般の人の目に入らないのは、日本の知識階級・中産階級に属する歴史家たちが、資料的価値をみいださないからでありましょう。

明治前期の、幕府時代における「旗本」などの中層の「武士」階級の経済的困窮・破綻は、その娘たちを、「遊廓」という苦界に身を沈ませることになりました。「武士道」に生きていたはずの彼らにとって、その事実・現実は耐えがたいものであったに違いありません。自分の娘を「遊女」(娼妓)にするという汚点は、当該武士の家だけでなく、「武士道」に生きていたはずの「武士」全体の面子にかかわることだったのではないかと思います。

彼らが、明治期の中産階級・知識階級に復帰するに従って、その階級に所属する学者・研究者・教育者は、その歴史を塗り替えていきます。幕末・明治に生きた武士の「実像」を破棄して、「虚像」に生きるようになります。

「武士」は、軍事に従事する「非常民」であり、本質的に「城を屠する」(敵の非常民を殺害する)ことをその職務とします。敵を殺害し、自分の身を守るためには、「武士道」など何の役にもたたず、必要なのは、手段を選ばす生き残る術、そのためには、「鬼」にさへなった人々です。その血なまぐささがただよっているときには、「武士」は「武士道」など口に唱えることはしません。

しかし、戦乱がさり、平和が訪れ、その所業が遠い昔の記憶に退いてしまったときには、「武士道」精神が復活します。そういう「武士道」は、「武士」階級の、「武士」階級による、「武士」階級のための、その歴史の洗浄と美化以外の何者でもありません。

明治32年の出版された新渡戸稲造の『武士道』など、その典型です。新渡戸にとって、「卑劣なる行動」、「曲がりたる振る舞い」(たとえば、先の例に見ゆるような、武士がその娘を娼妓に売り渡すなどの所作)は、武士にとっては無縁の世界です。新渡戸は、武士の「主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、「親に対する孝行」を唱えたり、「弱者、劣者、敗者に対する仁は、特に武士に適わしき徳」とうたいあげますが、武士を美化する以外のなにものでもありません。

明治期の旧「武士」身分の現実、蹉跌と零落・・・、それを隠蔽して、「美しき武士」を描く所業でしかありません。新渡戸は、旧「百姓」に、「狡猾なる平民」という侮蔑をもって表現し、明治初期の武士の零落を、「狡猾なる平民」に起因せしめます。

新渡戸は、「日本の処女はその貞操が危険に瀕するを見る時・・・彼女自身の武器が常に懐中にあった。自害の作法を知らざることは彼女の恥辱であった。」と延べています。夫以外の男性にそのからだを抱かれることは、武士の娘にとっては「恥辱」以外のなにものでもない・・・。その「恥辱」をそそぐためには、武士の娘は自害しなければならない・・・。新渡戸の女性観は、美化された「虚構」以外のなにものでもない。

会津戦争のとき、会津藩の多くの武士の女性は、官軍の凌辱をおそれて、自らいのちをたったといいます。自らいのちをたった会津藩の女性も史実なら、官軍の威をかりて、敗北した側の女性を凌辱したのも史実です。新渡戸稲造の『武士道』は、作られた美学でしかありません。新渡戸稲造の『武士道』は、近世から近代へ、その過渡期に旧「武士」が直面せざるを得なかった現実を隠蔽し、糊塗し、その上を美装する所作以外のなにものでもありません。

明治30年代の、知識階級・中産階級である「旧武士」(軍事に関する非常民)の上昇と、近世幕藩体制下の司法・警察であった「穢多・非人」(警察に関する非常民)の下降とは、軌を一にしています。幕末・明治初期の旧「武士」階級の悲惨と挫折は、すべて、近世幕藩体制下の「武士」支配の下層に位置づけられていた「穢多・非人」に転化させられていきます。

以前にも書きましたが、「穢多・非人」は、身にあずかり知らぬ「草莽」の汚名を着せられ、「キリシタン弾圧」の宗教警察の「醜名」を着せられ、自分の娘を「娼妓」に売ってまで生き延びようとした武士の挫折を転化させられ、当時の中産階級・知識階級であった学者・研究者・教育者によって、近代身分制度の最下層に追いやられていくのです。旧「穢多・非人」は、彼らによって、限りなく、「みじめであわれで気の毒な存在」へと追いやられていきます。

近代部落差別・現代部落差別の起源について、当時の中産階級・知識階級の大半を占めていた旧「武士」階級は、第1級の責任があります。

武士を限りなく「美しく」表現し、「穢多・非人」を限りなく貶めていくとき、このような等式が成立していきます。

「穢多」=「売春種族」

この等式は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」と、その取締りの対象であった「遊女」という、まったく正反対の概念を、同等の概念として定義しなおすものです。日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」がはっきりとその姿をあらわした瞬間です。

筆者は、この等式を立てた思想家・賀川豊彦の差別性を取り上げたことがありますが、筆者が所属している日本基督教団西中国教区山口東分区長・加藤満牧師(徳山教会)によって、激しい「批難」にさらされ、いじめと疎外、排除に直面させられました。18年前のことですが、排除されたまま、今日にいたっています(無学歴・無資格の筆者「差別(真)」と、有学歴・有資格の加藤満「差別(偽)」の間の葛藤は簡単に解決しそうにありません)。

33年間15兆円の同和対策事業・同和教育事業で、部落差別は、表面的になくなったようにみえるかもしれませんが、部落差別の原因が明らかにされ、とりのぞかれたわけではありません。日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、今も、中産階級・知識階級の学者・研究者・教育者の自己批判がなされないまま、時間だけが経過しているからです。

現代の「賤民史観」の担い手である沖浦和光の『「悪所」の民俗誌 色町・芝居町のトポロジー』(文春新書)は、「穢多」=「売春種族」の現代的焼き直しでしかないからです。同和対策事業・同和教育事業後も、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は増殖・強化され続けているのです。

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