2021/10/01

心理学者・教育学者の「まなざし」理解

心理学者・教育学者の「まなざし」理解

筆者、何度も繰り返しますが、無学歴・無資格です。

大学という名の高等教育機関で、大学教授という肩書を持った方から一度も講義を受けた経験がありません。

2001年佐賀市同和教育夏期講座の講演録である、岡山の中学校教師・藤田孝志氏の『時分の花を咲かそう-差別解消の主体者を育てる部落史学習を求めて』を批判・検証するときにも、教育学・歴史学・心理学のプロである藤田孝志氏の言説を充分理解・消化するための学問的な前提がありません。

藤田孝志氏の口癖に、「・・・はそんな単純なものではありません」ということばがありますが、「人間の心理はそんな単純なものではありません・・・」という、藤田孝志氏のことばを前にしますと、心理学の門外漢である筆者、そこで立ち往生してしまいます。

藤田孝志氏、<人間の心理は複雑である・・・>と言っておられるのですが、<人間の心理は複雑である・・・>ということばは、藤田孝志氏の研究や教育の出発点であるのか終着点であるのか・・・、筆者、いずれとも判断することはできません。

<人間の心理は複雑である・・・>ので、そこから、人間の心理の探究がはじまるのか、それとも、同じ<人間の心理は複雑である・・・>という理由で、人間の心理についてのすべての言及は相対化され、複雑さは複雑さのまま捨ておかれるのか・・・。

筆者、おのれの限界を認識しつつ、心理学者・梶田叡一の論文《学歴研究のひとつの課題-<まなざしと自己概念>の視点から》(『教育社会学研究』第38集・1983年)に依拠しながら、<人間の心理は複雑である・・・>と信じてやまない藤田孝志氏の<まなざし>理解について少しく言及していきたいと思います。

梶田叡一氏、2008年9月現在、兵庫教育大学の学長をされているようです。

この論文は、その梶田叡一氏の学歴差別に関する論文です。筆者、学歴差別について、昔から関心を持っています。そして、学歴を持つことなく、学歴について考察を続けてきましたが、あるときから、筆者、無学歴・無資格を標榜するようになりました。

しかし、筆者の無学歴・無資格の主張、ほとんどの人には理解されることはなさそうです。現在の日本の社会、学歴差別に対して批判的な意見は多々あるものの、学歴そのものについては肯定的に受けとめられている場合がほとんどです。

低学歴を脱して高学歴に移行することは、多くの人々にとって、人生の課題です。苦学して、学歴を取得することで、低学歴から高学歴に脱皮したとして、喜びの感涙にむせぶ人は決して少なくありません。

学歴だけを求めるなら、旧制大学をはじめとする国立の4年制大学にこだわらず、全国に散在する私立大学で学べば充分ですし、それに、通信教育で大卒の資格をとることも、放送大学で学歴をつむことも可能です。芥川龍之介の詳説『蜘蛛の糸』ではありませんが、学歴を取得して、低学歴から脱出する、その瞬間、低学歴に生きる人々を足蹴にして、ひとり高みに達する快感を味わうことができるのでしょう。

「全入時代」と言われる今日にあっては、その気になれば、誰でも大学を卒業し、高学歴を身につけることができる・・・、そんな時代に、なぜ、学歴を積む努力をしないで、「無学歴・無資格」を標榜してもの申すのか・・・、ほとんどの人は理解することが難しいようです。

筆者が、「無学歴・無資格」を標榜していることで、何を錯覚されたのか、筆者を学歴のコンプレックスの持ち主として、はげしく非難してこられる方がおられます。

特に、戦後の部落解放運動に関与してこられた方々の中に、そういう人々を見かけます。

学歴を身につけることは、戦後の部落解放運動の闘争目標のひとつでした。被差別部落の学歴保持者数と一般地区の学歴保持者数を比較して、その是正を求める運動を展開してきました。戦後の部落解放運動においては、学歴についての歴史的研究・批判的研究は、すっかり影をひそめてしまいました。学歴の<社会生理>・<社会病理>について一考だにすることなく、学歴社会を前提・容認して、その学歴社会での位置の向上を追究していきました。

戦後の部落解放運動にとって、「無学歴・無資格」は、克服されるべきマイナスの価値でしかなかったのです。

筆者、学歴差別は、近代中央集権国家・明治天皇制国家によって、民衆支配のために作られた装置・システムであると思っていますが、戦後の部落解放運動においては、そのような発想が組み込まれることはありませんでした。そのため、戦後の部落解放運動、それなりの成果を残してきたとは思いますが、学歴差別を撃つ視点を内包することはほとんどありえなかったように思われます。

心理学者・梶田叡一氏、その論文《学歴研究のひとつの課題-<まなざしと自己概念>の視点から》において、学歴差別社会における<貴・賤>について論じられています。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏、「・・・の貴賤がないのは現代の価値観」といいますが、心理学者・梶田叡一氏、現代の学歴差別社会を理解するに、この貴賤概念をもってします。貴と賤・・・、それは、藤田孝志氏が指摘するような、近世幕藩体制下に固有の価値観に封じ込められるものではなく、現代社会においても支配的な有力な価値観となっていると指摘されています。

心理学者・梶田叡一氏、このように記しています。「明治以降、現代に到るまでの日本の社会において、個人にとっての学歴が、また組織や社会にとっての学歴構成が、どのような意味と機能を担ってきたかについて、これまでさまざまの優れた研究がなされてきた。・・・しかし、学歴の客観的かつ社会的な意義をその根底において支えている心理構造に関しては・・・まだまだ研究が手薄のように見受けられる」。

心理学者・梶田叡一氏、その学歴をめぐる「心理構造」を、「まなざし」の観点から、「若干の検討を試みることにしたい」といいます。

その内容は、以下の通り。

1.”まなざし”と学歴
2.”まなざし”と自己評価的意義
3.周囲の”まなざし”と自己概念との矛盾葛藤
4.学歴追究を心理的な面から考えたい

『部落学序説』の筆者が、「わがこと」として語ることができる「被差別」は、部落差別・民族差別・性差別・障害者差別などではなく、学歴差別においてです。それは、『部落学序説』とその関連ブログ群において何度も言及してきた通りです。

差別問題を論じるときの、筆者の視点・視角・視座に対する、部落解放運動家や、部落史研究の学者・研究者・教育者の<違和感>は、筆者が、差別問題を理解するときの根底に、明治以降の、民衆支配のシステムとしての学歴差別を据えているところに由来すると思われます。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏が、「人間の心理はそんな単純なものではありません・・・」と力説する、差別の心理的メカニズム(心理構造)・・・、同和教育・部落史学習において理解・把握することに困難さを覚える問題も、部落差別ではなく、学歴差別になりますと、心理学者としての梶田叡一氏の論理が冴えわたります。

心理学者・梶田叡一氏の語る「まなざし」、それは、一方向のまなざしではなく、最初から双方向のまなざしです。梶田叡一氏、「まなざし」の属性として、「人々が互いにかわしあう」ことをとりあげます。学歴差別における、差別と被差別の関係、その両者の間で交わされる「まなざし」の心理学的分析、少しく、詳細に検証していくことにしましょう。

筆者、梶田叡一氏がその論文の中で語られる「鏡映自己像」・・・、近代部落差別構築の過程を理解するに、重要なキーワードになると思っています。部落史研究の世界では、この「鏡映自己像」を踏まえて、「国民国家の論理から生みだされる社会的諸規範の意志とか感情とか、感受性を肉体化した「視線」」を明らかにした、ひろたまさき氏の先行研究(ひろたまさき著『差別の視線・近代日本の意識構造』吉川弘文堂)が存在しますが、『部落学序説』の解釈原理である「非常民論」・「新けがれ論」の文脈の中で、ひろたまさき氏の研究成果を後追いすることも、ひろたまさき説の正しいことを追認することも意味のないことではなないと考えています。

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