2021/10/01

定義・命題・推理

定義・命題・推理

筆者は、無学歴・無資格です。

最近、この言葉がますます好きになりました。無学歴・無資格というのは、公的な高等教育を受けていない・・・、ということを意味します。

それでも、学問を指向しようとしますと、自分なりにカリキュラムを組んでそれを実践していくことになりますが、筆者は、若かりし日、自分に対する教育のために、教養科目の中に、「論理学」を組み込みました。テキストは、近藤洋逸著『論理学概論』。

この本を選択したのは、岡山の丸善の岩波コーナーで、この書を手にとってみて、なにとなく読めそうな気がしたからです。19歳のときです。

ある種の出会いのひとつです。

それから、40年が経過しますが、この本、装丁が頑丈で何度読んでもページがばらけることはありません。固い表紙は、使えば使うほど光沢が出てくるようです。

いままで、近藤洋逸著『論理学概論』にしたがって、「概念」の定義法について紹介してきましたが、「定義」された「概念」を「主語と述語」に使用して両者を「ある」・「ない」という語で連結しますと「命題が成立」します。この「命題を根拠にして他の命題を導き出すことを推理とか推論と呼び」ます。このとき、「根拠」となる命題を「前提」と呼び、「これから導き出される命題を「帰結」」と呼びます。推理・推論は、「演繹推理」(deductive inference)、あるいは、「蓋然的推理」(probable inference)として遂行されます。

つまり、論理学というのは、ものの見方・考え方の形式を教えてくれるものです。

独学をするものにとっては、論理学は、必須科目になります。

論理的思考ができないと、せっかく学んだ知識も、体系化して自分のうちに取り込むことができません。

それに、独学というのは、直接指導してくれる「教授」、学んだことを相互研鑽する「学生」という人間関係と相互学習の場を持たない・・・、ということを意味しますから、自分のものの見方・考え方をできるかぎり客観的にとらえるためにも、論理的な発想・手法を身につける必要があります。

無学歴・無資格の人間が、文章を執筆し、公開することに何らかの責任があるとすれば、その文章の論理性と客観性がどれだけ担保されているかにあると思われます。

論理学には、形式的思考にいくつもの規則を設定しています。

たとえば、「定義」についていえば、守らなければならない五つの規則があります。

近藤洋逸著『論理学概論』の言葉をそのまま抜粋しますと以下のようになります。

規則Ⅰ 定義は被定義項の公共的内包を与えるべきである。
規則Ⅱ 定義項のきめるクラスと被定義項のそれとは一致すべきである。
規則Ⅲ 定義は被定義項またはこれと同意味の名辞を用いてはならない。
規則Ⅳ 定義は曖昧な、多義的な、また比喩的な言葉を用いてはならない。
規則Ⅴ 定義は、肯定的な言葉で述べうるときには、否定的な言葉でのべるべきではない。

これらの規則は、みずからの論理性を検証するときにも使用できますし、また他者の論文を批判・検証するときにも使用できます。

大学等の高等教育機関で「論理学」の単位をとらずとも、中学校・高校の数学教育を通して、論理学的知識と活用方法は修得できるし、修得しているはずです。そこから、近藤洋逸著『論理学概論』への道はそれほど遠くはありません。

筆者が住んでいる隣の市(周南市・旧徳山市)に徳山大学という私立大学があります。毎年、島野清志著『危ない大学、消える大学』において、最下位グループにランクインされていますが、この私立大学では、論理学のテキストに近藤洋逸著『論理学概論』を採用しているようです。

そういう意味では、今日、近藤洋逸著『論理学概論』に記載されている論理学の知識と技術は、半ば、常識化した部類に入るのでしょう。無学歴・無資格の筆者が、近藤洋逸著『論理学概論』をとりあげ、みずからの思考がこの書に依拠していると高言しても決して不可思議なことではないでしょう。

論理学的能力・・・。

それが直接影響する分野は、情報処理の世界ではないかと思っています。プログラミングは、まさに記号論理学の世界です。論理性を無視するか間違いますと、情報処理システムはたちどころにハングアップしてしまいます。小さな論理的なエラーが、大きなネットワークシステムの障害につながることも少なくありません。

このプログラミング、システム構築の分野で、外国人技術者が導入されているといわれますが、日本における論理学的教育(数学教育)の失敗が大きく影響しているのかもしれません。

明治以降の「国民国家」においては、「国民」は、「国家権力の道具として消費される「臣民」」として位置づけられていました(岩波講座『憲法2』 人権論の新展開)。その「臣民」とは、国家権力によって、「死ね」と命令されたら、戦場で死に、国家の施策に反論しない国民のことです。明治政府は、国民に近代教育を提供するとともに、国民がみずから、主体的に、思考、判断、行動する国民になることを極力抑えてきました。そのための政治的装置が「公教育」と「検閲」(信教と思想の弾圧)でした。

今日、日本社会の右傾化の中で、「推理・推論」の否定と「検閲」の導入を唱える学者・研究者・教育者も少なくないようですが、それは、学者・研究者・教育者の学問性がすでに破綻しかかっていることを示しています。

論理学的知識と技術の集大成は、医学とか法学の世界にみられます。医学教育、法学教育の目的は、医学・法学の体系的知識と技術の修得におかれます。

無学歴・無資格の筆者がいうのも変ですが、学問の体系化は、医学・法学の分野だけでなく、少なくとも学問の名のつくものには、共通の課題ではないかと思われます。

それなのに、なぜ、これまで、部落研究・部落問題研究・部落史研究の分野で、研究成果の体系化がおこなわれなかったのでしょうか・・・?

筆者は、部落研究・部落問題研究・部落史研究において、学者・研究者・教育者が、その基本的な概念に対する定義、また定義に基づく命題と推理・推論を怠ってきたためではないかと思っています。唯物史観・マルクス史観などのイデオロギー史観の適用を優先させ、実証主義的な部落研究・部落問題研究・部落史研究を怠ってきたためではないかと思っています。

そのため、「特殊部落」・「差別」という概念ですら、共通の認識を得ることができずに今日に至っているのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...