2021/10/02

「旧穢多」の受容と排除 その1 宮本常一のことば

「旧穢多」の受容と排除 その1 宮本常一のことば

前回の執筆が、6月22日・・・。『部落学序説』を執筆していないときも、その執筆の舞台裏で起こっていることを『田舎牧師の日記』に書きつらねていますが、それはあくまで副次的なものに過ぎません。最終的には、『部落学序説』が残ればいいのですから。

筆者は、「無学歴・無資格」であることは、繰り返し言及してきましたが、それにもかかわらず、いささか学究じみた論文を書くためには、「独学」に徹するしか方法はありませんでした。

『部落学序説』の内容は、ときに応じていろいろなひとにお話ししてきましたが、ほとんど何の反応もありませんでした。「会話」で伝えていた内容を「文書」(原稿用紙300枚)にまとめて公表したときには、所属している宗教教団の教区の宣教研究委員会から、即「没収・廃棄」の処分を受けました。内容を理解できない彼らは、「穢多」等の差別語を使用し、被差別部落の地名・人名に具体的に言及しているという理由で、筆者の言説と筆者の存在を観念的に否定してしまいました。

その結果、他者と情報交換をしながら「部落差別」の現実と真実に迫る手法は後退し、所属する宗教教団や、徳山藩の「穢多村」の系譜をひく被差別部落との「共同研究」から遠ざかり、ただ「独学」の形で、『部落学序説』の執筆を継承せざるをえませんでした。

『部落学序説』をブログ上で公開しはじめたのをきっかけに、部落解放同盟新南陽支部の方々との交流が回復したように見えましたが、『部落学序説』執筆開始から1年を経過して、やはり「独学」でしかなかったこと、これからも「独学」を続けなければならないことを知って、少なからず衝撃を受けました。

『部落学序説』の執筆公開に先立って、想定される反論に対して、できるかぎり誠実に対応しようと、反証を用意しましたが、いざ『部落学序説』の執筆をはじめてみると、これといった反論・批判もなく、今日にいたりました。『部落学序説』の中で、「穢多」という「差別語」が繰り返し使用されているにもかかわらず、それが「差別発言」であると指摘してこられる方も誰ひとりいませんでした。

『部落学序説』は、「肉を切らして骨を切る」みたいなところがあって、「筆者の差別性を曝しながら、賤民史観を撃つ・・・」営みを続けてきたわけです。『部落学序説』は、「序説」として、筆者自らに対する問いかけとして、筆者自身の「差別性」を明確に自覚して執筆するというスタイルをとっているがゆえに、部落差別の差別者・被差別者を問わず、第三者的(ひとごと・たにんごと・えそらごと的)にこの問題にかかわってこられた人びとにとっては、違和感の多いものになってしまったのでしょう。

この10日間、『近代部落史資料集成第1巻 「解放令」の成立』と『同第2巻 「解放令」反対一揆』、宮本常一著『民俗学の旅』、『新訂おくのほそ道』、今野信雄著『江戸の旅』、小浜逸郎著『「弱者」とは誰か』、奥平康弘著『治安維持法小史』、新川明著『新南島風土記』、塩見鮮一郎著『弾左衛門の謎』、原剛著『日本の農業』、和田献一著『ちょっと待って!人権がある』等に目を通してきましたが、『部落学序説』の執筆の傾向と内容に大きな影響を与えるようなものはありませんでした。

ある本に、「必要とする情報量の90%は簡単に入手できる。しかし、あとの10%の情報を入手しようとすると膨大な経費と時間がかかる」というようなことが書かれてありました。『部落学序説』の筆者の場合、既に「入手した資料」と「入手していない資料」を比較するといまだに「入手していない資料」の方が膨大であることは客観的に確認することができます。しかし、『部落学序説』執筆に「必要とする情報量」という観点からしますと、かなり集めることができるものは集めている状況にあります。徳山市立図書館の郷土史料室と2階の関連資料群は相当数にのぼるからです。筆者の手元にあるのは、その中から『部落学序説』の研究方針に従って厳選されたものばかりですから、「無学歴・無資格」のただのひとが研究する範囲においては、必要最低限の情報が筆者の掌中にあるといえます。「あとの10%の情報」と遭遇することへの期待は強く持っているのですが、残念ながら、「史料」・「伝承」ともに、その「期待」が「現実」となることは非常に難しいと想定されます。

この10日間、上記の書籍に目を通していて、宮本常一著『民俗学の旅』の1節が、筆者のこころの中に深く沈んできました。

それは、百姓をしている父親から宮本常一が聞かされたことばです。「先をいそぐことはない、あとからゆっくりついていけ、それでも人の見のこしたことは多く、やらねばならぬ仕事が一番多い」。宮本常一は、周防大島の地をはなれて大阪に進学するとき、その父から「旅」の心得をおしえられます。10箇条の最後のことばは、「人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。」というものでした。

「父にとっては旅が師であった」と述懐する宮本常一は、「後年、渋沢敬三先生からそのことについて、実践的に教えられることになる。」といいます。

渋沢敬三は宮本常一のこのように語ったといいます。「大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況を見ていくことだ。舞台で主役を努めていると、多くのものを見落としてしまう。その見落とされたものの中に大事なものがある。それを見つけてゆくことだ。人の喜びを自分も本当に喜べるようになることだ。・・・」。

宮本常一は、渋沢敬三の中に父の姿を見ていたのかもしれません。

宮本常一は、やがて、このような事態に直面します。「武家政治では士農工商として階層的に規定していったけれども、一般社会を見るとかならずしも階層的でなかった場合が多い。歩いていて現実の姿を見ていると、これまでの概念規定に疑問を持つようなことがたくさんあった・・・」。

宮本常一の次のことばは、筆者のこころの中に深く沈み込んできます。

「過去を掘り起こすことは、
われわれの先祖の姿を矮小視することではない。
過去のすべてを掘りおこすことを目指さなければならないと思う。

過去が矮小なのではなく、
今生きている自分自身が矮小なのである」。

宮本常一は、『民俗学の旅』終章でこのように記しています。

「多くのひとがいま忘れ去ろうとしていることをもう一度掘りおこしてみたいのは、あるいはその中に重要な価値や意味が含まれておりはしないかと思うからである。しかもなお古いことを持ちこたえているのは主流を闊歩している人たちではなく、片隅で押しながされながら生活を守っている人たちに多い。

大切はことを見失ったために、取りかえしのつかなくなることも多い。・・・今日の人間の教育にすら、何かが失われているように思えることがある・・・」。

『部落学序説』の筆者である私は、宮本常一のような父・師・友にめぐまれているわけではありません。「無学歴・無資格」の厳しい現実の中を生きてきましたが、「常民の学」としての民俗学を構築されてきた宮本常一と、「非常民の学」としての部落学構築を標榜する筆者との共通点をあえて抽出すれば、宮本常一の「私は長いあいだ歩き続けてきた。・・・」ということばにあります。

自分の足で歩き続ける・・・。

宮本常一と筆者の唯一の共通点かもしれません。

「常民の学」としての民俗学の宮本常一が「見失った・・・」、「非常民の学」としての部落学構築の旅を続けることにしましょう。

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