2021/10/01

同対審答申前夜の「同和教育」の方針

同対審答申前夜の「同和教育」の方針

『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』の中に、昭和39年当時の山口県教育委員会の「同和教育の方針」という文章が掲載されています。

『部落学序説』の筆者は、「同和教育事業」も「同和対策事業」のひとつであると考えています。「同和対策事業」を批判的に検証するためには、「同和教育事業」についても言及せざるを得ません。「同和対策事業」が何を目指して実施されたかは、同対審答申前夜の「同和教育」の方針を検証することで確認することができるのではないかと思います。

筆者は、すべての法解釈に際して、その方が成立せしめた歴史と状況の分析と把握を必要不可欠な作業として認識しています。それらを抜きにして、成立した法(同対審答申や同和対策事業法)を、金科玉条のごとく絶対視することはありません。

国に働きかけて、同対審答申や同和対策事業特別措置法を成立させていった地方行政のひとつである山口県の「同和教育の方針」をてがかりに、「同和教育」の原初の姿をもう一度確認してみましょう。

山口県教委は、「日本国憲法」の「すべての国民は法の下に平等であって・・・政治的、経済的または社会的関係において差別されない」という規定を取り上げることから、「同和教育の方針」(以下『方針』と呼ぶ)を展開していきます。

『方針』は、すべての国民が「差別」されない民主社会を構築するためには、「民主教育」の推進を欠かすことができないといいます。

『方針』が、視野にいれている「差別」は、「部落差別」だけではありません。日本国憲法の条文にあるとおり、「人種、信条、性別、社会的身分、門地、貧富」などによるすべての「差別」を包含します。これらの「差別」は、「現在の社会において最も民主主義と相反し、民主化をはばんでいる」との認識が示されています。『方針』は、これらの差別は「封建遺制の問題」として、「国民生活の中に深くくいこみ、複雑多様な形で差別にしわよせして、ひびに苦しさ、貧しさなどのあらゆる不幸を生み出している・・・」というのですが、そのような「差別」は、「同和地区」住民だけでなく、「全国民の上にのしかかっている」というのです。「人種差別」、「宗教的差別」、「性差別」、「社会的差別」(身分、出身、学歴等による差別)、「貧富による差別」からの「解放」は、「根を一つにする国民共通の課題」であるというのです。

つまり、『方針』は、「部落差別」からの「解放」を、「全国民」が直面している「共通の課題」のひとつとして位置づけ、「われわれはみんな(差別・被差別)で手をにぎりあって、すべての国民が差別から解放されることを目標に、人間として、社会人として、そして国民として、この問題を自分自身の問題として把握することから出発しなくてはならない。」というのです。

筆者は、この言葉は、山口県教育行政の担当者の「巧言令色」ではなく、教育者としての責任感から生まれてきた言葉であると確信しています。

『方針』は、「真の民主的な教育」は、「すべての人びとが差別観念から解放せられるような人間を育成すること」にあると強調しています。『方針』は、「部落差別」だけでなく、他の「人種差別」・「宗教的差別」・「性差別」・「社会的差別」(身分・出身・学歴等による差別)・「貧富による差別」等のすべての「差別を焦点づけた教育」を「同和教育」と呼ぶというのです。

山口県の、同対審答申前夜の「同和教育」は、「同和教育」という「特殊教育」ではなく、本質的にすべてのひとびとを対象にしてなされる「人権教育」であったのです。筆者は、昭和39年の山口県教育委員会の「同和教育の方針」のもっている意味合いは、今日においても、決して色あせてはいないと思うのです。

しかし、同対審答申にもとづいて実施された同和対策事業・同和教育事業で、同対審答申がだされる前夜の山口県の「同和教育」に関する理解は、なしくずしにくずされていったと思われます。山口県の「同和教育」は「同和<教育>」に重点が置かれていたにもかかわらず、「33年間15兆円」の同和対策事業が展開される中で、「同和教育」は「<同和>教育」に重点が置かれるようになっていってしまったからです。

「同和教育」を推進する上で、「同和」に重点を置くか、「教育」に重点を置くかによって、「同和教育」の方向性と内容とは大きく異なってきます。

山口県にあっても、「同和教育」が、「同和」の方に重点が置かれるようになることによって、「同和地区」のこどもと、同じような「差別」的現実(「人種差別」・「宗教的差別」・「性差別」・「社会的差別」(身分・出身・学歴等による差別)・「貧富による差別」等)に身を置いていたこどもとの間に「格差」が生じることを許してしまいます。

もちろん、「同和地区」のひとびとの側からみると、「同和教育」が、「同和」に重点を置くことは当然のことであったと認識されたことはある意味当然であると思われます。

『蛙独言』の著者・田所蛙治氏は、このように語っています。

「明治」から考えても、既に百数十年が経っています。この間にこの国のインフラ整備から取り残されてきたことを「埋め合わせ」したと単純に考えれば「15兆円」などたかが知れた額に過ぎません。15兆を30で割れば、たかだか年間5000億、「明治」以降の百年に均して考えれば年間50億円に過ぎません。 「事業」出発時点で「地区指定」されたのは2000を超えていたと思いますが、平均して一つのムラに年額2億5000万、百年に均せば250万円ということになるでしょう。実際にはそんな単純な計算は意味がないですが、ただ、大した額ではなかったということを言いたいのですね。

「同和教育」が、同対審答申前の山口県の「同和教育」の『方針』とは違って、「同和<教育>」から「<同和>教育」に変質していったとき、教育現場の中に、「逆差別」がもちこまれることになり、そのことが、「公平」をモットーとすべき公教育の現場で著しい「不公平」を演出し、教育現場の荒廃をもたらしていったのではないかと筆者は想定しています。

長年、部落解放運動に携わってこられた田所蛙治氏が、「15兆円」など「たかが知れた額に過ぎません。」「大した額ではなかった」・・・と言い切られるとき、筆者は、田所蛙治氏は、「逆差別」という犠牲すらはらってなされた「同和対策事業」・「同和教育事業」を正当に評価していないのではないか・・・という疑念を持たざるを得ないのです。

「同和教育」が「<同和>教育」に重点を置かれたことで、公教育における「不公平」と「格差」は、解消されるのではなく、かえって、温存されるようになったのではないかと思います。

小泉首相は、歴代の首相とは異なって、「不公平」と「格差」を是認するような政策をとってきました。筆者の目からみると、小泉首相の行政改革は、「改革」でなく、政治的頽廃・跛行行為のような気がします。

『方針』は、「過去の同和教育」を反省し、「同和教育」の刷新をはかろうとします。『方針』は、過去の歴史「理解が浅薄」であり、「差別の認識が皮相」であったため、「同和教育」の現場で、貴重な多くの経験と情報を収集し、そこから「同和教育」のあるべき姿、「正しい目標をつかみながら、それを正しく発展させること」ができなかったといいます。「部落問題の表面ばかりなでまあわし特殊教育として孤立させていた」というのです。『方針』は、「このことを深く反省し学校教育に携わる者も、社会教育に当たる者も、等しく現代社会の実態を的確に把握して、民主主義の立場から同和教育を強力に推進しなければならない」といいます。

『方針』は、「目的を正しくとらえ、具体的、継続的な指導計画によって実践するならば、この国民的課題は必ず教育の力で解決できる」といいます。

「33年間15兆円」という時間と経費を注いで実施された同和対策事業・同和教育事業は、「部落差別」をはじめさまざまな差別の「解決」をみないまま、打ち切られてしまったということについて、どのような理由があたのでしょうか・・・。国に、「同対審答申」・「同和対策事業特別措置法」を成立させた地方行政の「初志」が、いつ、どのように、変質させられてしまたのでしょうか・・・。

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