2021/10/01

「差別」概念は歴史的概念である

「差別」概念は歴史的概念である


ここで、筆者は、「特殊部落」と「差別」について第3の命題をたてたいと思います。

考えてみるに、「特殊部落」について、あるいは「差別」について、このような概念定義の作業をしていたのは、20年以上も前のことです。より意識的に、「特殊部落」・「差別」概念について定義を試行錯誤していたのは、『部落学序説』の執筆計画をこころに秘めだした頃です。

その後も、部落研究・部落問題研究・部落史研究の新しい論文・書籍を手にするごとに、「特殊部落」・「差別」等の基本的な概念の定義をやり直してきました。

そして、ある時点から、筆者は、「特殊部落」・「差別」概念から、「部落差別」の「実質的定義(Real definition)を確定するようになりました。「部落差別」とは何か。その定義は、既に、『部落学序説』のこれまでの論述の中で繰り返しとりあげていますので、『部落学序説』を章・節・項にそって読んでくださった読者の方々は、繰り返し、筆者の定義に遭遇することになったことでしょう。

筆者の「部落差別」についての「実質的定義(Real definition)」は、ここであらためて取り上げる必要はないと思いますが、この「実質定義(Real definition)」という表現は、近藤洋逸著『論理学概論』の本文からの引用です。引用に際して、英単語を外して、「実質的定義」としてのみ紹介することも可能ですが、「実質的定義」・・・、日本語の辞典をひいてもそう簡単に納得できる説明に遭遇することができるとは限りません。辞書の見出し語に、「実質的定義」という語がない場合もあります。

手軽にインターネットでアクセスしても、「実質的定義」について、満足のいく説明を入手することは、今のところ不可能ではないかと思われます。

ただ、「Real definition」で検索しますと、日本の社会だけでなく、グローバルな社会における「Real definition」について文献を漁ることができます。

日本の教育は、中学3年間、高校3年間、合計6年間、なんらかの形で英語を学習させられています。筆者の世代は、英文読解が重視されていたため、筆者は、英文読解能力はみにつけても、英会話能力はほとんど身につけることはできませんでした。

しかし、筆者の経験では、簡単な英文は、昔の中学校2年生程度の英文法で読むことができますし、少し難解な学術書も、専門用語をクリアすれば、昔の高校2年生程度の英文法、英文解釈法で読むことができます。

それに、語彙数の豊富な電子辞書も自由に閲覧できる、また、翻訳ソフトを使用できるご時世・・・、「Real definition」で検索した文書を読むことはそれほど難しいことではありません。

インターネット上の英文を読みますと、英文法を無視したブロークンな英語文章が大手を振ってまかりとっています。英単語のスペルミスも至るところで目につきます。

しかし、インターネットの世界では、文法上の欠陥そのままに、いろいろな意味で情報の発信が行われています。

筆者は、岡山県立児島高校出身ですが、卒業時の成績は、学年最下位でした。大学進学することができる水準のはるか下に位置づけられていました。高校3年生のとき、担任からつけられたあだ名が「落伍者」でした。

それでも、違和感をあまり持たないで、「実質的定義(Real definition)」を受け入れることができます。「実質的定義」に日本語の世界で情報が収集できなければ、グローバルな世界に情報を求めることもやぶさかではありません。

「実質的定義」がご理解できない方は、「Real definition」を調べてください。

真実を知りたいという思いがまされば、英語の文章など、なんとか読解できるものです。

逆に、どんなに語学力に長けていても、部落研究・部落問題研究・部落史研究、あるいは差別問題・差別史に興味のない方、一般説・通説・俗説にあまんじておられる方は、それがたとえどんなにやさしい英文であったとしてもそれを読解することは困難です。

以前、筆者は、『部落学序説』で、このように記しました。

差別とは何なのでしょうか。それは、被差別に置かれた人々から、彼らの本当の歴史を奪い、その歴史に代えて、「賤民史観」という、なんともおぞましい、希望のない歴史や歴史観を押しつけることではないでしょうか。被差別に置かれた人から、彼らの本当の言葉、歴史や人生の物語を奪い、そのあとで、権力者や政治家、学者や教育者がつくりあげた「賤民史観」という幻想を、さも歴史の事実であるかのように押しつけ、強要すること、それこそが差別というものではないかと思われたのです。

この文は、筆者の「部落差別」に対する「実質的定義(Real definition)」です。

しかし、今回、「水平社宣言」の源流をさぐるために、また「特殊部落」概念の変遷史を踏まえるために、これまでの部落研究・部落問題研究・部落史研究において、著名な学者・研究者・教育者が、「特殊部落」・「差別」という基本的な概念について、どのように定義してきたのか、その過去の実績と、今日的状況を確認するために、「第2節・「特殊部落」と「差別」」の論述をはじめたのです。

その作業を徹底するために、無学歴・無資格の筆者が、学者・研究者・教育者の概念定義・命題・推理推論の「土俵」にあがらなければならなくなった・・・、ということです。

ひろたまさき氏の『日本近代社会の差別構造』の中にみられる、「差別」の定義は、すぐれた研究上の労作であると思われるのですが、筆者の見聞きする範囲では、あまりかえりみられてはいないようです。ひろたまさき氏は、「差別」の概念をいかに規定するかは本稿の目的ではないが、概念のあいまいさが問題であるとすれば、少なくとも本稿の論旨に必要なかぎりで、あらかじめ検討しておかなければならない・・・」として、本格的で詳細な「差別」の定義を実行しています。

ひろたまさき氏の「特殊」という指標に対する認識は、注目に価するものです。

しかし、このひろたまさき氏の定義、近藤洋逸著『論理学概論』で、「唯名的定義(Nominal definition)」と称されているもので、『部落学序説』の筆者が指向している「実質的定義(Real definition)」とは異なります。

筆者の「特殊部落」・「差別」概念の「実質的定義(Real definition)」を相対化するためにも、ひろたまさき氏の「唯名的定義(Nominal definition)」との対比、比較研究は避けて通ることができません。

筆者は、ひろたまさき氏に対しては一面識もありませんが、彼の書いた文章・論文を通して、彼と内的に対話することができます。マルティン・ブーバーのいう「汝と我」の関係において対話することができるのです。

たとえ、その文章・論文という間接的手段での対話といっても、それは、マルティン・ブーバーが「汝とそれ」として批判する関係に堕することはありません。

『部落学序説』の筆者としては、ここで、第3の命題をあげておきます。

命題3:「差別」概念は、歴史的概念である。

水平社の源流をさかのぼっていきますと、「特殊部落」という概念も、「差別」という概念も使用されていない世界にたどりつきます。「特殊部落」という概念に、歴史的用語としての「造語」のときがあったように、「差別」という概念も、昔から、普遍的に存在していたのではなく、近代中央集権国家の国政・外交の諸問題の中で「造語」されたときがあるのです。「特殊部落」概念が使われるようになった時代と、「差別」概念が使われるようになった時代とは重複している・・・、という歴史的事実があります。これまでの、部落研究・部落問題研究・部落史研究ではあまり、注目されてこなかった点ですが・・・。

「唯名的定義(Nominal definition)」ではなく、「実質的定義(Real definition)」を主張する筆者は、「特殊部落」概念と同じく、「差別」概念も、「歴史の用語」として、「造語」・「普及」・「衰退」・「死語」という言葉のライフサイクルの中に置かれていると確信しています。

「差別」概念は、歴史を超越した普遍的な概念ではなく、歴史の中に内在し、「生まれて死ぬ」ことになる歴史的概念です。

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