2021/10/01

部落史における歴史記述の客観性

部落史における歴史記述の客観性

「客観性を尊重しない学問などはない・・・」

宮崎市定著《中国の歴史思想》の中に出てくることばです。

歴史学は、歴史に関する<学問>(科学)のことですが、<学>という名称をつけている以上、歴史学は、その研究対象たる史資料に対する研究だけでなく、その歴史学がよって立つところの前提に対する批判・検証をそのいとなみのうちに内包しています。

<歴史とは何か>、<歴史研究とは何か>・・・。歴史学は、その問いに対する答えを、他の学問に他律的に求めるのではなく、自立的に、みずから、<歴史とは何か>、<歴史研究とは何か>・・・、をあきらかにしようとします。

そのような問いは、筆者のような、無学歴・無資格、歴史の門外漢にとっては、避けて通られがちな問題になります。

「一般の人にとっては歴史事実は始めからそこにあった自明のもの・・・」として受けとめられるのが常です。その歴史的事実は、歴史学の学者・研究者・教育者の学問的研究によって、ただしく研究され、「一般の人」が全面的信頼をもって受け入れることができるものとして提示されていると考えられています。

しかし、「一般の人」が、歴史研究の学者・研究者・教育者の論説に問題意識をもって、批判検証をはじめるとしたら、歴史研究の学者・研究者・教育者にとっては、プロフェッショナルな歴史学の専門家に対する<極めて不遜な挑戦>としてうけとめられることになるのでしょうか・・・。

無学歴・無資格、歴史学の門外漢である「一般の人」は、歴史の専門家である学者・研究者・教育者の書く論文に耳をかたむけ、ありがたく受容するだけでいい・・・、それを、<しろうと感覚>で疑義を持ち、批判するなどもってのほか・・・、そんな雰囲気がいたるところに漂っているようです。

宮崎市定氏は、その論文《中国の歴史思想》の冒頭で、このように記しておられます。

「あらゆる学問の中で、歴史学はとりわけ客観的具体性を尊重する学問である。もちろん、客観性を尊重しない学問などはないであろうが、私の言いたいのは、歴史学は、生のままの歴史事実を尊重する点にある・・・」。

現存する、あるいは、今は隠蔽されているがやがてその存在が明らかにされる史資料を含めて、その史資料の背景にある「生のままの歴史事実」・・・。歴史学が、学として存在し続けるためには、この「生のままの歴史事実」に肉薄し、歴史の事実・真実にたどりつこうとする学問的情熱が要求されます。

「生のままの歴史事実」に対する関心を喪失したり、その追究を断念したりする、学者・研究者・教育者は、もはや、歴史学の研究者の名に値しないといっても過言ではないでしょう。

「生のままの歴史事実」に置き換えて、ある特定のイデオロギー、たとえば、皇国史観とか唯物史観とかによってつくりだされたアドホックな用語に置き換えるとしたら、それは、歴史学の研究者が、研究者であることを放棄して、「一般の人」の水準に歴史学を引き下げることになるでしょう。

宮崎市定氏は、「歴史学では、歴史事実を生のままで、即ちそれだけを全体から切り離したり、独立させたりしないで、全体につながったままで使い道を考えるのである。だから歴史学では、凡ての場合にあてはまるようにと、抽象的なことばで総括することはあまり役に立たない。」といいます。

『部落学序説』の筆者の目からみますと、部落史研究の学者・研究者・教育者が、「生のままの歴史事実」(たとえば、<穢多>・<非人>・・・)を「生のままの歴史事実」として受けとめ続ける、歴史学本来の研究上の姿勢を放棄して、「凡ての場合にあてはまる」、便利な、「抽象的な言葉」、<賎民>として「総括」することは、「あまり役に立たない」どころか、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての<穢多>・<非人>を、<生まれながらにして、本質的な賤しい民・・・>、<賎民>として認識することは、歴史研究にたずさわる学者・研究者・教育者によってなされる、学問上の差別再生産の悪しきいとなみとして映ります。

宮崎市定氏のいう、「客観的具体性を尊重」するためには、部落史の学者・研究者・教育者は、<賎民>という、差別的な概念の枠組みを最初から設定しないで、「生のままの歴史事実」は、「生のままの歴史事実」として受けとめ続ける必要があります。

どうしたら、「生のままの歴史事実」「生のままの歴史事実」として認識し続けることができるのか・・・。

宮崎市定氏は、「その生のままの歴史事実をうかむためには、別のなまのままの歴史事実を手助けとしてもってこなければならない。」といいます。つまり、Aという「生のままの歴史事実」は、Bという「生のままの歴史事実」によって、相対化されなければならない・・・、というのです。

宮崎市定氏によれば、「生のままの歴史事実」の相対化の飽くなき連続こそ、歴史研究の本質であるといえます。「生のままの歴史事実」を徹底的に相対化し続けること・・・、それこそが、歴史研究にたずさわる学者・研究者・教育者の本来的なありようです。宮崎市定氏曰く、「歴史学は、いつまでたっても生の歴史事実から離れられない学問なのである」

部落史研究において、その学者・研究者・教育者が、「生のままの歴史事実」である、近世幕藩体制下の司法警察である非常民としての<穢多・非人>を、<生まれながらにして、本質的な賤しい民・・・>、<賎民>とラベリングして、<穢多・非人>に、すべての<賎民>の負の遺産を押し付け、それでも、<賎民>は、差別とたたかい<脱賎>を勝ち取っていった・・・、と自家撞着的に解釈することは、本来の歴史研究からの明白な<逸脱行為>であると思われます。

部落史研究を<賎民史観>的研究に貶めたもの・・・、それは、部落史の学者・研究者・教育者が暗黙の前提として、かえりみることがなかった、学者・研究者・教育者自身の内なる<差別性>そのものに起因します。

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