2021/10/01

歴史的概念としての「特殊部落」と「差別」

歴史的概念としての「特殊部落」と「差別」

この節において、ひとつの命題を設定しました。

「特殊部落」・「特殊部落民」は差別語である。

近藤洋逸著『論理学概論』によりますと、この命題は、「特殊部落」と「差別」の両概念の定義、そのあと、「特殊部落」を主語とし、「差別」を述語として、両者を「ある」という語で連結することによって成立します。

最初の基本的な作業は、「特殊部落」概念と「差別」概念の定義ですが、筆者が、定義を遂行する前に持っている「前理解」は、井上清著『部落の歴史と解放理論』・原田伴彦著『被差別部落の歴史』等の、その気になれば誰でも入手して読むことができる部落史の一般書です。

戦後の部落史研究の代表的な学者・研究者・教育者の言説をそのまま転用することも可能性としてはあり得るのでしょうが、少なくとも、既存の部落史研究を批判・検証するときには、彼らが使用している基本的な概念については、その定義ないし定義法について考察を試みる必要があるでしょう。

彼らが、「特殊部落」概念や「差別」概念をどのように使用しているのか・・・、それは、彼らの論文全体の質を大きく決めることになるからです。

「定義」に際して、遵守しなければならない五つの規則がありますが、その「規則Ⅰ」は、「定義は被定義項の公共的内包を与えるべきである。」というものです。「公共的内包」とは何なのか、近藤洋逸著『論理学概論』を読んでいただくとして、近藤洋逸氏は、「この規則を厳守するのは時には実際には困難である。」といいます。「その場合には、公共的内包としては、名辞の適用される対象そのものの特性ではなくても、その対象の用途や起源でもかまわない・・・」と付け加えます。

しかし、学者・研究者・教育者は、「学問」で飯を食っているわけですから、できる限り、定義の「規則Ⅰ」を遵守する必要があります。

今、上記に掲げた命題に対する考察をさらに深めていくために、井上清著『部落の歴史と解放理論』・原田伴彦著『被差別部落の歴史』等に対して、客観的に論じることができる世代の論文、渡辺俊雄著『いま、部落史がおもしろい』(解放出版社)から、「特殊部落」についての定義を抽出してみましょう。

命題2:「特殊部落」は、歴史的な概念である。

これは、渡辺俊雄氏の次の文章に依拠します。

「「特殊部落」という語は、たんなる「旧穢多」「新平民」の言い換えではありません。明らかに近代的な価値観、評価をともなった歴史的な用語なのです」。

「歴史的な用語」というのは、「特殊部落」という用語(概念)が、歴史の中で、「生まれて死ぬ」用語であることを示しています。用語のライフサイクルを考えますと、「歴史的な用語」は、はじめに、歴史のある時点で「造語」され、それが「普及」、やがて、「衰退」し、「死語」になっていく、ことばであると認識されます。

「特殊部落」がいつ「造語」されたのか・・・。

井上清著『部落の歴史と解放理論』・原田伴彦著『被差別部落の歴史』・渡辺俊雄著『いま、部落史がおもしろい』各書を読んでもほとんど違いはなさそうです。

この「特殊部落」という用語、ブログ『蛙独言』の著者・田所蛙治氏が指摘されている通り、「被差別部落」の人々にとっては、「自称語」ではなく、「他称語」です。

この「他称語」は、原田伴彦氏のことばを借りますと、「明治40年ごろ」に、「内務省によってつくられた」「一種の官製的な差別用語」で、「この言葉の裏」には、「部落とは「特殊」なもので、どこか一般とちがった特別な、えたいの知れぬものである、一般社会とはまともにつきあえぬものであるという印象を強めようという政府がわの意図」がこめられたもので、近代中央集権国家においても採用された「民衆分割政策、あるいは民衆分断統治の手段」として採用されたものです。その影響力は深刻なものがあって、「一般」の人々だけでなく、「部落解放をめざす意識的な人びと(当時の中産階級・知識階級)さえ、ともするとこの用語の差別性に気がつかず、このことばの魔術におどらされ、この言葉を用いる」事例があったということです(佐野学著『特殊部落民解放論』・高橋貞樹著『特殊部落一千年史』・『水平社宣言』等)。

原田伴彦氏のことばは、後日批判検証するとして、「特殊部落」という「歴史的な用語」も、その用語のライフサイクルから見た「造語」の段階があった、ということは否定しがたい事実のようです。

この「特殊部落」という概念は、政治用語・行政用語として登場してきたのですが、そのため、全国的に「普及」してしまいます。

しかし、水平社の糾弾闘争によって、この「特殊部落」という「差別用語」は、使用が自粛され、あるいは抑圧され、「衰退」していきます。

しかし、用語のライフサイクルの最終段階である「死語」になったのか・・・、といいますと、いまだに「死語」にはなっていないと考えられます。なぜなら、「特殊部落」ということばは、戦後、「未解放部落」あるいは「被差別部落」という別のことばに置き換えられ、また、「特殊」・「未解放」・「被差別」ということばを省略した「部落」という短縮形が用いられているからです。

この「部落」という概念、「被差別部落」の人々にとって、「他称語」としてその世界に入ってきたにもかかわらず、水平社宣言で「特殊部落」という概念が取り入れられたこともあって、戦前・戦後を通じて、「被差別部落」の「自称語」としても使用されてきました。

筆者は、「被差別部落」のひとびとが、いまだに「部落」概念を「自称語」として使用し続けている・・・、それ自体が被差別のメルクマールであると思っています。

「特殊部落」という概念が、歴史的概念であるとして、それでは、「差別」という概念は、どのような概念として認識することができるのでしょうか・・・?

「差別」という概念は、時代を超えて、歴史を超えて存在する普遍的概念なのでしょうか。それとも、「特殊部落」概念と同じく、歴史的概念なのでしょうか。

これは、ことばの遊びではありません。部落研究・部落問題研究・部落史研究にとって、とても大切な問題です。

「特殊部落」・「特殊部落民」は差別語である。

この命題の主語である「特殊部落」・「特殊部落民」の述語となる「差別」ないし「差別語」が、普遍的な概念であると理解するか、歴史的な概念であると理解するかによって、「差別」そのものの認識が大きく異なってきます。そして、それは、「特殊部落」・「特殊部落民」概念の定義にも大きく影響してきます。

『部落学序説』の執筆後、まもないとき、部落解放同盟新南陽支部の要請で、『部落学序説』の執筆に際して使用する資料・論文を公開してきましたが、筆者の手持ちの資料・論文をひもとくだけでも、こころある学者・研究者・教育者によってなされてきた、「差別」概念の定義、「差別とは何か」、「部落差別とその他の差別の違いは何か」・・・、という議論・研究のあとをたどることができます。

「差別」概念を、普遍的概念とするか、歴史的概念とするかによって、「差別」概念は、「部落差別」を、他の差別と異なる「特殊」な差別であるという認識と、「部落差別」は、普遍的な差別を最も具現したものであるという認識が併存するようになったのです。

戦前戦後を通じて、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者の多くは、「差別」概念をあいまいにしたまま、「差別」概念を恣意的に使用してきたのです。「差別とは何か」、十人十色、百人百様の理解と主張が混在するようになったのです。

岩波日本近代思想大系『差別の諸相』の解説である《日本近代社会の差別構造》の著者・ひろたまさき氏は、阿部謹也著『世界史における身分と差別』から引用してこのように記しています。

「阿部謹也は、「差別という言葉は学問上の分析概念として確実性がないといわれる」と指摘し、その理由の一つに「何が賤視の根源にあったか」があいまいなことを挙げている。「賤視の根源」が普遍的に存在するのか、地域や時代によってことなるものであるかは大問題であり、その解明が充分だといえないのはたしかであるが、また「差別」とされる現象がきわめて多様であるということも、あいまいさをつねに生みだす理由の一つであるように思われる」。

「差別」概念が、普遍的概念であるか、歴史的概念であるか・・・、その問いに対して、妥当な答えを用意するのは、無学歴・無資格の筆者ではなく、部落差別の完全解消を願い、部落差別で禄を食んできた学者・研究者・教育者の責務ではないかと思われます。ひろたまさき氏が指摘する、「その解明が充分だとはいえない」状況そのままに、国の同和対策事業・同和教育事業の終了宣言とともに、学者・研究者・教育者は、反差別の前線から逃亡・離脱することは、部落研究・部落問題研究・部落史研究で禄を食んできた学者・研究者・教育者の本分に反することではないでしょうか・・・。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...