2021/10/01

<まなざし>の字義的解釈

<まなざし>の字義的解釈

「まなざし」とは何か・・・?

2001年佐賀市同和教育夏期講座における、岡山の中学校教師・藤田孝志氏の講演録によりますと、藤田孝志氏にとって、「眼差し」「視線」と同格です。「差別の眼差し」「差別の視線」は相互に入れ換え可能なことばとして使用されています。

『広辞苑』によりますと、「視線」「目で見る方向」をさすことばです。「まなざし」は、「【目差・眼指】目の表情・目つき。まなこざし。」のことです。

『広辞苑』の説明では、わかったようでわからないので、「まなざし」ということばが、何を意味しているのか、少しく検証してみることにしましょう。

前田勇編『江戸語の辞典』をひもときますと、「まなざし」という見出し語はありません。その代わりに、次の見出し語があります。

まなこ【眼】目。
まなこざし【眼差】物を見る目つき。まなざし。

江戸時代においては、「眼差し」は、「まなざし」ではなく「まなこざし」と読まれていたようです。

現代において一般的に用いられている「まなざし」ということばは、「まなこざし」ということばから、その一部「こ」が欠落したことばなのでしょうか・・・?

「まなざし」ということば、本来は、「まなこ」ということばと「さす」ということばが結合されて作られたことばのようです。

森田良行著『基礎日本語』(角川小辞典)によりますと、「さす」ということば、漢字で「差・射・指・刺・挿・注」という字があてられるそうですが、和語の「さす」ということばが多義的に使用されていたことを物語っています。

森田良行氏、漢字の「差・射・指・刺・挿・注」の意に拘束されないで、和語の「さす」ということばのもっている意味をこのように説明しています。

「ある事物を他の領域へ入っていくように向ける。向けて進ませる。その”事物”と、向かっていく”領域”とによって「さす」の内容が細かく分かれる」。

森田良行氏、「さす」の意味を大きく4つに分類しています。

しかし、「まなこざし」ということばの意味を考える上で、もっとも適切な意味は、3番目の意味です。

「・・・ハ・・・デ・・・ヲさす」(他動詞、意識的)

「さされる対象を「を」格で示し、さす手段・道具を「で」格で示す。「AハCデBヲさす」形式。さす主体はあくまでAで、Cは、特に言う必要がなければ文面に表さない。・・・ある目的達成のため、・・・もの(C)で相手(B)の中に強く食い込ませる行為であるから、さす行為に目的があるのではなく、さした結果に目的が置かれる。さすことによってBの状態に変化が生じるのである」。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏が、その講演で使用している「眼差し」ということばは、この用法で使用されています。

藤田孝志氏によりますと、「眼差し」とは、「部落外」(A)に属するひとびとが、その「眼」(C)で、「部落」(B)に属するひとびとを、「蔑む」ために、「さす」行為を意味します。藤田孝志氏の表現では、「蔑みの眼差し」ということになります。

藤田孝志氏によりますと、その「蔑みの眼差し」の背景に、「500年間」、昔も今も存在し続け、「500年間、何ひとつとして変わっていない・・・差別意識」が存在しているのです。その「差別意識」「500年経ってもまだ変」わることなく、日本の社会・民衆の精神や文化の「底流」に流れ、それぞれの時代にそれぞれの時代の「差別の表出形態」をとって噴出してきた・・・、というのです。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏、「500年間」と言い切ったわりには、その講演の中で、なぜ、500年前に、日本の社会・民衆の中に「差別意識」が芽生えたのか・・・、説明は一切されていません。藤田孝志氏をはじめ、日本の小・中・高の学校教師の方々にとっては、この「500年間・・・」という表現は、あえて説明する必要がないほど、自明の理なのでしょうか・・・?

無学歴・無資格、教育学・歴史学、同和教育・部落史学習の門外漢である筆者にとっては、藤田孝志氏のこの表現、とても違和感を抱いてしまいます。

500年前は、日本の社会や民衆の中には、とりあげていうほど、「差別意識」は存在していなかったのでしょうか・・・? ある日、ある時、500年前に、突如として発生した「差別意識」、それは、日本人の精神文化を蝕み、今日に到るまで、「蔑みの眼差し」を生み続けている・・・。

藤田孝志氏によりますと、「部落外」の一般のひとびとは、「部落」の被差別部落の人々に対して、「蔑みの眼差し」を向け続け、被差別部落の人々のこころの中に、深く・強く被差別意識を「食い込ませる行為」をしていることになります。差別者は、眼でもって、被差別者のひとみの奥にあるそのこころを傷つけている・・・。

藤田孝志氏が指摘する、「部落外」「部落」に対して「眼」でもって「さす」行為・・・、無学歴・無資格、民衆のひとり、近世幕藩体制下の百姓の末裔でしかない筆者の目からみますと、その「まなざし」は、あまりにも、「部落外」・「加差別者」に重心を移し過ぎた<偏狭>な解釈ではないかと思われます。

なぜなら、岡山の中学校教師・藤田孝志氏の「眼差し」理解には、藤田孝志氏が力説する、差別と被差別の間の関係性が、中途半端にしか反映されていないからです。

次回、岡山の中学校教師・藤田孝志氏のその個人史における「差別意識」「まなざし」について検証してみることにしましょう。

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