2021/10/01

穢多と明治維新 4.近世・穢多と近代・警察の類比(アナロギア)

穢多と明治維新 4.近世・穢多と近代・警察の類比(アナロギア)

前回、小島慶三著『戊辰戦争から西南戦争へ 明治維新を考える』を参考にして、「穢多」がどのように幕末から明治初期の時代を生き抜いていったのか、歴史的に考察するために、時代区分を設定しました。

文久3年(1863)~慶応4年(1868) 明治維新前夜
明治元年(1868)~明治4年(1871) 王政復古の時代
明治4年(1871)~明治6年(1873) 王政復古を廃止、政治システムの近代化が選択された時代
明治6年(1873)~明治14年(1881) 政敵・民衆の惨殺による中央集権国家樹立の時代

この時代区分は、従来の部落史研究とは直接関係のない一般史の時代区分から抽出したものですが、この時代区分が、「部落学」構築に際して、有意味な時代区分であるかどうか、「部落学」と比較的関連性の深い特別史から検証してみましょう。

その特別史というのは、『山口県警史』です。

この『部落学序説』では、「部落学」を「非常民の学」として設定しました。その際の「非常民」という概念は、「軍事」に関する「非常民」と「司法・警察」に関する「非常民」から構成されています。

「軍事」に関する非常民は、主に「武士」によって構成されていますが、「司法・警察」に関する「非常民」は、「武士」(与力を含む)だけでなく、「同心・目明し・穢多・非人」と「村方役人」によって構成されています。

「非常民」は、軍事・警察から構成されるのですが、この「非常民」は、武器の携帯と使用が認められ、時には、ひとを殺害する権能を与えられていたという点では、「非常民」の対極にある「百姓」とは大きくことなります。「百姓」は、武器の携帯と使用、如何なる意味でもひとを殺害する権能は付与されていませんでした。

筆者は、「穢多」(大域概念)を、「警察」、近世幕藩体制下の「司法」と「警察」の渾然とした状態を指して「司法・警察」である「非常民」として把握してきました。その際、「警察」という概念を用いましたが、実は「警察」という概念は、「明治以前には存在しなかった」(『山口県警史』)といいます。

『山口県警史』は、近世幕藩体制下の司法・警察について記述する際に、この「警察」という言葉を使用しますが、「警察的なもの」として使用するといいます。

近世幕藩体制下においては、「司法と行政の未分化」のため、近代的な意味の「司法」・「警察」という概念は明確ではなく、一般的には、「司法・警察」と表現されます。岩国藩の歴史記述においても、「司法・警察」という表現は、文字通り使用されています。筆者も、「司法」・「警察」ではなく、「司法・警察」として表現してきました。

清浦奎吾著『徳川時代警察沿革誌』(昭和2年内務省発行)によると、近世幕藩体制下の「警察は誠によく行き届いて、その布置・按配の宜しきを得ていることは、ほとんど意外と思われるようなことも往々にある」といいます。
清浦によると、近世幕藩体制下の「司法・警察」は、「行政警察」・「司法警察」・「国事警察」・「安寧警察」を網羅したものであり、その歴史的淵源は、中世に由来するといいます。日本固有の「司法・警察」は、近世幕藩体制下においてほぼ完成の域に達し、「今日の警察事項と名称こそ異なっているが、その実際に至ってはほとんど同じもの」であると評価します。

「風儀・宗教・祭儀・出版・衣服の制度・貧民救助の警察・賭博・売淫・火災・古物商・質屋・贓物取締・遺失物埋蔵物・旅人、奉公人ならびに請人・浮浪の徒・変死の事・芝居・棄児・牛馬車・駕輿・鳥獣狩猟・度量衡・道路・関所・水路・橋梁・堤防・井戸に関した取締り・乞食無宿罪人悪漢の逮捕・・・ほとんど一も備わらぬものはない位」、「警察」機能が整備されていたといいます。

近世幕藩体制下の「警察」は、実際は誰によって運営されていたのでしょう。

それは、当時の「警察」官僚(現在のキャリア)によって運営されていたのではなく、種々雑多な取締りは、「警察」本体、「同心・目明し・穢多・非人」と「村方役人」によって運営されていたのではないかと思います。

長州藩では、「穢多」役(穢多・茶筅・宮番)と「非人」役は、「穢多」役に収斂されていきますが、武士が配置されていない村や浦には、ほとんどの場合、穢多・茶筅・宮番が配置されていました。「司法・警察」機能をもった「藩士」の姿がみえない場合でも、そこには、「司法・警察」という権力の象徴である「十手」を持った穢多・茶筅・宮番が存在していました。多くの百姓にとっては、穢多・茶筅・宮番は、「権力」そのものでなかったのではないでしょうか。

『山口県警史』では、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・茶筅・宮番」のうち、「宮番」だけはその歴史の中に組み込んでいますが、「穢多」と「茶筅」については、言及をさけています。

長州藩においては、本藩領・熊毛宰判の浅江穢多村においては、穢多を対象にした「宮番」養成機関があった可能性があるということについて言及しましたが、長州藩においては、「宮番」=「穢多」でもあるのです。

これも既述のことですが、長州藩においては、「宮番」=「茶筅」でもあるのです。「村内捕亡使」として、司法・警察業務を担当していたのですから、『山口県警史』が、そのうち「宮番」だけをとりあげるのは、不徹底との感を否めません。

『山口県警史』が、「宮番」を近世幕藩体制下の司法・警察としてその歴史に組み込んでも、「宮番」の上司とも言える「穢多」・「茶筅」についてほとんど、その歴史の中に位置付けすることができないのは、「穢多」・「茶筅」が、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」によって、歴史の事実からほど遠いイメージ、「みじめで、あわれで、気の毒な」被差別民の印象を強く持たされたためではないかと思います。『山口県警史』は、「穢多」・「茶筅」という概念が「被差別民」という外郭で覆われてしまったため、歴史上の正しい位置に位置づけることができないでいるのだろうと推測されます。

『山口県警史』によって、日本の中世・近世・近代、とくに、幕末から明治初期までの、司法・警察である「非常民」の時代的発展・変節を考察するとき、その時代区分は、小島慶三著『戊辰戦争から西南戦争へ 明治維新を考える』で提示される時代区分と一致していることを確認することができます。

文久3年(1863)~慶応4年(1868) 明治維新前夜

この時代の司法・警察である「非常民」は、その職務を忠実に果たしていたと思われます。司法・警察のキャリアではなく、警察本体である「穢多」も、司法・警察の重要な担い手として、その職務に従事していたと思われます。ただ、黒船以後、この「穢多」の上にも、新しい時代の波が押し寄せてきます。しかし、多くの「穢多」は、保守的な体質から、その時代の波に乗ることが難しかったようです。岡山藩の渋染一揆は時代のひとつの亀裂の中で生じた、不幸なできごとでした。また、長州征伐・四境戦争の際、幕府側においても、長州藩の側においても、司法・警察である「穢多」(穢多・茶筅・宮番)の担った役割は大きなものがありました。「穢多」や「茶筅」の一部が、長州藩の正規軍として参戦したことのみ強調されて、それぞれの「軍隊」が出兵したあとの藩の治安維持にあったのが、幕府側・長州藩側を問わず、「穢多」であったということは、ほとんど不問に付されています。この時期の「穢多」について、その実態を解明することが、明治4年の太政官布告の真意を理解するのに役立ちます。

明治元年(1868)~明治4年(1871) 王政復古の時代

明治維新によって、「王政復古」が図られますが、そのとき、司法・警察の分野においても、王政復古の影響がでてきます。天皇制側は、日本全国のすべての村落に「番人」(大域概念としての「穢多」)を置いたのは天皇であると宣言します。その司法・警察によって、日本の社会の安定が守られてきたのであると。この時代、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」は、明治新政府の司法・警察である「非常民」としてそのまま新体制の中に組み込まれていきます。この時期、明治政府は、四民平等の理念のもと、国民皆兵制を導入して、近世幕藩体制下「常民」であり続けた「百姓」を、軍事的な「非常民」として再編成しようとします。

明治4年(1871)~明治6年(1873) 王政復古を廃止、政治システムの近代化が選択され時代

明治政府は、諸外国と締結していた日本の国辱である「不平等条約」改定の最初の時期を迎えて、諸外国との交渉を急ぎます。特に、「治外法権」撤廃は、明治政府の悲願でした。一日も早く、この国辱をそそぎたいと思った明治政府は、諸外国と交渉に入りますが、日本の司法・警察が抱えていた体質と問題の故に諸外国が納得しません。むしろ、日本に、外交的圧力をかけて、日本の警察の近代化を要求されます。問題とは、拷問制度とキリシタン弾圧をめぐる宗教警察制度のことです。明治政府は、最初の「治外法権」撤廃交渉時期に焦って、日本の政治システムの急激な変革を実施します。それが、廃藩置県の形になってあらわれます。そのとき、日本の旧司法・警察システムも解体を余儀なくされるのです。それが、明治4年の太政官布告になってあらわれるのです。民衆は、「穢多」が「非常民」であることを更迭されたことに対して反対一揆を起こします。「穢多」身分の廃止は、宗教警察の解体でもあったのです。この時期、日本は、警察の近代化を図って、それまでの「軍政警察」から「司法警察」へ転換をはかります。それを強力に遂行したのが、司法省の重職にあった江藤新平でした。江藤は、長州派閥が引き起こした政治的スキャンダルに対して法治主義を徹底しようとします。

明治6年(1873)~明治14年(1881) 政敵・民衆の惨殺による中央集権国家樹立の時代

しかし、明治6年の政変によって、長州派閥が引き起こした政治的スキャンダルは、大久保の専制的権力行使によって闇から闇へ葬られていきます。江藤新平自身も、大久保の権力の毒牙にかかって、裁判らしい裁判をかけられることもなく暗殺にひとしい状態で抹殺されていきます。江藤新平が構築してきた、法治主義を要とする「司法警察」は否定され、近代警察は、「国家警察」(時の権力に服従する)として、権力の「走狗」に変質していきます。明治14年の政変まで、近代警察は、権力の直接の執行機関として、民衆の前に、その威力を行使するのです。初代警視総監になった川路利良は、警察の「近代化」を図っただけでなく、フランスから「密偵組織」を導入しました。その当時の公安警察といってもよいでしょう。その「密偵組織」を使って、さまざまな情報を収集、それを基にして、政府反対一揆や内乱を鎮圧していったのです。

明治4年8月太政官布告によって、「穢多」の身分と職業から自由になった「旧穢多」は、明治4年(1871)~明治6年(1873)と明治6年(1873)~明治14年(1881)の二つの時代をどのように生き抜いていったのでしょうか。キリシタン弾圧にかかわる「宗教警察解体」として社会的に排除されていった、スケープゴートとされた「旧穢多」と、近世幕藩体制の司法・警察である「非常民」として、近代警察に組みこまれていった「旧穢多」とが存在するのです。そして、明治13年に発行された、司法省蔵版『全国民事慣例類集』に見られるような、「官の警察の手先」となった「旧穢多」、「警察探偵」となった「旧穢多」も存在するのです。明治4年の太政官布告後の「旧穢多」と明治新政府の「警察」機関との間には、複雑な関係が構築されていくのです。筆者は、それが、近世司法・警察である「非常民」としての「旧穢多」の「常民」化を大きくさまだげ、そのことが今日的な部落差別に発展していったと考えています。

この時代まで、「部落」という言葉は使用されていませんでした。「部落」という概念が行政用語・学術用語として使用されるようになったのは、明治20年以降のことです。それは、明治14年の政変が大きく関係を持っていると筆者は考えます。

小島慶三著『戊辰戦争から西南戦争へ 明治維新を考える』の一般史から見た時代区分、『山口県警史』という特別史から見た時代区分、その両者とも、同じ構造を持っていると言えます。

筆者は、「明治4年の太政官布告」が持っている意味を、次の4つの時代区分に基づいて解明していきたいと思います。

文久3年(1863)~慶応4年(1868)
明治元年(1868)~明治4年(1871)
明治4年(1871)~明治6年(1873)
明治6年(1873)~明治14年(1881)  

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