2021/10/03

キリシタン弾圧問題をめぐる外交の一断面

キリシタン弾圧問題をめぐる外交の一断面

『部落学序説』は、基本的には、歴史学、社会学・地理学、宗教学、民俗学を基礎科目とし、その他に政治学、法学、文化人類学等を補助科目とすることは繰り返しのべてきましたが、賢明な読者の方はすでにお気づきのように、この『部落学序説』の背景には、「解釈学」的考察があります。

筆者の本業は、宗教家ですので、当然、教典に対する「解釈」というのは、日常の営みの中で避けて通ることができないものです。

筆者は、宗教教師といえども、無学歴・無資格の「ただの無学な人」ですから、「解釈学」の学者・研究者のような厳密な解釈を行うことはできません。しかし、毎週、教典の解釈をその職務とする関係で、「解釈学」の学者・技術者足らずとも、「解釈学」の職人足らんとして、日夜自己の研鑽に勤めているのです。そのためか、『部落学序説』という、筆者の専門外の分野について視野を開かんとするとき、意識・無意識を問わず、『部落学序説』執筆に際して、この「解釈学」の影響がにじみでてきます。

教典というのは、どの宗教も同じですが、それに関する歴史資料は極めて少ないのが現実です。教典以外の歴史資料をもとに教典の本質を描ききることはほとんど不可能でありましょう。そこで、極めて少数の歴史資料に加えて、教典の中から学問的に抽出された歴史資料や伝承に関する批判検証を通じて、教典の背後にある歴史を描こうとします。

その際、解釈者が教典に接するとき、その前提となる解釈者の「前理解」をできるかぎり明らかにして、「前理解」から自由になる必要があります。そうしないと、文献に解釈者の思想や真情を「読み込む」のに留まって、文献から文献が伝承している真実を「読み出す」ことに失敗するからです。

解釈者は、自己の「前理解」だけでなく、他者の「前理解」も批判検証の対象にします。

「前理解」というのは、研究対象を批判検証するに先立って、解釈者が意識的・無意識的に身につけている予見・経験であるといってもいいでしょう。研究対象に解釈をほどこすとき、この予見・偏見・経験が大きくじゃまをするのです。

以前、島崎藤村について触れましたが、島崎藤村が『破戒』を書くに至った動機を、島崎藤村の生涯の歴史(物語)を視野において、『破戒』を批判検証しないと、島崎藤村を差別者と断定し、『破戒』を差別文書とみなし、批判攻撃するだけのつまらない見解に陥ってしまいます。運動団体や、運動団体と連動する学者・研究者・教育者によって流布された教説は、島崎藤村の『破戒』の本質を明らかにする大きな障碍となってきました。

青山学院大学助教授であった関田寛雄は、「解釈に際して、自分を透明にすることの大切さ」を訴えていましたが、「教典」や「文献」を前に、「自分を透明にする」、「己を空しゅうする」ことは、とりもなおさず、解釈学上の「前理解」を自覚的に取り扱うことを意味しています。

前項でも触れましたが、近代部落差別を語る際の原点として、部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究者・教育者・運動家の多くは、明治4年の「太政官布告第61号」を金科玉条のごとく取り扱います。その姿勢は、まるで、国民のよりどころは日本国憲法である・・・と信じている人々と同じように、被差別部落民のよりどころは、明治4年の「太政官布告第61号」=明治天皇の聖旨である・・・と信じているように見られます。

今日、どの宗教団体・宗派においても、その教典に対する批判検証は徹底してなされているのではないかと思いますが、こと「部落解放運動」においては、明治4年の「太政官布告第61号」は、批判すべからざる「不磨の大典」と同等の扱いになっているのです。

一宗教家である筆者は、戦前の水平社運動、戦後の部落解放運動は、この明治4年の「太政官布告第61号」を教典ないし教説・信条とした「宗教団体」の「宗教活動」のように類比することができると思うのです。

幕末・明治を生き抜いた山口県出身の著名人に島地黙雷がいます。彼は、周防国の浄土真宗の寺院に生まれ、のち浄土真宗の僧侶になった人ですが、西本願寺に所属し、真宗と日本の近代化について多くを論じ「明治宗教史に大きな足跡を残した」(岩波近代思想体系『宗教と国家』)人です。

彼は、浄土真宗門徒として、またその指導者として、日本全国津々浦々の浄土真宗門徒(旧穢多を含む)に大きな影響を与えたのではないかと思います。

島地は、キリスト教を「祅教」とよび、浦上のキリシタンを「邪徒」と呼びます。そして、彼らの信仰を許しておけば、「国家の禍害」になるというのです。なぜなら、島地の目から見た、浄土真宗の僧侶の目から見た日本国民(天皇の赤子)は「愚民」でしかなく、彼等を導くものなくば、「祅教ノ中ニ駆リ、其生ヲ流離ノ際ニ終ラシムル」ことになるというのです。島地は、「毒(キリスト教)ヲ逐ニ毒(浄土真宗)ヲ以テ」行うことを主張するのです。「新しい時代にふさわしい国民教化政策を推進するためには、仏教こそが積極的な役割を果たさなければならない」(『宗教と国家』)と主張するのです。

島地は、「臣以為ク、政教ノ相離ルベカラザル、固ヨリ輪翼ノ如シ。政権已ニ上ニ有リ、教柄豈独リ下ニ属スベケンヤ。」と主張します。明治臣政府の神道一辺倒を批判して、このようにいうのです。明治という新しい時代は、政教一致の政治が行われなければならない、そのためには、神道だけでなく、仏教・儒教も神道と同じ位置づけが保証されなければならない、政治と宗教が一丸となってことになあたるとき、「祅教何ノ日ニカ防グコトヲ得ン」というのです。

歴史家の中には、島地黙雷を近代日本において、最初信教の自由を説いた人物であると評する人々も多々おられるようですが、島地黙雷の信教の自由論は、浄土真宗が明治新政府の中に重要な位置を占めるために、同じ、信教の自由が保証されなければならないキリスト教を「祅教」とみなして排除する、非常に屈折した内容をもった信教の自由論・・・、極限すれば、その名に値しない説を説いていたのです。

島地黙雷の教説は、日本全国津々浦々に存在していた善良なる浄土真宗門徒であった、禁制幕藩体制下の司法・警察である「非常民」であった「穢多・非人」に対しても、大きな影響を与えていったと思われます。明治新政府が浄土真宗を取りたてる以外に「防邪ノ術他ナシ」とする教説は、キリシタン弾圧に関与した、宗教警察を兼務していた「穢多・非人」にとっても、キリシタン弾圧に関与することを正当化するこころのよりどころとなっていったのではないかと思います。

近代天皇制国家建設にかかわった政治家・教育者・宗教家・・・・等に共通して見られるのは、「愚民論」です。彼等は、諸外国から、その政策を批判されると、最終的には、国民が「愚民」であることを根拠にやむを得ない措置であると弁明するを常とします。

筆者は、学歴も資格ももっていないただの人ですから、当然、外交問題については、直接、自分の目で見て、耳で聞いて、肌にふれるような形で直接的に認識することはできません。筆者の「日常」生活の中では、外交問題は、ほとんど視野の外にあるといってもいいでしょう。

しかし、歴史の流れ、時間の流れというのは不思議なものです。ふつうの国民が、かつて、決してみることがなかった外交文書や関連文書を見ることができるようになります。時の流れが、古き時代の文書を運んでくるのです。外交文書は、「極秘」扱いにされている場合がほとんどですが、外交は、日本と相手の国があってはじめて成立します。その相手の国によって、かつて「極秘」扱いされた文書が、誰の目にもつく形で公開されるということもしばしばあるのです。

『密約外交』(中公新書)の著者・中馬清福は、その「はじめに」でこのように語ります。「他国にはもちろん、おたがい自国の民にも隠しとおすのが密約の密約たるゆえんだ。なんらかの理由で表に出ないかぎり、密約は闇から闇へと引き継がれ、いまなお、息をこらしながら出番を待っているものものある」。日本は、幕末から今日まで、その外交において「かなりの数の密約を交わしてきた。」といいます。それらは、「専門家でないかぎり、ふだんそれを目にすることはほとんどない。」というのです。

『宗教と国家』に収録されている《浦上キリシタン弾圧に関する対話書》・《アダムス書簡における岩倉の天皇制見解》という文書をみると、明治初期のキリシタン弾圧問題が、明治新政府にとって、いかに大きな困難に直面させたかをうかがい知ることができます。イギリス・アメリカ・フランス・ドイツの外交官と明治新政府の朝臣(官僚)との間で交わされた議論は、手に汗を握るほど緊張に満ちたものです。一度目を通す価値があります。本音でキリシタンを弾圧していながら、それは弾圧ではないと糊塗する明治新政府の朝臣(官僚)に対して、欧米4カ国の外交官は、正面きって議論します。

明治新政府の浦上の「キリシタン」に対する弾圧は、弾圧ではなく、「寛大な措置」であったことを強調します。日本の社会の治安維持の都合上から生じた施策であって、欧米各国が主張するような迫害では決してないというのです。明治新政府がキリスト教を禁止するのは、浦上の村民の「不法行為」を取り締まるためのやむを得ざる「処分」であり、国家に対する「反逆」に関する「内国問題の処置」に過ぎず、この問題と処置について「外国の意見に任せるわけにはいかない。」といいます。明治新政府は、浦上のキリシタンたちが、「仏壇や位牌、神棚やお札」を家から取り除く行為は、「ミカドに対する侮辱の心を表白するもの」であり、国家に対する反逆に匹敵するというのです。

明治新政府の本音と建前を使い分けた弁明は、欧米各国の外交官に通じるはずもなく、イギリスの公使・パークスは、明治新政府の多弁にもかかわらず、「私どもは浦上のキリスト教徒排斥の動きは全く宗教上の偏見に根ざしたものでという印象を抱きました。浦上村民は、不幸にも日本と条約を締結しているその列強の宗教を信奉するという理由から、処罰を受けているわけでこれはこれらの条約締結国を侮辱するものです。今までの方針に固執する前に、一度よく熟考されることをお願い申し上げたい。・・・これ以上列強を侮辱し続ければ、我々と貴国の間に容易ならぬ紛争(戦争)が予想されます。」と言明するのです。

その会談が影響して、明治新政府は、国家権力(司法・警察)による「処分中止」を決定します。しかし、その形式的な決定をあざ笑うかのように、長崎・福江藩郷士による、一家を刀で血の海に染めた、幼児を含むキリシタン5人の惨殺事件が発生するのです。明治新政府は、その事件をもみ消すように命令を出します。

明治元年、告諭の中に見られる、全国津々浦々に司法・警察である「番人」を配置したのは天皇であるとの説諭が流されたとき、明治新体制の中にあっても、司法・警察である「非常民」としての「穢多・非人」の職務を継続して全うすることができると信じていた「穢多・非人」たちに、彼等が思いもよらない形で、明治4年の「太政官布告第61号」公布の日が一歩一歩近付いていたのです。日本の「国辱」である「治外法権」撤廃の条約改正の期日が差し迫る中、明治新政府は、拷問制度やキリシタン弾圧問題を形式的に一挙に解決すべく、明治4年、「太政官布告第61号」を出し、欧米各国が、「日本の犯罪者の探索は優秀・・・」と評価していた司法・警察本体である「穢多・非人」を解体し、禁制幕藩体制下と明治初頭の日本の「原罪」を背負わせて野に放つのです。禁制幕藩体制下の「法」の「番人」として、その司法・警察の職務に忠実に生きてきた、「同心・目明し・穢多・非人・村方役人」は、リストラされ、「役人」の身分を奪われ、「民間」に格下げされるのです。その中でも特に目立ってリストラの憂き目にあったのは、「穢多」身分でした。キリシタン弾圧と拷問の直接的担い手として、国家が負うべき「罪責」を担わされ、スケープゴートとして、野に放たれたのです。

明治政府の重鎮・岩倉具視は、その会談のあとも、欧米各国の外交官と情報交換します。そして、日本国民に向けた言葉の少なさと反比例して、諸外国の外交官には多弁の人となるのです。岩倉は、諸外国の外交官に、明治新政府の政治設計と施策を包み隠さず話をするのです。「岩倉の約束した言葉は、やがて現実のものとなる・・・」という諸外国の外交官の信頼感はかなり強いものがありました。

『宗教と国家』に収録されている《アダムス書簡における岩倉の天皇制見解》という文書は、そのような一場面を伝えています。

岩倉具視は、「キリスト教の信仰の自由は現時点では認められない・・・日本国民一般はキリスト教を好ましからざるものと思っている。・・・キリスト教禁止をとけば、この国に革命をもたらすことになり、禁制の方針をそれまで採ってきた政府は打倒されることになる」というのです。

岩倉具視の言葉の背景には、彼等が「愚民」よばわりする「国民」に対する恐れがあります。「現在国内にはまだ多くの不平不満があることは疑いもない。この近年の変革に被害を受けた人は多く、旧幕復活の支持者は、会津や桑名の者たちがそうであるように存在し、また漢学者や国学者も数多くおり、実際多数の不平分子は、機会があれば人民を煽動し、ミカドの政府を倒したいと考えている。このような政府打倒の機会は、キリスト教信信奉の自由を布告すれば即刻生じてくるであろう」。

岩倉は、そういいながらも、ひとつ気にかかることをイギリスの外交官に尋ねます。「治外法権撤廃の条約改正の席で、このキリシタン弾圧問題はどのように影響するのか・・・」。外交官は、「治外法権」撤廃交渉は、日本政府にとって「困難な仕事」となり、「もし不幸にもキリスト教徒迫害が再びなされた場合には、諸外国政府は抗議を起こす(戦争を示唆)。」と答えるのです。

明治新政府をとりまく、欧米諸国の強固な方針を確認した岩倉具視は、このようにイギリスの外交官に付け加えたといいます。「もし、貴方が貴国政府に私の、この込みいった問題についての発言を報告するのならば、貴国政府に、この発言を極秘条項として扱うべき旨お願いしてほしい」。岩倉具視は、条約改正の旅が失敗に帰する可能性が高いことを認識した上で、条約改正の旅に出るのです。岩倉具視は、うかれはしゃぐ外交団の中にあって、ひとり覚めた思いをもって、条約改正の旅失敗後の国家建設を思案していたのかも知れません。条約改正のためには、手段を選ばない、できることはすべてやってみる・・・、そんな賭が存在していたように思われます。明治新政府によって、嵯峨天皇の時から培われた「常民」・「非常民」の枠組みが根底から覆され、司法・警察である「非常民」(同心・目明し・穢多・非人・村役人)が、その「役人」の身分をとりあげられ「常民」(近代的な意味での平民)に切り捨てられる、そんな時代が間近に迫っていることを知るすべもなく、穢多・非人は、司法・警察という職務に忠実に従っていた・・・、明治4年の「太政官布告第61号」公布前夜を、筆者はそのように受け止めています。

明治4年の「太政官布告第61号」は、禁制幕藩体制下の司法・警察であった「非常民」が身分格下げされ「常民」にされたリストラであったと考えています。近代部落差別は、この明治4年の「太政官布告第61号」からはじまります。日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、この明治4年の「太政官布告第61号」を、「身分解放令」・「賤民解放令」・「部落解放令」・「賤称廃止令」・・・と、まったく逆に認識します。戦前の水平社運動、戦後の部落解放運動の悲惨さは、彼等を近代的差別の奈落にたたきこんだ明治政府・近代天皇制国家を、彼らの「救済者」と錯覚したところにはじまります。「被差別者」が、「差別者」に、「被差別」を哀訴する姿には、限りなく淋しいものがあります。

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