2021/10/03

戸籍と国家神道 『部落学序説』今後の展望

戸籍と国家神道  『部落学序説』今後の展望


『部落学序説』の近代以降を視野に入れた叙述は、文書数にして50~60になりました。筆者は、そのために、徳山市立図書館郷土史料室の資料、近くの宮脇書店で購入した関連書籍等を再読しましたが、その間、一度も、幕末・明治初頭の「穢多」ないし「旧穢多」が「賎民」であったという、日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」が説く、「みじめで、あわれで、気の毒な」差別された「被差別部落民」であったという、具体的な資料にはいちども遭遇することはありませんでした。

『部落学序説』の第1章から第3章で取り上げてきたように、近世の「穢多・非人」は、差別されていた「賎民」ではなく、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」の一翼を担う人々でした。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」という概念の「外延」には、「同心・目明し・穢多・非人」(武士の系列)の他、「村方役人」(百姓)の系列が含まれていました。その、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常民」の中でも、最も多人数の「本体」を形成していたのは「穢多・非人」でした。

「穢多・非人」は、幕府の命令で、キリシタン禁教にともなう「宗教警察」として、日本の全国津々浦々に配置されていました。「穢多・非人」の取り締まり対象は、殺人・強盗等の凶悪犯罪の容疑者だけでなく、キリシタンや浪人をも含んでいました。

「穢多・非人」は、「非常の時は身命を投打ちてお上に忠勤奉る身分」として、その職務を遂行してきました。幕末から明治初頭にかけても、「穢多・非人」は、司法・警察である「非常民」として、その職務を忠実に遂行していたと思われます。当初、明治政府は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」を、明治天皇制国家においても「非常民」として継承する予定でした。団弾左衛門の残した文書の分析を通して確認することができます。

しかし、幕府によって、欧米諸国と締結された不平等条約(特に治外法権)を「国辱」とみなす明治政府は、一刻もはやく、不平等条約を改正しようとします。

明治政府は、イギリスとの外交上の密約によって、倒幕後、①「草莽」による外国人暗殺の取り締まりと治安の強化、②「拷問」の禁止と司法・警察行政の近代化、③キリシタン弾圧の即時停止の履行を要求されます。

明治政府は、「王政復古」を、手のひらを返すように覆し、「廃藩置県」により、旧制度(旧体制)を解体・破棄し、近代中央集権国家に相応しい新制度(新体制)を樹立しようとします。そのとき、明治政府は、「国際外交」と「国内政治」を使い分ける形で施策を遂行します。

明治新政府は、欧米諸国に対しては、司法・警察の近代化への努力を吹聴しつつ、「国内政治」上、人民を明治新政府に服従させるためには、近世幕藩体制下の刑法典と司法・警察制度を欠かすことができないとして、それを採用します。犯罪容疑者の取調・糾弾に際して「拷問」を採用し、刑罰としては、従来の東洋的・日本的な身分制度を前提とした「刑罰」を採用するのです。

明治新政府の「キリシタン弾圧」は、明治新政府の「王政復古」のシンボル的な出来事として認識され利用されていきます。近世幕藩体制下のキリスト教禁圧政策は、明治新政府にひきつがれ、「宗門改め」は、浄土真宗等仏教寺院から、神社(国家神道)へと移行されていきます。すべての人民は、キリシタンでないことのあかしとして「氏子改め」を強制されます。しかし、「氏子改め」は「宗門改め」の焼き直しに過ぎないという諸外国からの批判で明治新政府は、「氏子改め」の廃止を余儀なくされます。

明治新政府は、国辱である「治外法権撤廃」と「キリスト教禁圧」という矛盾する施策を同時に強行しようとします。

明治新政府は、そのことによって、ますます、「国際外交」と「国内政治」の二重化という迷路に追いやられていきます。諸外国に対するアナウンスと、日本の人民に対するアナウンスの内容は、ときとして正反対である場合も生じるようになりました。

「国際外交」上は、①草莽の鎮圧、②拷問の廃止、③キリシタン弾圧の廃止を粉飾しつつ、「国内政治」上は、①草莽の、明治新体制への吸収と仮想「草莽」の排除(スケープゴートにされたのが、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」)、②拷問制度の継承と身分刑の存続、③キリシタン禁圧政策の潜在化(このために、近世幕藩体制下の宗教警察である「穢多」も、「半解半縛」の形で潜在化させられる)の諸政策を遂行していきます。

筆者は、「部落差別」は、近世幕藩体制の「賤民制」の「封建遺制」として継承されたものではなく、明治新政府が直面した「国際外交」と「国内政治」の相反する要請の妥協として成立させられたものであると考えます。「部落差別」を作り出した勢力として、明治新政府だけでなく、明治新政府に外交上の圧力をかけた諸外国も加えなければなりません。「部落差別」発生の淵源は、日本の近世以前の歴史の中ではなく、幕末・明治の「外交史」の周辺に存在しているのです。

明治新政府は、この歴史上の事実を、強権を発動して、歴史学研究・教育の世界から排除してきました。明治政府の外交上の問題を歴史学の研究に付し、その成果を公にすることを禁止しました。東京帝国大学をはじめ、すべての大学の歴史学は、その研究テーマを範囲・内容共に限定されました。国家権力の代弁者である「教授」の許可なくしてその研究を続けることはできませんでした。歴史学の内規に違背すると、「教授」の地位を失い、歴史学会から追放されることになりました。

日本の歴史学は、「科学」・「学問」としての性格を削ぎ落とし、「権力に対する奉仕の学」として展開されていきます。日本の歴史学は、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常・民」としての「穢多・非人」の歴史上の実像を否定し、その代わりに、「みじめで、あわれで、気の毒な」被差別民として、日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」の枠の中に閉じ込め、「穢多」(近世)と「元穢多」(近代)を限りなく貶めてきたのです。

権力の学としての歴史学に立脚する歴史学者によって、「穢多非人」は「賎民」とされ、やがては「棄民」扱いされるようになるのです。

明治4年の太政官布告第488号と第489号は、「身分」・「職業」共に平民同様という、極めて中途半端な内容の布告でした。近世幕藩体制下の「身分」は、「役務」と「家職」から構成されていました。他の非常民と違って、「穢多非人」身分のみ、「役務」については、明治政府は言及を避け、曖昧にしたのです。そのあいまいさは、やがて、太政官布告のあと、地方行政で施行されるとき、さまざまな解釈と、それにともなう多様な施策を生み出したのです。

この明治4年の太政官布告は、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常・民」の、近代的な再構成を意図したものでした。「穢多非人」の一部は、近代天皇制国家の司法・警察に吸収されていきました。また、明治政府と地方行政によって、再雇用されなかった「穢多非人」は、「警察の手下」(探偵)になるか、司法・警察関連の仕事から離れ、下級公務員や小学校教員、近世幕藩体制下の「家業」(職業)で生計を立てていくことになりました。

明治政府の「警察の手下」(探偵)の雇用のため、明治政府は、「警察機密費」の制度をつくります。「警察機密費」は、「娼妓」に対して課税されます。明治の近代「警察」は、当時の風俗業(遊女や芸子)に対する課税によって、探索・捕亡・糾弾の体制を強化していきます。明治政府の「娼妓」に対する対応も、「国際外交」と「国内政治」のはざまで二重化され、「娼妓解放令」はなしくずしに無化されていきます。

明治4年の太政官布告は、多くの「元穢多・非人」にとって、「非常・民」から「常・民」への移行を意味していました。「非常・民」のまま、その職務を遂行したい人には、その道がまだ残されていましたし、もともと「穢多」の役務に向いていない多くの人々は、「非常・民」を棄てて「常・民」化の道をたどったのです。

しかし、明治4年の太政官布告第488号と第489号のもっている危険な要素、近代天皇制国家の人民の「総非常民化」に気づいていたのは、近世幕藩体制下の「常・民」であった「百姓」、明治天皇制下の「平民」であったのです。「百姓」(「平民」)は、明治政府に、「常・民」と「非常・民」の区別を守るように強訴します。部落史研究家のいう、「解放令反対一揆」は、決して、「元穢多非人」に向けられたものではなく、「人民」の「総非常民化」を進める明治新政府に向けられていたのです。明治政府は、自らに向けられた批判をそらすため、歴史学者をして、「明治政府反対一揆」ではなく「解放令反対一揆」として解釈せしめたのです。その雛形は、長州藩の天保一揆に際しての藩側の対応に前例があります。

「常民」・「非常民」の概念操作は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」上で一般的にいわれる「解放令反対一揆」の解釈にあらたな視点・視座・視角を提供します。

明治4年の太政官布告第488号と第489号は、「常・民」である「元百姓」(近代の「平民」)にとって、「元百姓」とは関係のない、他者に向けられた「布告」ではなく、「元百姓」にとって、避けて通ることの出来ない、直接、「元百姓」の生き方に大きな影響をあたえかねない「布告」として認識されたのです。そう認識されたがゆえに、「明治政府反対一揆」(「解放令反対一揆」)は、過激な闘争の様相を呈してきます。

「明治政府反対一揆」(「解放令反対一揆」)は、近世幕藩体制下の「常・民」である「元百姓」が、近代天皇制国家においても「常・民」であり続けようとする闘い、「非常・民」になることを拒否する闘いでもあったのです。

『部落学序説』は、部落研究・部落問題研究・部落史研究が素通りする主題について、多角的な叙述を展開してきましたが、近世幕藩体制下の「穢多非人」は「賎民」でもなければ「被差別者」でもないこと、明治初期(~明治4年の太政官布告)の「穢多非人」も、同様、「賎民」でもなければ「被差別者」でもないことを確認しつつ、「太政官布告」が地方行政でどのように受け止められ、「元百姓」による「明治政府反対一揆」(「解放令反対一揆」)に発展していったかを明らかにします。

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