2021/10/02

「被差別部落」の人々の怒りの琴線に触れる・・・

「被差別部落」の人々の怒りの琴線に触れる・・・

この文章は、筆者の極めて主観的な文章です。

「琴線」ということばがあります。

『広辞苑』では、次のような説明がなされています。

きんせん【琴線】①琴の糸。②感じやすい心情。心の奥に秘められた、感動し共鳴する微妙な心情。「-に触れる」

筆者の論文『部落学序説』が、「被差別部落」の出身者ではない、しかも、「被差別部落」のひとびとの差別される痛みも苦しみもわからない差別者のたわごと・・・でしかない場合、「被差別部落」のひとびとは、『部落学序説』に対して馬耳東風を決め込むこともできるでしょう。

なかには、一応、筆者に対する「世辞」で、『部落学序説』に対して一定の評価をしてくださる方々もいないわけではありませんが、しかし、『部落学序説』が、「被差別部落」の出身者ではない、しかも、「被差別部落」の人々から見れば、「被差別部落」のひとびとの差別される痛みも苦しみもわからない差別者・・・と同定される筆者の書く文章は、最初から危うさを内包していると思われます。

『部落学序説』は、「被差別部落」の人々の思想や運動方針、その生き方に100%「寄り添う」ものではありませんし、また逆に100%「寄り添わない」ものでもありません。

『部落学序説』は、筆者の解釈原理、「常民・非常民論」・「新けがれ論」・「賤民史観批判」によって、史料・伝承の分析・批判がなされていますので、当然、『部落学序説』の論述は、「被差別部落」の人々の思想や運動方針、その生き方に「寄り添う」部分もあれば、その逆の「寄り添わない」部分も抱え込むことになります。

その場合、「寄り添わない」部分を棄てて、「寄り添う」部分だけを取り入れるということが可能であるのかどうか・・・、といいますと、『部落学序説』の筆者の目からみると、それは、非常に難しいのではないかと思われます。

英語のことわざに、"Don't Throw The Baby Out With The Bath Water"というのがあります。

このことわざは、「ことわざ」というより、単なる「ジョーク」のようですが、ときどき、日本のことわざ「角を矯めて牛を殺す」の英語版として紹介されることがあります。「汚れた」水を棄てようとして、「清らかな」あかちゃんを棄ててしまう愚を表現したものですが、最近、このことわざを地でいったような事件が少なくありませんが、『部落学序説』の中から、「寄り添わない」部分を棄てて、「寄り添う」部分だけを取り入れる・・・、というのは、ほとんど意味のないことです。

『部落学序説』を執筆するための長い歳月の間においても、ブログ上で執筆を開始した以降においても、ときどき、筆者の「寄り添う」部分と「寄り添わない」部分が指摘されてきました。「寄り添う」部分は、「被差別部落」の人々から歓迎されて受け入れられるのですが、「寄り添わない」部分については、「被差別部落」の人々の「琴線」に触れ、ときとして、彼らに「悲しみ」をあたえたり「怒り」の気持ちをかきたてたりしてきました。

「琴線」というのが、「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」であるがゆえに、それをことばに出して表現することは非常に難しいものがありますが、無学歴・無資格の筆者の「独断と偏見」を駆使して、「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」について一考してみたいと思います。

昔、東京・山谷の労働者の闘いを描いた「やられたらやりかえせ」の上映運動に参加したことがありますが、上映会のあと、上映運動をしているキャラバン隊の方々と懇親会を開催したことがあります。

ちょうど、日本全国、造船不況のまっただなかで、筆者の住んでいる下松市の笠戸島の造船所も閉鎖対象になり、各政党を超えて、「下松から造船の灯を消すな」という市民運動が起こりました。

下松市にある、日本基督教団の小さな教会に赴任してきて日の浅い筆者は、「やられたらやりかえせ」の上映運動や、「下松から造船の灯を消すな」という市民運動に担ぎだされました。新左翼系の作成した映画・「やられたらやりかえせ」が、日本共産党系の笠戸造船の労組でも上映されていたのです。

「下松から造船の灯を消すな」という市民集会には、地元のひとはのちのち差し障りがあるから・・・、というので、「よそもの」の筆者に、市民代表としてのあいさつ(アジ演説)がまわってきました。

今から考えると、若気のいたりというか、「世の光・地の塩」の役をつとめなければならないという「使命感」にとんでいたというか・・・、思い出しても赤面せざるを得ない「演説」をしたものです。「ひとが企業をつくる。ひとを大切にしない企業はやがて滅びる。ひとが国をつくる。ひとを大切にしない国はやがて滅びる・・・」、みたいな発言をしたように思います。

筆者の演説はまったく、時代状況とは無縁で、その後、日本の国も企業も、「ひと」を軽んじる方向に突っ走ってしまいました。バブルがはじけてから、その傾向はますます強くなり、小泉政権下においてはその傾向が一段と加速されました。「格差」の問題は、国や企業が「ひと」(国民・市民)を軽んじてきた結果にほかなりません。

話が脱線しましたが、その「やられたらやりかえせ」の上映運動のあとの懇親会に、筆者が所属する日本基督教団西中国教区の「キリスト教社会館」(広島市内の被差別部落の中にある私設隣保館)の青年が、キャラバン隊の一員として参加していました。

そのとき、自己紹介の席で、彼が、「やられたらやりかえせ」の上映運動に参加するようになって、「たかが部落差別と思うようになった・・・」と話したのです。キャラバン隊の彼のことばに反応するように、上映運動の執行部側のひとり、高校教師で市の同推協のメンバーをしているひとが、「そうだ、そうだ、たかが部落差別だ!」といったのです。

自己紹介が筆者の番にまわってきたとき、筆者はそのことに触れざるを得ませんでした。「被差別の側から、「たかが部落差別・・・」というのは理解できるが、差別者の側から、「たかが部落差別・・・」というのは問題ではないか・・・、と発言しました。

「たかが・・・」ということばは、考察の対象を軽視するときに使用されることばです。被差別の側が、「たかが部落差別・・・」といって、自己の直面する部落差別を相対化して差別と闘うということもあるのですが、差別者の側が「たかが部落差別・・・」と相対化することに問題を感じたからに他なりません。

そのとき、懇親会に参加していた部落解放同盟新南陽支部の方々が、「その通り・・・」とあいのてをいれられていました。

そのことが影響したのかどうかはわかりませんが、その後、部落解放同盟新南陽支部のある被差別部落の中の隣保館で開かれた写真展に招待され、生れてはじめて、自分の意志で、被差別部落をたずねることになりました(そのことについては、すでに記述しています)。

筆者と部落解放同盟新南陽支部との出会いの端緒からして、「部落差別」の相対化・絶対化の問題は避けることができない問題として存在していたわけです。それから、二昔の歳月が過ぎてしまいましたが、「部落差別」の相対化・絶対化の問題は、今も、未解決のまま両者の間に、部落解放同盟新南陽支部との間だけでなく、筆者と部落解放運動の担い手との間に存在し続けているのです。

無学歴・無資格に端を発する「独断と偏見」からあえていえば、部落解放運動に従事している被差別部落のひとびとの「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」として、自らが直面している差別を「絶対化」する傾向があるのではないかと思います。「部落差別」は、他の差別と根本的に異なる「特殊」な差別である・・・、と。

「特殊部落」ということばが、差別語であることは、『部落学序説』の立場からも明確にそうであると断言できます。「特殊部落」ということばは、時の明治政府・内務省・警察によって造られた、極めて差別的な用語です。明治政府の「棄民化」政策によってつくられたことばで、この「特殊部落」を一般に流布させた、当時の学者・研究者・教育者・政治家・運動家は、現代部落差別の構築に関して重大な責任があります(誰もとろうとはしませんが・・・)。

言葉としては、差別語として認識される「特殊部落」は、意識レベルになると、被差別部落の側に相当受け入れられていったのではないかと思います。「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」としては、被差別部落の人々は、自らを「特殊」という言葉で、絶対化していったのではないかと思います。

水平社運動の時代、その「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」がわざわいして、「特殊部落」にかわる言葉を創出することができなかったのではないかと思います。「人間解放」を訴える、水平社宣言において、「全国に散在する我が特殊部落民よ・・・」とよびかけていますが、「特殊部落民」ということばをもってしてしか、自らを表現することができなかった背後に、被差別部落のひとびとの「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」として、自らを「特殊視」する視点がふくまれていたのではないかと想定せざるを得ないのです。

被差別部落のひとびとがみずからをみつめるまなざし・・・。そのまなざしの中に、差別者のまなざしが取り入れられていると主張する学者・研究者・教育者・政治家・運動家も少なくありませんが、みずからの存在の「特殊視」(近世幕藩体制下の「常民」からみずからを「非常民」として区別する傾向)の主張は、本源的に被差別部落のひとびとの歴史と思想、生き方の中に内在するのではないかと思われます。

その「特殊視」に乗っかって戦前・戦後、水平社運動・部落解放運動が展開されてきたのではないかと思われます。

日本の歴史をひもとくと、差別されてきたひとびとはたくさんいます。女性・こども・障害者・アイヌのひと・沖縄のひと・貧しいひと・・・、それなのに、なぜ、「被差別部落」のひとびとだけが、「被差別」に対する総合的施策としての同和対策事業・同和教育事業の対象になっていったのか・・・。それを許していった背景のひとつに、「被差別部落」の側の、「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」としての「特殊視」があったのではないかと思います。

誤解を恐れずにいえば、この「特殊視」を根拠にして、部落解放運動が実践され、同和対策事業・同和教育事業という、「特殊視」にみあう事業・教育が推進されていったのではないかと思われます。

同和対策事業・同和教育事業が終了した時点でも、被差別部落のひとびとがみずからを「特殊視」する視点は批判検証されることはなかったのでしょう。この「特殊視」は、被差別部落の存在とその解放運動を絶対化し、部落差別を相対化する、ありとあらゆることがらを否定しようとします。「被差別部落」の側の、「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」は、「特殊部落」という差別の裏返しとしての、被差別部落の側の自己理解の視点・「特殊視」なのです。

筆者の『部落学序説』は、被差別部落のひとびとの中に潜在的に宿る「特殊視」という絶対化に対して、相対化した視点・視角・視座を提供するものです。

『部落学序説』は、最初から、「差別」と「被差別」の両者の間の精神的葛藤を前提としているのです。「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」としての「特殊視」(賤民史観)を否定し、「一般視」(常民・非常民論)を提案しているのです。

『部落学序説』の筆者が、これまでかかわってきた被差別部落のひとびととの間に齟齬が生じるのは、共通点がひとつあります。それは、筆者が、被差別部落のひとびとの「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」としての、被差別部落にひとびとの自分自身に向けた「特殊視」(賤民史観)を否定することです。

部落差別を完全解消に導くためには、「部落差別は差別者にのみ問題がある、被差別者はいわれなき差別を受けてきた被害者に過ぎない・・・」という「虚妄」を払拭し、被差別・差別の両者に存在する「特殊視」(賤民史観)を破壊しなければなりません。

部落差別は、「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」としての「特殊視」(賤民史観)をなにか「宝石」のように大切にしているが、ほんとうは、きらきら光り輝いているけれども「ガラス玉」でしかない、しかも取り扱い方によっては自他を傷つけてしまう危険な「ガラス玉」を自分の手に握りしめてはなさないこどもにたとえることができます。

『部落学序説』は、ほんとうの光を放つ「宝石」(常民・非常民論)を提示して、危険な「ガラス玉」(賤民史観)を手放すことをすすめるものですが、危険な「ガラス玉」(賤民史観)をほんとうの「宝石」と信じ込んでしまっている、差別・被差別の両方のひとびとの意識改革は決して簡単ではありません。

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