2021/10/01

「まなざし」と「鏡映自己像」

「まなざし」「鏡映自己像」

筆者、無学歴・無資格、大学等の高等教育の門外漢なので、心理学に関する知識はほとんど皆無です。

筆者の書棚から心理学関係の書籍を探しても、あるのは、わずか1冊のみ・・・。相良守次著『心理学概論』(岩波書店・1968)・・・。

筆者が心理学的な知識を得るために、ひもとく本は、昔も今もこの『心理学概論』のみ・・・。

その第16章は、「問題に当面して」・・・。

その小見出しを拾い上げてみますと、「問題事態・問題事態の分析・情報の蒐集・手段と目標・道具手段の発見・道具の制作・仮説と試み・仮説の功罪・仮説の偏り・解決のための戦略・概念の形成・関係把握・生産的思考」等が論じられています。

この小見出し・・・、アトランダムに列挙されているのではなく、問題解決の心理学的道筋を順を追って説明・解明したものです。

筆者、まったくの無学歴・無資格、大学等の高等教育には無縁な存在故、筆者の<独学>の質は、筆者自身で保障しなければなりません。高等教育を受ける機会にめぐまれた人は、大学の教授・助教授・講師の方々から、問題解決について、豊富な知識と技術、そして実践的訓練を受けることになるでしょうが、<独学>の場合、それすら、自分で身につけなければなりません。

それで、無学歴・無資格の筆者、自分の問題解決能力を向上させるため、相良守次著『心理学概論』の第16章・「問題に当面して」を問題解決の心理学として、筆者の人生の様々な場面で応用してきました。

問題解決のための、「問題事態・問題事態の分析・情報の蒐集・手段と目標・道具手段の発見・道具の制作・仮説と試み・仮説の功罪・仮説の偏り・解決のための戦略・概念の形成・関係把握・生産的思考」の各段階における自己批判と自己検証を積み重ねてきました。

筆者の<独学>を、心理学的に客観的なものにするために、筆者が採用したのが、相良守次著『心理学概論』だったのです。

最近、問題解決の方法を知らず、「問題事態」からいきなり「非生産的思考」と行動に堕してしまうような事件が相次いでいます。無学歴・無資格の筆者と違って、学歴・資格をもち、高等教育を受けることにめぐまれてきた人にして・・・です。

筆者、相良守次著『心理学概論』を通して、心理学的に自己をコントロールする方法を習熟したが故に、それ以降、心理学的な書籍・・・、特に、みーちゃん、はーちゃんのための通俗的心理学に関する本を読むことはありません(そういえば、歴史に関しても、みーちゃん、はーちゃんのために書かれた歴史の本をひもとくことはありません・・・。)。

それなら、なぜ、今回、相良守次著『心理学概論』に依拠しないで、梶田叡一著《学歴研究のひとつの課題-<まなざしと自己概念>の視点から》に依拠して、論をすすめるのか・・・。

それは、梶田叡一氏の論文が、学歴差別における「まなざし」の心理構造を客観的に、無学歴・無資格の筆者にも理解でき納得できる形で説明しておられるからです。

梶田叡一氏、「まなざし」について多樣な側面を紹介しておられますが、「まなざし」が問題にされるのは、<自己に対する他者のまなざし>です。梶田叡一氏、「他の人が自己に対しどのよな”まなざし”を向けているか、について、人は無関心であることができない。」といいます。

しかし、その「程度」は、「大きな個人差がある」といいます。

「一方の極に、どういう”まなざし”で見られようとも平然としている傍若無人な人がいるのに対し、他方の極に、周囲からの”まなざし”に敏感で、いつでもピリピリしているといった対人恐怖症的な人がいるのは確かな事実である」。

筆者、「傍若無人な人」に属するのか、それとも「対人恐怖症的な人」に属するのか・・・、あえて言わずとも知れたこと・・・。「部落差別問題に熱心にかかわるものは、被差別部落出身者に違いない・・・」という暗黙の了解が一般化している世の中で、そのような偏見が一向に気にならないように、『部落学序説』とその関連ブログ群を執筆し続ける筆者、明らかに、「傍若無人な人」に属します。まかり間違っても、「対人恐怖症的な人」に列することにはなりません。

梶田叡一氏、「しかし、いずれにせよ、他の人の”まなざし”の中で、自分自身がどのように位置づけられ、意味づけられ、値ぶみされているか、をキャッチしないなら、人は社会的な場でいかなる活動をすることもできない。人は、社会的な場においては、他の人からの”まなざし”によって常に自らを吟味し、コントロールしているといってもよいのである」。

しかし、梶田叡一氏、<他者のまなざし>の持っている影響力は、決して一様ではないといいます。

同じ<他者のまなざし>であったとしても、その他者が、「自らにとって特に重要な人、権威を持つ人」である場合、その「まなざし」は、その人の内に「徐々に内面化」され、やがて、その人の「自己概念と内的規範とを形成していく」ことになるというのです。

梶田叡一氏、さらにこのように語ります。「これは、他の人の”まなざし”から読み取った自分自身の像(鏡映自己像)の取り入れであり、また”まなざし”に反映された一般的な期待の体系の取り入れである」。

梶田叡一氏、<鏡映自己像の受容>・<他者のまなざしに反映された一般的な期待の体系の摂取>、「これによって人は、一人っきりでいる場合には、自らに対して一定の概念を持ち、その場での自らのあり方を吟味し、コントロールしていくことになるのである。」といいます。

以上が、心理学者・梶田叡一氏が説く、「まなざし」の一般的な「心理構造」のようですが、この「まなざし」理解・・・、すべての社会事象に適用することができそうです。特に、いろいろな差別問題についても・・・。梶田叡一氏が、このあと、それを適用して解明する学歴差別だけでなく、部落差別・民族差別・性差別・障害者差別など、いろいろな差別に対しても適用することできます。

梶田叡一氏の語る<鏡映自己像の受容>に関する教説・・・。差別問題における差別・被差別の関係性における双方向の「まなざし」を解明するためのツールになります。

この<鏡映自己像の受容>に関する教説との出会いは、筆者にとって、相沢守次氏が記している、問題解決の心理学の一連の過程、「問題事態・問題事態の分析・情報の蒐集・手段と目標・道具手段の発見・道具の制作・仮説と試み・仮説の功罪・仮説の偏り・解決のための戦略・概念の形成・関係把握・生産的思考」の諸段階における「道具の発見」に該当します。

無学歴・無資格、高等教育とは無縁な筆者の<独学>は、常に、グローバルな学問的枠組みの中に、個々の論説を位置づけていくことによって遂行されます。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏、『部落学序説』とその関連ブログ群の筆者に対する誹謗中傷・罵詈雑言を繰り返しておられたのは、筆者の論説が、部落差別に関する「公衆便所の落書き」ではなく、書き下ろしであるにもかかわらず、最初から最後まで、首尾一貫して、体系的に論述されていることに対する拒否<反応>だったのでしょう。

そういう意味では、藤田孝志氏とそのグループの筆者に対する「まなざし」・・・、梶田叡一氏の語る<鏡映自己像の受容>に到ることのない「まなざし」・・・、に他なりません。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏は、筆者の『部落学序説』とその関連ブログ群に対して、<反応>しているだけであって、筆者に影響を与え、『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆内容に影響を与えるような「まなざし」ではありえないのです。かなり無駄な時間は費やさせられましたが・・・。

筆者、岡山の中学校教師・藤田孝志氏と違って、デジタル社会の新しい人間ではなく、アナログ社会の古き人間に属しているに過ぎませんから・・・。

次回、心理学者・梶田叡一氏の論文を手がかりに、<学歴差別における貴賤>について検証することにしましょう。

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『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

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