2021/10/01

水平社運動史の批判的研究法 2

水平社運動史の批判的研究法(その2)

山口の地において、20数年交流の機会が与えられた部落解放同盟新南陽支部の当時書記長をされていた方が筆者のことをこのように表現されたことがあります。

「吉田さんは、すぐ人を信用する。その結果、人から裏切られたときに、人一倍ショックを受けることになる・・・」。

筆者が、「すぐ人を信用する・・・」という人は、日常生活の中で出会う人のことではなく、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者のことです。

その人の2、3の論文を読んで感激して、「この人の説は、部落差別完全解消に繋がる説かもしれない・・・」とすぐ期待を抱くけれども、更に、その人の論文を精読・解析したり、新たな論文を読んでいくうちに、筆者が期待していたのとは異なる<差別的>な側面に遭遇し、失望の思いに囚われる・・・、というのです。

当初は、まさに指摘される通りだったのですが、20数年の歳月の中で訓練されたのでしょうか、最近では、そのような傾向が少なくなりました。

その人の2、3の論文を読んでも、それで、すぐに、その人を、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者として信頼したり、希望を抱いたりすることは少なくなりました。その論文を評価するためには、筆者固有の<批判・検証>が介在するようになりました。

今回、水平社運動史のミクロ的研究の担い手である朝治武氏に対比する形でとりあげる、水平社運動史のマクロ的研究の担い手である藤野豊氏についても、筆者は、入手した、2、3の論文を読んで、藤野豊氏に対して、また、その論文に対して、過度な期待を抱くことはありません。

藤野豊氏を<革新的>と表現すれば、『部落学序説』の筆者は極めて<保守的>であると判断せざるを得ないからです。

藤野豊氏の《「水平社伝説」を超えて》というひとつの論文をとっても、「より実証的、より客観的、より学術的な水平社像・・・」を描くために採用されることになった批判的研究法は、基本的に<保守的>な手法に頼っている筆者と違って、極めてラディカルです。

「こんな発言をして、どこからもクレームがでないのだろうか・・・」と危惧せざるを得ないほどラディカルです。

藤野豊氏は、このようにいいます。

「これまで、水平社運動史研究を歪めてきたのは、日本共産党や部落解放同盟の「御用研究者」である。かれらは、いわゆる「部落史」という「蛸壺」に逃げ込み、日本近現代史研究という視点を放棄、党や運動団体に都合のよい水平社像、すなわち「水平社伝説」を描いてきた・・・」。

日本共産党のみならず、部落解放同盟参加の学者・研究者・教育者を「御用研究者」とラベリングして根源的に批判すしようとする藤野豊氏の学者・研究者・教育者としての姿勢に、ある種の痛快さを感じてしまう筆者ですが、既存の政治理念・運動理念を打倒・破壊して、「水平社伝説」を克服、「一介の歴史学研究者」として「実証的研究」に徹し、歴史学の一般史(「日本近現代史研究」)を視野にいれて、「水平社運動史研究」のあらたな地平を切り開くという宣言は、筆者をしてその言葉に拍手喝采せしめるものがあります。

藤野豊氏曰く、「運動団体がどのような路線を歩もうと、研究者は自己の研究に基づいて勇気を持って発言すべきである」。

藤野豊氏の言葉に対して、筆者は反論すべきなにものをも持っていません。「研究者」が、その学者・研究者・教育者としての良心と良識を持って、その研究成果を明らかにすべきであることは、あえていうまでもないからです。

しかし、日本の歴史学・・・。

不幸なことに、明治以降の近代中央集権国家・天皇制国家においては、歴史学は、国家の学、権力の学でした。国家・権力が、その存在理由を確固たるものにするために、国民教化の一環として歴史学を導入・援用してきたのです。こころある歴史学者の目からみますと、戦前・戦後を通じて、そのような歴史学の体質はほとんど何も変わっていないと思われます。

そのような、中にあって、藤野豊氏のような戦後生まれの学者・研究者・教育者が、歴史学の権力的枠組みを超えて(それが充分達成されているかどうかは別ですが・・・)、その良心・良識を下にその研究成果を明らかにされ、歴史の真実を追究されることは、学者・研究者・教育者として、当然といえば当然すぎることだからです。

藤野豊氏の「教条的な理解を実証的に乗り越える・・・」という言葉もそのことを物語っています。

藤野豊史の水平社運動史の批判的研究の目的は、「教条的な理解」の産物である「水平社伝説」を批判・打倒することです。

その「水平社伝説」・・・、「政党や運動団体に追随することをもって、かろうじて「研究者」としてのステイタスを維持してきた人びと」によって「描き続け」られ、捏造されてきました。彼らは、「水平社を聖域として被差別部落外からの批判を封じ込めようとする傾向が強く、一部では日本近現代史研究そのものへの無知に由来する暴言も飛び交っている・・・」といいます。

「日本共産党や部落解放同盟の「御用研究者」」からの、水平社の「聖域」を侵すものに対する罵詈雑言にみちた非難中傷を含む「暴言」は、1986年、部落解放研究所が、『水平社運動史論』を、解放出版社から公刊した当初から存在していたのでしょう。

受け止め方によっては、部落解放運動そのものに対する根源的批判に発展する可能性のある藤野豊氏の論文を、なぜ、『水平社運動史論』の第一論文として収録したのでしょう。

筆者は、その『水平社運動史論』が出版された時代の部落解放研究所に帰属する、あるいは参加する学者・研究者・教育者の中には、すべての批判を許容する、という精神的、学問的柔軟さが保障されていたのでしょうか・・・。

しかし、無学歴・無資格、差別者でしかない『部落学序説』の筆者の目からみると、藤野豊氏の論文の視点・視角・視座は、極めて、ラディカルな視点・視角・視座に映ります。

藤野豊氏は、このように語ります。「部落解放同盟は、・・・「同和」事業における既得権益を永久に維持するため、なりふりかまわず・・・部落差別の本質は「ケガレ」意識だなどと称し、意図的に現代の政治・社会の動向として分離して、差別の超歴史性・永続性を強調する」。

藤野豊氏は、「部落解放同盟」の、①部落差別完全解消より、同和対策事業・同和教育事業をはじめとする利権追求を優先する体質、②近代部落差別成立に対する国家・権力の責任を免罪し、抽象的な「ケガレ」意識に収斂させる問題解決能力の欠如、③部落差別の歴史性・時代制約性を否定し、「超歴史性・永続性」を主張することで、部落差別の温存に貢献するという矛盾性・・・、をえぐり出します。

「日本共産党や部落解放同盟の「御用研究者」」と藤野豊氏を類比してみるに、「日本共産党や部落解放同盟の「御用研究者」」は、いわば、ガンの宣告を受けた患者を前に、鎮痛剤を打つか、なすすべもなく患者に対する治療を放棄する、そして精神的ななぐさめだけを語る内科医にたとえられます。一方、藤野豊氏は、ガンを克服するためには、対象療法では効果なく、最悪の結果を迎えることになるので、血を流すことは見るにしのびないかもしれないが、切開手術をし、ガン組織をとりのぞかなければならないと考える外科医にたとえることができます。

無学歴・無資格、しろうと学でしかない筆者にとっては、「日本共産党や部落解放同盟の「御用研究者」」のことばより、藤野豊氏のことばの方がよりよく理解できます。「そうだ、その通りである・・・」、と。

藤野豊氏は、「部落差別の本質」を「ケガレ意識にありとする主張」を、「歴史学研究とは無縁のもの」、「部落解放運動が獲得した権益を、被差別部落を取り巻く社会状況の変化に関係なく永続化しようとする、現実主義に立脚した運動の論理」でしかないと断言します。

そのような「主張の背景」には、「部落差別は政治や社会の変化とは関係なく超歴史的に存在するといる論理」があるといいます。・・・、このことは、部落解放同盟や、その「御用研究者」たちにとって、部落差別問題は、完全解消の対象ではなく、国家・権力・社会から既得権益を永続化させるための手段に過ぎないということを意味しています。つまり、部落解放同盟と、その「御用研究者」たちは、部落差別の継承を願いこそすれ、部落差別の完全解消などつゆも望んでいないということを意味します。

部落解放同盟は、近代中央集権国家によって、「特殊部落民」とラベリングされてきた被差別部落大衆にとって、反差別の共闘者ではなくて、差別の推進者に転落する可能性のあることを示唆しています。

藤野豊氏は、『部落学序説』の筆者が指摘する<賤民史観>(沖浦和光の主張する史観)という概念こそ使用していませんが、まさに、「日本共産党や部落解放同盟の「御用研究者」」によって、捏造・構築されてきた<賤民史観>を批判・否定していると思われます。

しかも、藤野豊氏は、「人権」という言葉すら批判的に言及します。

藤野豊氏は、「わたしたちは、「人権」の名のもとに、部落解放運動を美化し過ぎてきた。」といいます。

その後、「日本共産党や部落解放同盟の「御用研究者」」が、藤野豊氏に対して、どのように接してきたのか・・・、想像することは難しくありません。

藤野豊氏の水平社運動史研究は、「<現実>主義に立脚した運動の論理」でなく、「社会<思想>史的研究」でしかないと・・・。それは、<現実>と<思想>を逆立ちさせた、藤野豊氏に対する非難・中傷でしかありません。

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