2021/10/02

「旧穢多」の受容と排除 その2 川元「部落学」と吉田「部落学」の比較一覧

「旧穢多」の受容と排除 その2 川元「部落学」と吉田「部落学」の比較一覧

川元祥一著『部落学』を読みました。

その論文のあとがきに、「部落学」は、アメリカ北イリノイ大学助教授・清水秀則氏との共同研究として03年10月米国中西部教育学会(MWERA)において研究発表」されたものだそうです。川元祥一著「部落学」は、ホームページ「川元祥一の世界」で公開されていますので、誰でもこの論文に目を通すことができます。

『部落学序説』の筆者は、いままで、なんどとなく、この川元祥一著「部落学」に目を通してきたのですが、今回、はじめて精読してみました。前回、民俗学者・宮本常一著『民俗学の旅』について言及しましたので、部落学者・川元祥一の『部落学』についても言及してみようと思い立ったからです。

しかし、梅雨の湿気の多い環境下で、川元祥一著『部落学』を読んでいったためでしょうか、読み進めるに従って、『部落学序説』の筆者である私は、次第に、読み進めることに「しんどさ」を覚えるようになってしまいました。暗くて、じめじめしている古墳の中をのぞき込んだような気分に陥ってしまいました。「よく、こんな暗い論文がかけるなあ・・・」と、正直そう思いました。

川元祥一著『部落学』から、どうして、そのような印象を受けることになるのか・・・。川元祥一著『部落学』と、吉田向学著『部落学序説』の「部落学」を比較して、その理由・原因を探索することにしました。

筆者の『部落学序説』執筆に際して、川元祥一著『部落差別を克服する思想』を、川元の「部落学」のテキストとして引用することが多いのですが、どちらかいうと、川元祥一氏の考察を批判検証するというよりは、その論文を「資料」と「論評」に分解して「資料」のみを再利用する・・・という、ある意味では、『部落差別を克服する思想』の著者である川元祥一氏の予期していない、失礼な方法で引用していたに過ぎません。

筆者は川元祥一氏と同じ「部落学」という言葉を使用して、新しい学問としての「部落学」構築を指向していますが、『部落学序説』執筆というマラソンの折り返し地点に達したいま、先行する川元祥一氏の「部落学」と、筆者の「部落学」(『部落学序説』)を比較検証することは、『部落学序説』の執筆を継続し、最後まで書き上げていくためには意味ある作業であると思われました。

01 「部落学」の筆者の学歴

川元:明治大学文学部卒
吉田:無学歴

02 「部落学」の筆者の職業

川元:立教大学講師、大学で「部落学」を講義
吉田:田舎牧師

03 当事者性

川元:近世の「穢多」身分の末裔(「被差別者」)
吉田:近世の「百姓」身分の末裔(「差別者」)

04 部落学の定義

川元:部落学は部落問題に関する学である
吉田:部落学は非常民に関する学である

05 部落学の前提

川元:賤民史観を是認
吉田:賤民史観を批判

06 部落学の学際性

川元:歴史学・社会学・民俗学・心理学など
吉田:歴史学・社会学地理学・宗教学(以上は民俗学の基礎科目)・民俗学・法学など

07 部落学の研究対象

川元:江戸時代の穢多身分
吉田:中世・近世・近代・現代の司法警察である「非常民」としての「穢多の類」

08 けがれ論

川元:触穢意識との関連で取り扱う
吉田:「常」・「非常」の世界のけがれを「気枯れ」・「穢れ」として解釈する

09 部落解放運動との関係

川元:関係を維持
吉田:関係なし

10 周辺社会との関係性

川元:差別・排除の構造を見る
吉田:「常・民」と「非常・民」との関係として認識

11 「旧穢多」と「部落民」の関係

川元:「旧穢多」=「部落民」
吉田:「旧穢多」≠「部落民」(「旧穢多」から「部落民」へ移行するとき外延・内包に変化している)

12 明治4年太政官布告

川元:「解放令」、「棄民政策」の矛盾する属性
吉田:「半解半縛」説をとなえる

13 部落差別の起源

川元:職業起源説
吉田:政治起源説

14 「穢多」と「非人」の関係

川元:「非人」身分は「穢多」身分の「補助的機能」
吉田:「非人」身分も「穢多」身分も同じ「非常・民」、両者の違いは「役務」(「職種」)の違いのみ。

15 「穢多」と「百姓」の共通属性

川元:「文化の空白」
吉田:「常・民」・「非常・民」それぞれの文化の豊かさ

16 「穢多」身分の役務と家職

川元:近代的「義務」と「権利」として認識
吉田:「穢多」身分の役務と家職として認識し、近代法概念を安易に適用しない

17 「役務」の持つ社会的機能

川元:キヨメ
吉田:キヨメ(ただし、川元と違って、ケ・ケガレ・ハレ、ケ・ケガレ・キヨメの循環説のキヨメ)

18 身分制度

川元:職業的カテゴリーとしての士・農・工・商・穢多・諸芸という図式で把握
吉田:士の類(非常民)・農工商の類(常民)の支配・非支配という図式で把握

19 「賤民」概念

川元:「諸芸」にのみ「賤民」概念を適用
吉田:「賤民」概念の放棄

20 「危機管理意識」

川元:近世には存在していたが、現代は欠落
吉田:いつの時代にも「危機管理意識」は存在

21 斃牛馬に対する「穢多」の権利

川元:「捨てられた」ものを「拾う」権利
吉田:軍需物資として徴集する権利

22 皮革の「上納」

川元:「役」として認識
吉田:斃牛馬処理にともなう皮革は「穢多」(皮田)の「家職」、藩に上納される軍需用の皮革は租税の一種

23 「百姓」に斃牛馬処理の権利がなかったことについて

川元:所有権の否定、近代的自我の障碍
吉田:軍需用の牛と馬だけが対象、その他の熊・鹿・兎・猪等は対象ではなかった

24 斃牛馬の取引が自由になるのは・・・

川元:明治4年(1871年)
吉田:斃牛馬処理の権利は、幕末期、軍需産業の必要性と活況の中、「穢多」に手を離れて「百姓」(皮革商人)の手に移っている

25 部落の皮革産業の衰退

川元:明治政府による「棄民政策の帰結」
吉田:武士の商法による失敗、公共事業依存の甘えが原因

26 文化貢献

川元:「穢多」製造のニカワは日本美術に貢献
吉田:藩の「非常・民」役の反対給付として認可された家職(藩によっては独占が許可)に過ぎない

27 日本文化

川元:哲学・体系なし
吉田:新井白石にみられるように独自の「哲学」は存在していたし、日本の司法・警察システムは法制度・司法制度・警察制度いずれをとっても独自のシステムを構築していた

28 愚民論

川元:日本の大衆の多くは、明治初期まで文字を使わなかった
吉田:読み書き算数は、「百姓」にとっても生活に必要な基本能力。武士の有閑階級のような学問はしていなかったかもしれないが、生活と職業に必要な実学は習得するシステムが存在

29 芸能史

川元:芸能は、「穢多」ないし「雑種賤民」によって担われていた
吉田:「芸能」者は、「穢多」でもなければ「賤民」でもない。村境を越えて仕事に従事するため、当時の司法・警察である「穢多」の取締りの対象となっていた「百姓」(「非常・民」以外のすべての人「常民」)に過ぎない。

30 はるこま

川元:「土地に縛られない非農業者」である「穢多」・「雑種賤民」によって担われた
吉田:「新年の祝福芸」は、その年の収穫がどの程度のものであったのかを「内偵」・「探索」するための手法、その時は、年に数回法で定められていた

31 「部落学を日本の学問の体系のなかにどのように位置づけるか」

川元:文化学に解消
吉田:「常民の学」としての「民俗学」の補完科目として、「非常民の学」としての「部落学」を固有の学問として構築する

32 地域社会との関係性

川元:負の遺産の見直し
吉田:負の遺産の解体

33 部落学

川元:大学の正規の科目ではない、しかし、独自のテーマとして「部落学」を講義
吉田:既存の部落研究・部落問題研究・部落史研究の批判・検証の学として『部落学序説』を執筆

33 「部落学」の受講生

川元:立教大学での川元「部落学」の受講生、2001年度(初年度)86人、2002年度(2年目)154人、前年比80%増
吉田:ブログ上で公開、1年目(365日)累計アクセス件数93855件、2年目(53日)累計アクセス件数14585、前年比7%増、アクセス者実数不明

34 「部落学」の受容

川元:学生によって「正面から受けとめられつつある」
吉田:不明

35 学校同和教育との親和性

川元:あり
吉田:学校同和教育・社会同和教育との親和性なし

36 部落問題のイメージ

川元:まだまだ暗くて重いイメージの中にある
吉田:学校同和教育における「部落民像」は「虚像」。被差別部落の青少年は、「虚像」を捨てて、「実像」に基づいて生きるべき・・・。「過去」の歴史を直視するもののみ「未来」の歴史を栄光あるものにすることができる。


川元「部落学」と吉田「部落学」を、川元祥一著『部落学』の内容を参考にして比較してみましたが、「共通点」は少なく、「相違点」のみ多いのに気付かされます。

川元「部落学」、吉田「部落学」共に、ひとつの「部落学」という「体系」を指向していますので、「体系」を「体系」足らしめている「解釈原理」(常民・非常民論、ケガレ論等)によって、同じ史料や文献を使用していても、解釈に相違が出てくるのは当然の結果です。

比較・検証しながら、『部落学序説』の筆者である私は、ある仮説を想定します。それは、「部落民であることは、部落民が何であるかを知ることができる絶対的要因ではない」ということです。むしろ、「部落民」であるがゆえに、かえって、「部落民」が何であるかという認識に失敗している場合も少なくないからです。

部落解放運動の要求項目のひとつに「学力補償」というのがありました。ただ単に「学力」の向上がはかられるだけでなく、「学力」追究の結果として「学歴補償」ということが行われました。一般の高校生が経済的貧困のため大学に進学できない場合でも、「部落民」であるという理由で、学力・学歴の補償が行われることがありました。

山口県の「被差別部落」の中でよく耳にしたことは、部落解放運動の結果、「被差別部落」の青年の多くは、学歴(大学卒)を身につけ、それにふさわしい職業(学校の教師など)に就いたあとは、再びその生まれ故郷である「被差別部落」に帰って来なかった・・・という話です。部落解放運動の「学力補償」・「学歴補償」獲得の目的は、「被差別部落」の青年が高学歴を身につけることによって、もう一度ふるさとに帰り、「被差別部落」をよくしてくれる・・・ことに期待したためでした。

しかし、山口県の「被差別部落」の青年の多くは、高学歴を身につけると、「被差別部落」出身であることを隠し、異郷の地で、非「被差別部落民」として生きる道を選択していきました。つまり、「被差別部落」は、「部落解放運動」の「万年苗床」としての機能しか果たすことができなかったのです。

なぜなのでしょうか・・・。

『部落学序説』の筆者である私は、高等教育の場である「大学」は、多くの場合、「被差別部落」の青年が、ふるさとに帰って「部落解放運動」に参加し、部落差別完全解消にむけて闘うことができる精神も知識も教えることも身につけさせることもなっかったという現実を想定してしまいます。

真実を追究するはずの「大学」で、「被差別部落」出身の青年は、歴史の真実からほど遠い「賤民史観」を植えつけられました。「被差別部落」のひとは、近世身分制度の中で最下層の「みじめで、あわれで、気の毒な存在・・・」というイメージを共有することを要求されました。大学の教授・助教授・講師の語る「賤民史観」・「賤民思想」を受容しないと、単位の取得は不可能だったのではないかと思います。

大学4年間、小中高のような、「強制」されたカリキュラムのもとではなく、少なくとも、学生自身による科目の「自由」選択によって、大学の教授・助教授・講師の語る「賤民史観」・「賤民思想」は、「被差別部落」出身の青年のものの見方や考え方の中に、深く静かに浸透していったのではないかと思います。

それでも、「被差別部落」出身の青年が、その出自にこだわり、「部落民」としてのレーゾンデートル(存在理由)を探求しようとすると、「賤民史観」・「賤民思想」を受け入れた上で、その枠内で、自己の「部落民」としてのアイデンティティを追究する以外に方法はなくなります。

無学歴・無資格の筆者の目からみると、「他者」・「第三者」・「世間」の「部落民」を見るまなざしを受け入れ、その範囲で、「部落民」であることの負の遺産を克服しようとするいとなみは、極めていびつなものにしか見えないのです。

「賤民史観」・「賤民思想」を受け入れて、それと同時に、自らが「部落民」であることを隠して生きていくほとんどの被差別部落の青年と違って、同じように、「賤民史観」・「賤民思想」を受け入れながらも、「部落民」であることにこだわり、「部落民」であることの負の遺産を引き受け、その被差別の現実に立ち尽くしながら、それを克服するための新しい解放思想を構築していこうとする青年は、極めて少数ではないかと思います。

『部落学』の著者・川元祥一氏も、そのようなタイプの存在ではないでしょうか・・・。

「部落民」であるがゆえに、かえって、「部落民」が何であるかという認識に失敗している・・・のではないかと思わされるのです。「部落民であるがゆえに部落民の痛み苦しみがわかる」というのは幻想でしかなく、「部落民であるがゆえに、部落民のほんとうの姿を見失ってしまう」ということが起こり得るのです。

部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者、また部落解放運動の当事者の目からみると、『部落学序説』の筆者は、被差別部落出身者でないがゆえに、無条件に「差別者」の範疇に入れられてしまいます。『部落学序説』は、「差別者」の側からの部落解放理論です。

『部落学序説』の執筆を開始してまもなく、「結局何がいいたいのだ? ひとことで説明しろ」と言われて書いた詩があります。

賤民史観は、はだかの王様の、
目には見えない、詐欺師の衣装。
みんな、それが現実に、あると思っているけれど、
そんなもの、本当は、どこにもありゃしない。
わたしには、見えない。本当にみえない。
ないからないと言って、なぜいけないの?
もともとないのは、幻想よ。

賤民史観は、無能な学者のかくれみの。
なんでもかんでも、「賤民」と、いう器に、投げ込めば、済むと思っている。
怠惰な、歴史学者のための、便利な道具。
味噌も糞もいっしょにし、
賤民解放令、なぞとのたまわる。
江戸の風俗取り締まる穢多と、遊女をごちゃまぜにして、
差別は、複雑怪奇・由来不詳とのたまわる。
説教強盗顔負けの、歴史学者を信じるな。

賤民史観脱ぎ捨てて、裸になったらわかるぞな。
歴史学者も部落のひとも、人間みんな同じだ。
むしろを旗に声をあげ、
竹や鍬を振りかざし、一揆起こした百姓の
末裔なればわかるぞな・・・(以下略)。

「賤民史観は、はだかの王様の、目には見えない、詐欺師の衣装・・・」。その確信は、いまも変わってはいません。

大学での4年間、もし、部落研究・部落問題研究・部落史研究を学ぶ機会があったら、大学の教授・助教授・講師の語ることばの中から「賤民史観」・「賤民思想」を取り除いて、自分で、直接史料にあたってみたらどうでしょう・・・。「賤民史観」・「賤民思想」という「はだかの王様の、目には見えない、詐欺師の衣装・・・」をとりのぞくことで、史料が語り伝えているほんとうの近世の「穢多・非人」、近代の「特殊部落民」、現代の「同和地区住民」のほんとうの姿が見えるようになります。

通説・一般説を受容するのではなく、自分で真実を追究することは、大学での大きな課題ではないかと思います。「学歴も資格も持っていないものに何がわかるか・・・」と思われるかもしれませんが、「部落学」にかぎらずすべての科目において、教授・助教授・講師に講義内容に批判的にかかわることはとても大切なことであると思います。

部落研究・部落問題研究・部落史研究において、少しでも疑問に感じたら、知的興味を持ちはじめたこどものように、「どうして?」、「どうして?」、「どうして?」・・・と、納得のいくまで、教授・助教授・講師を質問責めにしてみてはどうでしょう。

たとえば、『塵袋』。川元祥一氏によると、「「エタ」「穢多」という言葉が初めて登場する文献」です。

この『塵袋』、「古文書」を直接読んでみるといいですね。ほんとうは、本物を手にとって、紙の種類とか材質とか、指で確認した方がいいですし、墨の色・・・なんていうのも注意してみると意外な発見があるものです。あとから、加筆・訂正された場合も、その痕跡が残りますので、歴史資料は、原本に直接あたるのが最適です。

といっても、原本を直接読める機会などそう簡単に手にはいるはずもありません。そこで妥協して、「写真版」で代用するという方法もあります。『日本古典全集』に『塵袋』の写真版が収録されています。図書館で『日本古典全集』を見ることができないひとは、解放新聞社編『部落史を読みなおす』(解放出版社)の17ページに写真版が転載されていますので、こちらを見られたらどうでしょうか・・・。

解放新聞社編『部落史を読みなおす』には、写真版とそれを活字化したもの(上杉聡)が同じページに掲載されています。

「キヨメヲエタト云フハ何ナル詞ハソ・・・旃陀羅ト云フハ屠者也イキ物ヲ殺シテウルエタ躰ノ悪人也」

部落解放研究所編『部落解放史 上巻』(解放出版社)には、94~95ページの「補論 「えた」の語源」の中で、活字化されたものがあります。上記の文章と同じ箇所を引用します。

「キヨメヲエタト云フハ何ナル詞ハソ、穢多・・・旃陀羅ト云フハ屠者也イキ物ヲ殺シテウルエタ躰ノ悪人也」

『部落学序説』に筆者が写真版から活字にするとこうなります。

「キヨメヲエタト云フハ何ナル詞ハソ、穢多・・・旃陀羅ト云フハ屠者也イキ物ヲ殺シテウルエタ躰ノ悪人也」

無学歴・無資格の『部落学序説』の筆者が、中学校のとき、国語の時間にならった句読点の使い方によりますと、白文は句読点のつけかたひとつで意味が大きく変わってきます。

(1)「旃陀羅・・・イキ物ヲ殺シテウルエタ躰ノ悪人」
(2)「旃陀羅・・・イキ物ヲ殺シテウルエタ躰ノ悪人」

(1)の場合、「イキ物ヲ殺シテウル」ということばは「エタ」ということばにかかっていると解釈することができます。「エタ」は「屠殺をするひと」という意味になります。「・・・躰ノ」ということばを「・・・風の」という意味に訳しますと、「旃陀羅は・・・悪人」であり、「エタ風」のひとではあるが「エタ」そのものではないということになります。

(2)の場合、「イキ物ヲ殺シテウル」のうしろに読点がありますので、「イキ物ヲ殺シテウル」ということばは、「エタ」にかからないで「悪人」にかかることになります。つまり、「旃陀羅は・・・生き物を殺してうる悪人」という意味になります。ただ、その装いが「エタ躰」であるということになります。この場合、「エタ」が屠殺をしていたかどうかは断定できなくなります。

(1)にしろ、(2)にしろ、この文は、「エタ=悪人」という同一視を完全に否定していると見るべきでしょう。

『部落解放史 上巻』の著者は、「旃陀羅ト云フハ、屠者也、イキ物ヲ殺シテウル、エタ躰ノ悪人也」と(2)の読みを採用しています。

「キヨメヲエタト云フハ何ナル詞ハソ、穢多・・・」の小文字の「穢多」は、写真版でみると筆跡が他の部分と異なるように見えますので、後代の加筆と判断してさしつかえないと思います。つまり、『塵袋』が書かれた当時、「エタ」ということばに「穢多」という文字があてられていたかどうか定かではないということになります。「エタ」ということばが、他の漢語が使用されていた可能性がでてきます。

それに、筆跡が他の部分と異なっているようなので、かなり後代の加筆の可能性もあります。

この『塵袋』から「旃陀羅=穢多」という等式を導きだすことは解釈の行き過ぎということになりましょうか・・・。

立教大学は、川元祥一講師という、「部落学」の専門家がいるのですから、学生が、講師の講義内容を徹底的に批判・検証する、場合によっては、川元祥一講師に卒論の指導教官になってもらう・・・というのもいいかもしれません。知恵熱にとりつかれたこどものように、「どうして?」、「どうして?」、「どうして?」と質問を連発して、被差別部落出身の講師から、その研究成果を「搾取する」(しぼりとる)というのもいいかもしれません。川元祥一講師から、「賤民史観」という毒素を「搾取」してしまったら、そのあとに、「あまい蜜」(部落差別完全解消の展望)が出てくるかもしれません・・・。

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