2021/10/03

「壬申戸籍」に関する一考察 4.壬申戸籍と神社

「壬申戸籍」に関する一考察 4.壬申戸籍と神社


「壬申戸籍」には、「族称欄」だけでなく、「寺院」と「神社」の名前を記す欄があります。

宗教記載欄を見ると、近世幕藩体制下の身分を示唆する「寺」と、明治になってから新たに組み込まれた「神社」の両方を確認することができます。

西日本の「旧穢多」は、幕藩体制下においては、熱心な浄土真宗も門徒でした。長州藩の場合、「穢多」は「穢多寺」に所属し、「茶筅」は「茶筅寺」に所属していました。それらの代表的なものは、長州藩の税金台帳である『防長風土注進案』を見れば、その由来・教勢・産業・文化等を詳細に知ることができます。『防長風土注進案』は、山口県の公立図書館に行けば必ず常備されていますので、誰でもその気になれば、「穢多寺」の在所を確認することができます。

20数年前、山口の地に住み着くようになった「よそ者」の筆者が、防長2ケ国の「穢多寺」の名前とその在所を知ることができるのは、公立図書館の郷土史料室で、『防長風土注進案』・『地下上申』という、近世の「穢多非人」に関する記述を含む史料を簡単に閲覧することができるからです。

前ページに添付した写真は、周防国にある西本願寺系列の「穢多寺」2ケ寺のうちのひとつです。筆者は、「相対座標」を用いて、「周防国東穢多寺」・「周防国西穢多寺」と読んでいます。これは筆者の『部落学序説』執筆上の呼称なので、『防長風土注進案』・『地下上申』にはこの名前では登場してきません。『防長風土注進案』・『地下上申』の「穢多寺」は明治以降、統廃合されたり、名称変更されたりしていますので、『防長風土注進案』・『地下上申』で「穢多寺」をみつけても、それで、直接、その歴史を引く現在の寺に直結するわけではありません。

筆者は、あえて、「周防国東穢多寺」の写真を掲げたわけですが、最初、「周防国東穢多寺」の前に立ったとき、一瞬とまどいを覚えました。「一見、武家屋敷の風格のある真宗寺院が、なぜ差別されてきた寺なのか・・・」。筆者の常識から判断すると、もっともっと鄙びた小さな寺院を想像していたのですが、目の前にある「周防国東穢多寺」は、萩城下の武家屋敷に勝るとも劣らない風格を持っていました。寺をとりまく白壁の美しさは、寺に明るさを添えていました。

住職に、屋根の「鯱」について尋ねたら、「屋根瓦の職人が勝手に付けていった・・・」ということでしたが、筆者は、近世幕藩体制下の長州藩の瓦葺き「穢多屋敷」を受け継いでいるのではないかと思いました。屋根の「鯱」は、被差別部落の家によく見受けられますが、あるとき、広島の県北をドライブしていたら、国道沿いの両側の家すべての家に「鯱」が飾られてあったのには驚きました。流行とか職人の趣味とかの要素が加わっているので、屋根の「鯱」は何の目安にもなりませんが、「周防国東穢多寺」の屋根の「鯱」は大きな「鯱」です。

「周防国東穢多寺」だけでなく、「周防国西穢多寺」・「周防国北茶筅寺」・「周防国中茶筅寺」・「周防国南茶筅寺」も、それぞれ、その地域に相応しい風格をもった寺です。

「茶筅寺」は、「旧茶筅」身分の末裔を門徒として抱えている浄土真宗の寺の住職の聞き取り調査から割り出したものです。

「周防国東穢多寺」の住職は、被差別部落の人々は、「差別されて、どの寺も受け入れてもらえないので、かわいそうだから、浄土真宗の当寺が引き受けています・・・」と話していましたが・・・。

筆者は、浄土真宗の「穢多寺」は、近世幕藩体制下における、当時の「宗教警察」機構のひとつであったと思っています。

『神々の明治維新』の著者・安丸良夫は、「国家権力の憎悪と恐怖」の代表的なものとして、キリシタンに対する「憎悪と恐怖」をとりあげています。その結果、「わが国の歴史においてもっとも残酷な刑罰がおこなわれた」のです。歴史上、まれに見る、差別と疎外、弾圧と糾弾・・・が展開されていったのです。近世における日本の「ホロコースト」と言ってもいいかもしれません。

安丸によると、純粋に宗教的な行為である「告解」についても、「父母殺しなどの五逆罪や国家への謀反反逆の罪」と同等とされ、子女を含むおびただしいキリシタンがその弾圧・糾弾の被害者になっていきました。

日本の権力者は、一度たりとも、キリシタン弾圧と糾弾、差別と抑圧に対して、罪責告白をしたことはありません。日本の歴史上の最大の人権侵害に対して、一度も、その事実を認め、その罪責を告白したことはないのです。浄土真宗も、「穢多寺」を介して、キリシタン弾圧と直接関与したことについて、一片の謝罪を告白したこともありません。

日本においては、基本的には、「罪」は、取り除かれることによってではなく、忘れ去られることによって、「許される」と受け止められています。大和の国の地の深きところにある、「地の国・根の国」に忘れられることによって、「天津罪」・「国津罪」のすべてが許されると信じているのです。そういう意味では、日本の国は、忘れられてはいるが、決して取り除かれていないもろもろの罪の上に浮かんでいるのです。

もちろん、キリシタン弾圧の責任を浄土真宗のみに押しつける意図は筆者にはありませんが、「周防国東穢多寺」を前にして、武家屋敷に似た風格に感激しつつ、「この寺もまた、キリシタン弾圧・糾弾の拠点になった寺・・・」という思いを禁じ得ません。

幕末・明治にかけて、キリシタン弾圧問題が再燃したとき、そして、日毎に、キリシタン弾圧問題をめぐる欧米各国の外交上の抗議が激しくなるなか、明治新政府は、近世幕藩体制下の「宗教警察」を見かけ上、分離・解体しようとします。「分離」・「解体」をもって「近代化」のこころみ・・・という詭弁を弄します。「神仏分離と廃仏毀釈」の背景にも、このキリシタン弾圧・糾弾問題は大きく影を落としているのです。

明治政府は、キリシタン弾圧・糾弾機構を、浄土真宗から国家神道に移そうとします。明治新政府は、近世幕藩体制下の「宗門改め」に代えて、「一村一鎮守制」(水戸藩)、「一村一社制」(長州藩)を普遍化して、全国津々浦々を「国家的祭祀の体系」に組み込み、「氏子改め」を強制しよとします。

「壬申戸籍」の宗教欄の「寺院」と「神社」の名称の背後には、「神道国教体制」(安丸)化への様々な要因が錯綜しているのです。

明治4年の太政官布告第488号・第489号をもって、「旧穢多非人」の称が廃止されるとともに、近世幕藩体制下の「穢多寺」もまた、その称号を廃されたと思うのです。 

「宗門改め」に代えて、「氏子改め」を採用することで、仏教寺院(特に、浄土真宗)に代えて、明治維新にともなって、「神道モ御一新」の名のもとに、「一村一社制」として近代化された国家神道が採用されていくのです。

「穢多寺」は廃止され、「穢多社」(穢多神社)が日本全国に成立していくことになります。しかし、「穢多社」(穢多神社)という言葉を耳にすることはありません。近世幕藩体制下の幕府と違って明治近代天皇制国家は、そのような表現を採用することがなかったためです。

明治新政府は、欧米諸外国から「氏子改め」も批判され、あまり時を経ないで撤回していきます。

欧米諸国とは、十分な外交的対話をしつつ、国内政治においては、基本的に、前近代的な「よらしむべくしてしらしむべからず」という、民衆支配の形態を踏襲していった、明治政府のコンプレックスに満ちた姿がここにあります。

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