2021/10/01

差別をめぐる心理構造

差別をめぐる心理構造

前回、《学歴研究のひとつの課題-<まなざしと自己概念>の視点から》の著者、心理学者・梶田叡一氏のことばを借りながら、「まなざし」の一般的な心理構造についてとりあげました。

「まなざし」は、それ自体、差別的なものではありません。

たとえば、一般的には、母親が幼児に向ける「まなざし」は、やさしさとあたたかさに満ちています。母親のふところに抱かれた乳飲み子が、母親の目を見つめながらお乳を吸う光景は、なにかほっとするようなところがあります。

母親は、その乳飲み子に、やさしさとあたたかさをもったまなざしを向け、その乳飲み子は、母親に対して、信頼と期待に満ちたまなざしを向けます。

母親とこどもの間には、梶田叡一氏がいう「互いにかわしあう”まなざし”」があります。

しかし、昨今、マスコミのよって報道される事件を見ていますと、母親がその子どもを見る、やさしさとあたたかさに満ちた「まなざし」を失って、その子どもを捨てたり、その命を奪う・・・、そういう事例が多々存在していることに気付かされます。

例外的な、法的逸脱行為はともかく、一般的には、母と乳飲み子や幼児の間には、まだまだ、複雑な心理構造はなさそうです。

しかし、こどもが成長するに従って、母親に育てられるこどもの側に、「鏡映自己像」が形成されるようになります。

こどもにとって母親は、自分を庇護してくれる特別な存在、少々失敗しても、それすらあたたかく抱擁して、受け入れてくれる存在です。そして、その母親、<母親>として「権威」すら持っているのです。

こどもは、母親が自分にむける「まなざし」を、「徐々に内面化していき、それによって自己概念と内的規範とを形成していく」ことになります。それは、こどもが、<母親のまなざしから読み取った自分自身の像>「鏡映自己像」を受容することであり、<母親のまなざしに反映された期待の体系>を摂取することを意味します。

そのこどもは、幼児期の、母親との「互いにかわしあう”まなざし”」によって、母親から自立して歩みはじめるときにも、それまで培われ育まれてきた、母と子の合作である「鏡映自己像」に忠実であろうとし、母の期待にかなう道を歩もうとします。

それは、「まなざし」の社会生理学的側面であるといえましょう。

しかし、「まなざし」には、社会生理学的側面だけでなく、社会病理学的側面も存在しているのです。

人間関係が崩れ、「まなざし」が病んだとき、本来人間の結びつきを強めるための「まなざし」にどのような社会病理学的側面が発症するのか・・・、この世の中に存在する部落差別・性差別・障害者差別・人種差別・民族差別などの差別も社会病理現象ですが、そこでくりひろげられる差別・被差別の間でかわされる「まなざし」は、本来の「まなざし」から逸脱した、病んだ「まなざし」であるといえましょう。

「まなざし」の本質を理解するためには、社会生理学的側面だけでなく、社会病理学的側面も視野にいれることで、「まなざし」の本質をさらに深く・広く理解することができるようになると思われます。

心理学者・梶田叡一氏が、論文《学歴研究のひとつの課題-<まなざしと自己概念>の視点から》の中で取り上げる、「まなざし」の社会病理学的側面は、<学歴差別>です。

梶田叡一氏、この<学歴差別>は、人生において、<さまざまな悲喜劇を生じさせる>といいます。<学歴を持っているか、持っていないか>によって、「周囲の人からの、”まなざし”は大きく変わってくる」といいます。

しかし、<学歴差別>は、学歴の有無だけが問題にされるのではありません。「最終的に卒業した学校が、東京大学なのか、有名私立大学なのか、それとも地方の無名の大学なのか・・・、といった情報に接するだけで、周囲の人からの”まなざし”は大きく変わってくる」といいます。

<学歴差別>をめぐる「まなざし」は重層的に存在していることになります。

その<学歴差別>から自由になるために、「こどもたちは有名高校、有名大学を目指す」ことになるといいます。「周囲の人の”まなざし”に対応する形での自己のイメージ」・「鏡映自己像」を形成することになるというのです。梶田叡一氏、「有名大学を卒業していることは、自他の”まなざし”の中で、人間としての基本的価値が高いことを、社会的な毛なみの良いことを、つまり現代社会においてその人が”貴種”であることを意味する・・・」といいます。

筆者、梶田叡一氏のことばを前にして考えるのですが、「貴種」になりそこねた人は、なんと呼ばれるのでしょうか・・・。梶田叡一氏、ひとこともそのことについては触れてはいませんが、「貴種」の対極は「賤種」でしょう。

<学歴差別>社会において、「貴種」になりそこねたひとは「賤種」になる・・・?

心理学者・梶田叡一氏、その「社会的”貴種”コースを断念せざるを得ない子どもたち」、つまり「賤種」に身を置くことになった子どもたちの例として、「ツッパリや暴走、非行に走り、裏文化の中で自らの価値と意味を追究していこうとする・・・」といいます。

筆者、心理学者・梶田叡一氏の論文を読みながら、梶田叡一氏が、<学歴差別>社会の底辺、梶田叡一氏が示唆する「賤種」として生きざるを得なくなったひとびと、こどもたちに対して向ける、心理学者としての<まなざし>にドキリとさせられます。

国立・兵庫教育大学の学長プロフィールの中にこのような紹介がありました。

梶田叡一 兵庫教育大学長
文学博士
中央教育審議会委員(副会長・初等中等教育分科会長・教育制度分科会長・教員養成部会長・教育課程部会長など) ・全国学力・学習状況調査分析活用専門家会議座長を歴任。

いわば、小中高の教育にたずさわる教職を育成する教育大学の長である梶田叡一氏の、教育者としての「まなざし」・・・、筆者大いに違和感を感じます。なぜなら、「貴種」という概念自体、日本の歴史上、特別な概念であって、戦前の国民国家思想において、天皇と皇族を限りなく「貴種」として、一般を限りなく<賤種・劣種>としておとしめる教説である優性思想の基本的概念だからです。

「学歴差別」を論じるときに、なぜ、そのような概念をあえて使用されるのか・・・?

少し脱線しましたが、この<貴種>に関する問題は保留して、 心理学者・梶田叡一氏の語ることばに耳を傾けていきましょう。

梶田叡一氏、「有名大学を卒業していることは・・・その人が貴種であることを意味する」といいますが、「鏡映自己像」「貴種」であることは、「周囲の”まなざし”によってプライド等が日常的に支えられ、強化される・・・」といいます。

<学歴>があるということは、その人の周囲が、「その人に大きな価値を認め、重視し、暖かく受容し、支持するといった態度でその人に接する、ということを意味する・・・」といいます。しかし、<学歴>をもっていない人に対しては、そのひとの周囲が、「どこの馬の骨なのか、という”まなざし”で見る・・・、その人に価値を認めないだけでなく、軽視したり無視したりし、さらに冷たく拒絶し、支持しない、という態度をとりがちになることを意味する・・・」といいます。

「周囲の人からの”まなざし”が、自らの存在やあり方に対して受容的的で支持的なものである場合、人は自らにポジティブな”まなざし”を投げかけるようになるのに対し、他の人からの”まなざし”が非受容的拒否的なものであれば、自らの”まなざし”もネガティブなものにならざるをえない、という一般的傾向がある。したがって、プライドや自信、自己受容といった自己評価的意識や感情の基礎は、このような他者の”まなざし”によって、基本的に強化されたり、あるいは脆弱化したりするのである」。

心理学者の梶田叡一氏、この<学歴差別>の社会にあっては、<高学歴>を持つものだけが、「プライドや自信、自己受容を高い水準に維持できている時にのみ精神的な健康が確保される・・・」といいます。

そうでない場合、つまり<低学歴>・<無学歴>の場合、「精神的な健康」は維持されず、あえて、「精神的な健康」を維持しようとすると、「大変な緊張と努力を必要とする」といいます。

現兵庫教育学長である梶田叡一氏、今も同じようなことを考えておられるのでしょうか・・・?

そうでないことを祈りつつ、心理学者・梶田叡一氏が語る、「周囲からの”まなざし”と自己概念との乖離や矛盾・・・」に直面した場合、心理学的にはどのような解決方法があるのか、「まなざし」の社会病理的側面を、梶田叡一の論文を参考にして追跡してみることにしましょう。

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