2021/10/01

ゆらぐ歴史記述の客観性

ゆらぐ歴史記述の客観性

『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆に際して、筆者、繰り返し、<無学歴・無資格>を表明してきました。

<無学歴・無資格>は、大学等の公的高等教育機関において勉学する機会をあたえられることがなかった・・・、そのため、高等教育を通じてなされる、保守的イデオロギーあるいは革新的イデオロギーをその精神に<注入>されることはなかった・・・ということを意味しています。

そのため、歴史学ないし歴史研究の枠組みにも拘束されないで、目にすることができる史資料を、比較的自由な精神のつばさで散策することができる・・・、という、<無学歴・無資格>のプラスの面をも持ちあわせている・・・、ということの表明でもあります。

そのため、筆者、『部落学序説』とその関連ブログ群の読者の方々から、繰り返しいただいた、<無学歴・無資格を標榜することは自粛した方がいいのではないか・・・>という善意にみちたアドバイスに対して、また<無学歴・無資格を標榜することは、自らを卑下することであり、差別問題を語るものにはふさわしくない・・・>として、筆者に向けられてきた悪意に満ちた<誹謗中傷・罵詈雑言>に対して、筆者、<無学歴・無資格>の立場を堅持すると宣言してきました。

『部落学序説』第5章・「水平社宣言批判」の執筆を再開するにあたって、<無学歴・無資格>、歴史研究の門外漢、部落史研究のしろうとでしかない筆者の立場から、<歴史記述の客観性>について、もういちど、考察しておきたいと考えて、この文章から、筆をおこすことにしました。

<歴史記述の客観性>については、すでに、『田舎牧師の日記(Ⅱ)』の「歴史研究法と歴史相対主義」という文章をしたためています。そのときは、部落史研究という<個別史>ではなく、すべての歴史研究に共通する<一般史>を前提に言及しました。

今回は、部落史研究という<個別史>の世界に限って、<歴史記述の客観性>について言及してまいりたいと思います。

<歴史記述の客観性>について考察するために、筆者が比較研究の対象として參照する論文は、加来彰俊著《歴史記述の客観性》(1963年)と、野毛啓一著《歴史を書くという行為-その論理と倫理》(2009年)の二つの論文です。

前者は、筆者が高校生のときに読んだ人文書院版『講座哲学大系』の『第4巻歴史理論と歴史哲学』に収録された論文、後者は岩波講座『哲学』の『11歴史/物語の哲学』に収録されている論文です。そのふたつの論文が執筆された時の間に、46年という歳月が横たわっています。

その46年という歳月の間に、日本の歴史学あるいは歴史研究が、どのように<発展・発達>していったのか・・・、<無学歴・無資格>の筆者、寡聞にしてなにも知りません。

ただ、偶然、筆者が目にすることになった、二つの論文、西日本と東日本、昭和と平成という時空を越えて、いずれも、<歴史記述の客観性>について、<疑義>を提示しています。

歴史学ないし歴史研究のプロフェッショナルに属する人々は、歴史学ないし歴史研究の基本的な理解として、<歴史記述の客観性>について、批判的に考察し、自らの歴史研究の営みとその研究成果について、<歴史記述の客観性>を保持していると、強弁することを控えてきた・・・と言えるでしょう。

このことは、部落史という<個別史>の研究においても言えることです。

ほんとうの、歴史学の学者・研究者・教育者は、その歴史研究において<歴史記述の客観性>を暗黙の前提として、そのいとなみを続けることはできない・・・、と思われます。しかし、部落史研究に限っていえば、その歴史研究に対しては、<外から目的を課する>という、部落史研究という<歴史研究>に対する<外圧>・・・、部落解放の運動団体や政治団体、その<御用学者>になりさがった研究者集団によって、<歴史記述の客観性>として<賤民史観の強制>が行われきた・・・、ということは、否定すべくもありません。

加来彰俊氏のことばに、このようなことばがあります。「歴史に外から目的を課することは、歴史の尊厳を傷つけるばかりか、歴史のそもそもの存在理由である、事実と空想の区別さえも曖昧にする結果をもたらす・・・」。

今日の古代・中世・近世・近代・現代の部落史研究を通じて、一般的に部落史の学者・研究者・教育者によって、部落史研究の前提として採用されている<賤民史観>は、歴史の<事実>を否定し、被差別部落の民衆に対して、<生まれながらにして、本質的な賤しい民・・・>とラベリングする営みに他なりません。

戦後の同和対策事業・同和教育事業施行の対象となった、その当時の被差別部落の人々が置かれた社会的・経済的低位の状態を、歴史的・理論的に根拠づけるものとして、拡大再生産されていったものが、この、それ自体が典型的な差別思想である<賎民史観>です。

「教訓という目的に役立つためなら、空想の方が事実よりまさる場合だってある・・・」。

部落史研究の目的は、被差別部落の歴史を客観的・実証主義的に検証して、部落差別完全解消のために、学者・研究者・教育者として、史料の発掘と、あらたな歴史像を構築していく責務があったにもかかわらず、場当たり的に人権教育・同和教育を糊塗してきた人々は、奥深いところにある<歴史の事実>・<歴史の真実>ではなく、人権教育・同和教育の「教訓」のみを安易に抽出する愚をおかしてきたと思われます。

歴史学・歴史研究における「一般の常識」は、「歴史家の仕事は、過去の事件や状態を事実に即して客観的に記述することである・・・」と信じていますが、<歴史記述の客観性>を学問的に担保するためには、「過去の事象について正確な知識」が必要です。

「歴史家が「あったことをあった通りに」語るためには、言うまでもなく、「あったこと」について正確な知識を所有していることが前提になる・・・」といいます。しかし、加来彰俊氏は、多くの場合は、「過去の事象について正確な知識を持つことができる」可能性を持つことは「不可能・・・」であるといいます。

その理由は、歴史学ないし歴史研究の主体となる学者・研究者・教育者は、その研究に際して、何らかの「前知識」・「主観」から自由になることができないからです。

それは、部落史研究の世界においてもいえることで、部落史の学者・研究者・教育者は、「自分が直接に経験することができない過去の事象について、つねに史料を媒介にしながら間接的に推理するより他はない・・・」のであって、「意識的たると否とを問わず、事実の解釈には、歴史家の主観が入らざるを得ない・・・」のです。

その<主観>が、部落史の学者・研究者・教育者の<視点>を形成し、それが集団の中で累積されることで<史観>が構築されていきますが、戦後の部落史研究において、部落解放をめぐる運動団体・政治団体・教育団体などの<外圧>によって、<特定の時代の特定の立場から見られた事実の一つの解釈>にすぎない<史観>が、部落史の歴史の事実・真実であるかのように、国民のすべてに、その理解と受容が強制されてきたものが、筆者がいう、<差別思想である賎民史観>に他なりません。

筆者は、無学歴・無資格、歴史研究の門外漢であるにもかかわらず、部落史研究の学者・研究者・教育者の世界で、なんら批判検証されることなく、暗黙の前提として受容されるに至っている、部落史研究の枠組み・・・、史観・・・を、<差別思想である賎民史観>として、<部落学>の批判の対象にしているのです。

歴史研究における、<歴史記述の客観性>を重んじるがゆえに、偽りの、真ならざる<歴史記述の客観性>を批判検証・・・、部落史の学者・研究者・教育者の精神世界奥深くに内在する<差別思想である賤民史観>をとりのぞこうとしているのです。

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