2021/10/02

田中正造と明治維新4 「田中正造穢多を愛す」の真意3

田中正造と明治維新4 「田中正造穢多を愛す」の真意3

Hon0916昨日(2006年9月15日)、徳山市立図書館で借りてきた『田中正造全集第1巻』(岩波書店)・・・、昨々日の夜、インターネット上で検索して、古書店に注文のメールを入れていました。

さきほど、古書店から、『田中正造全集』の「伝記」(第1巻)と「日記」(第9巻~第13巻)を発送したとのメールがありました。

筆者は、文献を読むとき、マーカーを使って色分けをし、整理することを常としています。そのため、図書館や知人から借りた本というのは、マーカーでしるしをつけるわけには生きませんから、なかなか読みにくい事態に直面します。筆者にとって、文献を読むというのは、論文執筆のためのノートつくりに等しいところがあります。

特に、年をとってくると、記銘力が衰えて、記憶の残ったページを探すのが至難の業になります。「確かにこのあたりにあったはずだが・・・」と思って探す時間ほど、無駄な時間はありません。マーカーをつけていれば、ものの数分でそのことばを見つけることができるのですから・・・。

徳山市立図書館で借りてきた『田中正造全集第1巻』をひもときながら、『部落学序説』で田中正造をとりあげる方向性にまちがいがないことを確認しました。林竹二著『田中正造の生涯』は、田中正造の残した資料を忠実に執筆されています。最初、林竹二著『田中正造の生涯』だけを読んで、文章を執筆することにしていましたが、念のため、『田中正造全集第1巻』(自伝)で確認することにしたわけです。

16日の夕方届くということですから、この文章は、『田中正造全集第1巻』(自伝)を解析したうえで書くことが可能になりました。田中正造を研究する多くの学者は、田中正造の自伝を充分には把握することができないようです。研究者の中に、田中正造に関する間違った固定観念が蔓延しているような気がします。

『田中正造全集』を全巻精読すれば、これまでの学者・研究者・教育者がなそうとしてなすことができなかった田中正造の精神世界を解明することができる・・・、筆者は、いま、その予感と感動でふるえています。『部落学序説』執筆完了後、予定している論文に、「新田中正造論」を含んでいいのではないかと思っています。

歴史研究において、従来の一般説・通説を根底から覆すことの機会・・・、というのはそれほど多くはないと思われます。たとえ、「自己満足でしかない・・・」と笑われようと、その機会が筆者の手元にある・・・、というのは痛快極まりありません。

とりあえず、徳山市立図書館で借りた『田中正造全集第1巻』(自伝)の中から、『回想断片』に収録されている「断片23」の全文を転載します。

「田中正造穢多を愛す。7年出獄してより郷里に帰り農業に従事す。夏麦打雇人に穢多を用いたり。時に炎熱の侯麦打の労甚し。雇人等に与うるに清水を桶に盛り来り、一碗その内に投じ置、雇人をして交る交る自由に其水を飲ましむ。穢多も飮み正造も飲めり。正造此穢多と一碗交る交るにす。衆皆之を卑しとしたり。当時村中の流俗穢多を卑しみて床上に登らせず、また湯に入れず。正造即ち穢多を湯に入れ座上に登す。毎日毎日日課卒りてより夜に入り穢多の労を慰め酒を与う。正造又其の盃を交換す。当村老弱男女神仏を祈るの徒は正造の行為を賤しみて隣伍親戚又来らず。正造穢多の人類中に区別すべからざるを説けり。而して説けば説くほど衆皆眉をひそめ唾を吐き、終に正造をも穢多の如く正造に湯茶を飲ますることを忌みて正造不便多かりき」。

当初の執筆計画に基づいて、この「田中正造穢多を愛す」ということばの意味を、林竹二著『田中正造の生涯』の研究成果に基づいて確認してみましょう。

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