『部落学序説』と論理学
これまで、『部落学序説』の筆者が、『部落学序説』を展開する上で避けて通ることができない基本的な「概念」の定義法について説明してきました。
今回の文章を読まれた方は、飯屋に食事をするために行ったのに、そこで飯屋のおやじさんから延々と料理法について聞かされるのと同じ状況に置かれたのではないかと思います。
おいしく定食をいただければこと済むのに、料理法とか食事療法とか説明をきかされた分には、せっかくの美味しい定食も不味くなってしまいます。
今回の文章は、『部落学序説』の舞台裏、あるいは、小説家の書斎を論じているようなところがあります。読者の方の中には、「概念の定義法などどうでもいい・・・」と受け止められている方、また、「その程度の学問的基盤で執筆していたの?」と驚かれる方、いろいろあるようですが、いままで、『部落学序説』を自然体で執筆してきた筆者には、よくもわるくも「その程度」の現実でしかありません。
次回から、「特殊部落」と「差別」について、定義法ではなく、定義例をとりあげていきたいと思っていますが、近藤洋逸著『論理学概論』の最後のページに記された「問題」に目を向けてみたいと思います。
問題
自然科学に比べて、社会科学の立ちおくれは何によるのか。
この問いは、『論理学概論』第5章社会科学の方法の末尾に記されている演習問題ですが、第5章の本文は、「経済学、政治学、法律学、歴史学などの社会科学が自然科学に比べて、その探求のパターンにおいて異なるところはないが、その精密性において、体系性において、そしてまた予測の能力において遜色のあること・・・社会科学の立ち遅れは、何に由来するのであろうか。」という問いではじまっています。
同じ問いではじめて問いで終わる・・・。
『論理学概論』第5章の文章を参考にしながら筆者なりに解答してみることにしましょう。
自然科学と社会科学の方法論を比較しますと、両者の間には根本的な相違点があります。前者は、ものごとの認識において、認識の「主体」と認識の「客体」が分離されうるに反して、後者は、「認識の主体と客体が同一である」ことがあげられます。
『部落学序説』の主題に照らして具体的に適用すれば、部落研究・部落問題研究・部落史研究においては、差別「社会の一員である研究者」が差別・被差別の「社会的人間を研究する」ことを意味します。
このことは、「研究者」が、差別社会の中で、差別者として生きているか被差別者として生きているか、あるいは、差別者であったとしても、差別を肯定して生きているか否定して生きているかという「実践的態度」の如何が、研究者の研究テーマである部落問題・部落差別問題・部落史をめぐる諸問題に対して持つ「理論的態度に影響」することを意味します。
「影響」するのは、「事実判断」ではなく「価値判断」です。たとえば、「近代は、近世と比べて歴史的に進歩した形態である」という「価値判断」が、研究者の「理論的態度に影響」してきますと、近世の「穢多非人」に対して、負の価値概念でしか見えなくなってしまいます。近世の「穢多非人」に関する文献を読んでいても、「事実判断」ではなく「価値判断」を優先させてしまいます。多様な歴史上の存在形態を持つ「穢多非人」を「賤民」として一色に塗り固めてしまいます。
近藤洋逸氏は、「社会科学者は自己の価値判断に好都合な材料のみを集めて仮説を作って展開し、この帰結に合致する事実のみを選びだして確認するという偏向に陥りやすい・・・」といいます。
既存の部落研究・部落問題研究・部落史研究の多くが陥ることになった「偏向」性です。唯物史観・マルクス史観・発達史観・進歩史観・・・、どのようなことばで表現されようと、イデオロギー的概念を使用して分析・総合された研究は、その「偏向」性の可能性があることを常に自己検証しなければなりません。近世幕藩体制下の「穢多非人」を「賤民」概念で認識し、差別的な「賤民史観」のもと「賤民史」に組み込んで言及する・・・、それはこの「偏向」性のあらわれのひとつです。
近藤洋逸氏は、社会科学的認識が、この「偏向」性から解放されて、自然科学的認識、つまり、より学問的認識に近づくためには、方法論がないわけではない・・・、といいます。近藤洋逸氏は、「経済学、政治学、法律学、歴史学などの社会科学」的認識において、不当な「価値判断の介入」を排除して、「客観性」を確認することは可能である・・・、といいます。
方法 その1
既存の部落研究・部落問題研究・部落史研究の検証において、「事実判断の背後にひそむ価値判断を摘出することによって、この判断にもとづく偏向を暴露する・・・」方法。
方法 その2
既存の部落研究・部落問題研究・部落史研究において、「価値判断」によって「設定」された「目的」に「どのような手段が適切であるか」を検証する方法。
方法 その3
既存の部落研究・部落問題研究・部落史研究の「目的設定の基礎にある理想や世界観を明るみに引き出し、それに内的矛盾があるかどうか吟味する」方法。
近藤洋逸氏の指摘する、これらの「方法」は、「価値判断」から「事実判断」を分離せしめ、「事実判断」を「事実判断」たらしめる方法であるといえます。『部落学序説』の執筆者としての立場からいえば、既存の部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究成果から、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」という垢を洗い落として、「穢多非人」に関する資料をして資料みずから語らしめる・・・という方法になります。
従来の部落研究・部落問題研究・部落史研究には、この「価値判断」と「事実判断」が渾然と一体化されたものが多く見られます。
近藤洋逸氏は、「社会科学が科学としての資格を持つためには、科学的探求そのものの中に価値判断を混入させてはならない・・・」といいます。部落研究・部落問題研究・部落史研究が「科学」(学問)としての資格を持つためには、「科学」(学問)的探求そのものの中に、イデオロギー的偏向性をともなう「価値判断を混入させてはならない・・・」と、マックス・ウェーバーの「有名な没価値性の主張」を紹介されています。
しかし、近藤洋逸氏は、「その没価値性の貫徹は容易なことではない。」といいます。
「課題や材料の選択」・「仮説の設定」・「理論の展開」には、「無意識のうちに価値的なものが影響し、好ましくないものを無視し、好ましいものを強調する危険が、常につきまとうからである。」と指摘します。
「課題や材料の選択」、部落研究・部落問題研究・部落史研究の「課題」・「主題」の設定、そのために使用する史料・論文などの「材料の選択」・・・、その作業の中にも、意識的・無意識的に、研究者が生きてきたイデオロギー的価値判断が影響しているというのです。
既存の部落研究・部落問題研究・部落史研究に対して、異なる視点・視角・視座から、既存の研究を全面否定するような新説が提示されるとき、「没価値的」な、特定のイデオロギーと史観に依拠しない、「事実判断」に基づく新説が提示されるとき、どのような事態が生じることになるのか・・・。
近藤洋逸氏は、「対立する価値判断を調停できるのではない・・・」といいます。
近藤洋逸氏によると、社会科学においては、「対立する理論」の是非は、「正確な検証によって一挙に決めることは至難であり、結局は長期にわたる論争によって互に自説を修正しつつ接近するか、もしこれが不可能ならば、説明や予測や問題打解の能力の優劣が、長期の試練によって判定され、一方の勝利に終わることになるのである。現実の社会の前進にどれだけ貢献するかによって最終の審判がくだされるのである」。
『部落学序説』は、部落研究・部落問題研究・部落史研究において、「無意識のうちに価値的なものが影響」していることを真摯に受け止め、できる限り、イデオロギー的価値概念から自由になり、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を退け、史料・伝承・論文を読み直し、その内容を批判・検証することで、「事実判断」に則した部落学を構築すべく、日本の教育・社会によって「無意識のうちに」筆者の中に刷り込まれた「前理解」を言葉化し取り除いていくために、『序説』(プロレゴメナ)として執筆をはじめたのです。
『部落学序説』の読者の方々の中には、学歴・資格を持ち、部落研究・部落問題研究・部落史研究の専門的知識と研究方法をお持ちの方もおられることでしょう。部落研究・部落問題研究・部落史研究のよりよい見直しがあれば、『部落学序説』に対置してくださることを希望します。
今回、この第5章第2節で、識者に一笑に付される・・・、ことを覚悟して、『部落学序説』の執筆者である筆者の手の内を示しました。今回の文章は、課題文をあたえられて解答した高校生のレポートのような文章ですが、筆者の限界を示すものです。
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