2021/10/03

太政官布告の釈義 7.「職業・・・平民同様」

太政官布告の釈義 7.「職業・・・平民同様」


【職業・・・平民同様タルベキ事】

部落研究・部落問題研・部落史研究に携わってきた学者・研究者・教育者に共通してみられる傾向があります。

それは、通称「解放令」・「身分解放令」・「賎民解放令」・「部落解放令」・「賎称廃止令」・「賎民廃止令」・・・といわれている明治4年の太政官布告に対する「距離」のとり方です。

多くの学者・研究者・教育者は、近代以降の部落史に触れる際、この太政官布告の意義を強調します。「天皇の聖旨」に基づくと解釈されるこの布告は、水平社運動の時代に、その運動を支える思想の根拠に位置づけられたものです。明治4年の太政官布告を、明治天皇の聖旨に基づく「解放令」と受け止め、それを根拠に、近代身分制度の中にあって、「天皇・皇族・華族・士族・平民・新平民」と位置づけられた「最下層身分」の社会的地位向上の闘いを展開しました。水平社運動に依拠すればするほど、昔も今も、この明治4年の太政官布告、通称「解放令」を過大評価する傾向があります。

多くの学者・研究者・教育者は、この明治4年の太政官布告に注目を集める一方で、その布告に対する読者の関心を、その布告から遠ざける傾向があります。明治4年の太政官布告の中心・中核・本質に、必要以上に迫ろうとすることがないように、「侵スベカラザル」聖なる領域から読者を締め出す傾向があります。

渡辺俊雄の『いま、部落史がおもしろい』(解放出版社)は、一時期、山口県の多くの高校教師の部落史教育の拠りどころであった本ですが、渡辺俊雄は、「「解放令」が出たことじたいは明らかに歴史の前進です」と評価します。渡辺は、「歴史の前進」を強調する理由として、封建的な「身分差別はなくなり・・・「臣民」として差別なく生きていく可能性が生まれたこと」をとりあげます。

渡辺は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」に依拠して、「解放令」の持っていた「賎民制廃止」の側面を強調する一方、それ以上に、読者が、「解放令」に関心を持ち、「解放令」をいたずらに研究対象にしないように、「「解放令」の内容と、その後に部落差別が再生産されていったことは一応別の問題」であるといいます。

渡辺は、明治4年の太政官布告を評価するとともに、近代の部落差別とは何のかかわりもないというのです。「明治天皇の聖旨として出された「解放令」に瑕疵はない。もしあるとすれば、天皇の聖旨を理解することができず、部落の人々を差別し続けてきた「臣民」にある・・・」とでもいいたいのでしょうか。

渡辺俊雄にかぎらず、多くの学者・研究者・教育者は、この明治4年の太政官布告に近づきはするけれども、その本質に迫ろうとはしません。上杉聡の解放令に関する研究など、まさにその典型で、現象面の研究にのみ終始しています。その結果、多くの学者・研究者・教育者と太政官布告の間にバリアを設定することになります。悪貨良銭を駆逐する・・・のたとえではありませんが、「現代の部落問題を研究する人びとを除き、近世の穢多・非人を研究するような人びとは、たとえば部落解放研究所から出ていき、別の研究会を組織するよう勧めねばならないことになる」(上杉聡著『部落史を読みなおす』)と、強権を発動し、他の学者や研究者に威圧的態度で接することができる対場にあるひとの発言は、部落史の研究を進展させるどころか、逆にブレーキをかけ、部落史研究をあらぬ方向に誘導してしまいます。

もちろん、渡辺俊雄や上杉聡だけではありません。学者・研究者・教育者の多くは、その論文の読者を、何か、太政官布告を中核に遠心力が発生しているかのように、太政官布告に必要以上近づかないよう周辺へ、中心から遠くへ追いやってしまうのです。

『部落学序説』の筆者である私は、明治4年の太政官布告をそこまでして「保護」・「死守」する理由がわかりません。

近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常民」の「穢多非人」は、明治以降も「非常民」として採用されていきます。明治4年の太政官布告によって、外交上の問題がからんで、明治政府が旧司法・警察を解体のやむなきにいたった後においても、さまざまな形で、近代の司法・警察に組み込まれていきました。それは、「旧穢多」が持っていた、探偵・捕亡・拷問・糾弾の知識・技術でした。とくに「探偵」(密偵)としての活躍は、明治政府によって高く評価され、「旧穢多」は、さまざまな反政府運動の情報収集に関与します。そして、明治後半期に、「旧穢多」の末裔は、完全に近代警察に、明治天皇制国家の国家警察の中に吸収されその姿を消していきます。「特殊部落民」という用語が一般化する前後にその姿を消していきます。「部落学」を提唱する川元祥一は、その著『部落差別を克服する思想』の中で、「元穢多」は、明治7年4月24日の法令で、「長年つづいた被差別者による番人(旧)の歴史や文化・技術が、名称もろとも日本近代警察の中から消されていった。」と言及していますが、『部落学序説』の筆者である私は、『山口県警察史』の記述から、「旧穢多」が姿を消すのは明治7年ではなくて明治30年代後半であると考えています。

「旧穢多」の近世的、「探偵・捕亡・拷問・糾弾」の知識と技術は、戦前においては、「特別高等警察」(特高警察)に、戦後においては、「公安警察」(公安)に継承されていきます。

「恐怖にみちた・・・機構」(松尾洋著『治安維持法と特高警察』)として、「残忍な拷問」を行い、「治安維持」のため猛威をふるうのです。

「解放令」に関する史料も、「特高警察」によって収集され、史料が意図的に操作されていきます。日本の知識人は、「残忍な拷問」の前で「思想的転向」を余儀なくされます。治安維持法違反者は、「刑期が満了しても、前非を悔い改めた「転向者」でないかぎり、無期限に拘禁」されたのです。「全くの人権無視」が行われ、「永遠に犯罪者として拘禁におびやかされる」ことになったのです。

治安維持法と特別高等警察が、日本の知識人(学者・研究者・教育者・政治家・運動家等)に与えた影響は相当深刻なものがありました。彼らは、国家が定めた歴史の枠組み、歴史学の対象と研究方法に、自ら制限を課すようになったのです。国家の基本的な理念に抵触するような歴史研究はことごとく排除されていきます。筆者は、「解放令」もそのひとつであったと考えています。戦後に入っても、歴史学者は、その枠組みを乗り越えることができませんでした。その結果、戦後60年が経過した今日においても、明治4年の太政官布告、通称「解放令」は、「批判すべからざる」「天皇の聖旨」として機能し続けているのです。

『部落学序説』執筆を企画したときから、いろいろな人にその内容を予告してきましたが、中には、「そんな論文を書けば、あなたは殺されるよ・・・」と忠告を受けたことが何度かあります。学者・研究者・教育者、そして運動家や政治家の中に組み込まれた、「思想的遺伝子」(よらば大樹の陰・君子危うきには近寄らず)は深刻なものがあります。

筆者は、今の「公安警察」が戦前の「特高警察」と同様な営みをしているとは思えません。問題は、彼らに対する恐れから、日本の知識人の中に組み込まれた知識人の自制的「禁忌」がより大きな問題であると考えています。

少し前置きが長すぎましたが、「職業・・・平民同様タルベキ事」という条文を検証してみましょう。

すでに記述してきたとおり、明治新政府は、近世幕藩体制下の身分を廃棄するとともに、新たに設定された、近代天皇制の身分「華族・士族」に対しても、「平民同様」の「職業」(農工商)に携わる自由を認めていたということは、明治4年の太政官布告の「職業・・・平民同様タルベキ事」という条文は、なんら変わったものではなく、「華族」・「士族」同様の措置がなされたと考えても問題はありません。明治政府は、「天皇」をのぞくすべての人に、「平民同様」の職業を保障したのですから・・・。

「旧穢多」に属していたひとびとは、「職業・・・平民同様タルベキ事」という布告で、近世幕藩体制下で認められていた、職業の制限と監視にともなうすべての特権を喪失することになります。

長州藩では、藩の禁制品の取り締まりは、街道沿いに配置した「穢多」(近世警察官)や「手子」(近世税務官)に命じられました。そして、犯罪の摘発によって、没収された「禁制品」は取締官の収入とされました。また、村々の祭りで行われる旅芸人に対する「賦課」も、「穢多」の収入にされていました。それら、すべての特権が、明治4年の太政官布告によって廃棄されたと考えられます。

太政官官吏・木下真弘は、『維新旧幕比較論』(岩波文庫)は、「新」と「旧」を次のように対比しています。

(新)
穢多非人の称を廃し、悉く民籍に編し地租蠲免の制を罷む。

(旧)
穢多非人皆長あり。其種族の多き三拾八万余人に及ぶ。穢多の執る所の商工業廿八職あり。而して其利を専らにする。

木下真弘の注にしたがうと、明治4年の太政官布告によって、近世幕藩体制下の「職業」をめぐる特権のすべてが廃止されたと考えられます。

木下は、「族別」編では、明治4年の太政官布告に関連してこのように記しています。

「雑業(総録、検校、勾当、瞽者、角觗、売卜者、香具師、辻薬売、戯場音曲芸人、穢多非人等)の貫籍を正し、検校勾当及び穢多非人の称を廃し、悉く民籍に編入し、地租蠲免の制を罷む」。

木下によると、明治4年の太政官布告の本質を理解するためには、「穢多非人」だけでなく、「検校勾当」に対する布告も考察に対象にしなければならなくなります。「穢多非人」と「検校勾当」という概念の共通の属性をあきらにする必要がでてきます。

『部落学序説』の筆者である私は、明治4年の太政官布告によって、「穢多非人」は「警察」に関与する特権を失い、「検校勾当」は「金融」に関する特権を失った・・・と考えます。近代国家建設のために、富国策をとる明治新政府は、国民に職業上の自由をあたえるため、近世幕藩体制下の経済の規制となった、「穢多非人」と「検校勾当」の特権を排除する必要があったと考えられます。

今日、「穢多非人」の称廃止については多くの関心が払われていますが、「検校勾当」の称廃止についてはほとんど関心をもたれることはありません。「検校勾当」は、幕府によって認可された「官金による金貸業」であったのですが、明治4年春、東京府・京都府・開拓使から解体要求がだされ、明治4年11月3日太政官布告第568号として「盲人の官職廃止」の布告が出されます。

「盲人ノ官職自今被廃候事」。

太政官布告第568号には、太政官布告第448号にあった「職業・・・平民同様タルベキ事」という文言はでてきません。「検校勾当」は、近世幕藩体制下の特権を剥奪され、寒風吹きすさぶ明治の世の中に放逐されるのです。それまで生活を支えていた特権を剥奪されると、「検校勾当」は生活することはできません。明治政府は、「憐れむべき困民」になった場合は、政府が「撫育」(いつくしみそだてる)というのです。盲人は、近世幕藩体制下の身分的特権を剥奪されて、剥奪した「天皇」(官)の「あわれみ」によって生きる存在においやられていくのです。

「穢多非人」と「検校勾当」の両概念に共通しているのは、「民籍に編入し、地租蠲免の制を罷む」ということです。とくに、「地租蠲免の制を罷む」というのが、明治新政府が、太政官布告を出した、共通の意図であったと思われます。

「穢多」の監視下に置かれていた職業、「検校、勾当、瞽者、角觗、売卜者、香具師、辻薬売、戯場音曲芸人・・・」、いわゆる「穢多の執る所の商工業廿八職」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」が監視していた職業の一覧表です。「商工業廿八職」の職人すべてが「穢多」・「穢多の類」ではありません。東京府の史料によると、東京府は、彼らを調査して、「農籍」、「商籍」、「弾直樹支配籍」に「区別」(取り締まる側と取り締まられる側を区別)しています。「農籍」・「商籍」の「廿八職」と「弾直樹支配籍」の「廿八職」を別様に扱っているのです。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」は、明治4年の太政官布告の「穢多非人等」をブラックホール化して、そこに、「娼妓」・「検校勾当」等に対してだされた布告を流用・転用して、「あわれでみじめできのどくな」、被差別像を捏造していくのです。

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