2021/10/06

はじめに

 はじめに

この論文は、既存の個別科学研究に拘束されず、歴史学、社会学・地理学、民俗学、宗教学、政治学、法学、行政学等の学際的研究として、永年の試行錯誤の上に達成された、部落差別問題に関する新しい認識を提示します。

民俗学の創始者・柳田国男は、「常識という言葉ほど私を悩ませたものはない」といいます。個別科学研究における常識としての一般説・通説も、常に、研究に携わるものの悩みの種になります。常識を超えて発言するとき、常識はずれであるとの批判を免れません。

部落差別問題の場合も、この常識や通説がひとり歩きして、部落差別の解消実現への大きな足枷となってきました。

戦後の部落史研究のはやい時期に、この常識や通説の見直しがなされていたら、部落差別問題は、その淵源があきらかにされ、部落差別はとっくの昔に解消されていたことでしょう。なにしろ、部落差別解消のために、33年間15兆円という膨大な時間と費用が注がれ、それ以上に多くの人々が動員されたのですから・・・。それにもかかわらず、同和対策事業が終了した今日においても、未だに、部落差別事件が発生し、そのことで悩み苦しむ青少年がいるということは、33年間の同和対策事業及び同和教育事業が瑕疵のある常識や通説を取り除くことができなかったことを意味します。

筆者が提唱する部落学は、日本の社会を部落差別に拘束する常識や通説を取り除くことを目的としています。

部落学は、2、3の部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者によって、それぞれの立場から提唱されてきてはいますが、いずれも学として確立されているとはいえません。むしろ、いずれの部落学構築も様々な困難に直面しその壁を突破できないでいるといっても間違いではありません。

この部落学序説は、部落学構築に先立って、部落学構築の前提と可能性を批判的に検証します。これまで、部落研究・部落問題研究・部落史研究によって認定されてきた常識および通説も、あらためて、批判・検証の対象になります。部落差別の根源について、多くの学者・研究者・教育者が、徹底的な批判・検証が必要であることを認識しています。

明治以降積み重ねられてきた部落差別に関する史料や伝承は、皇国史観や唯物史観の背後にある共通の史観・賤民史観から解放されて、正当な解釈がなされることを求めています。

この部落学は、解釈原理として、(1)常民・非常民論、(2)新けがれ論を採用しています。いずれも、従来の部落研究・部落問題研究・部落史研究では、とりあげられたことがない理論です。無学歴・無資格の筆者が創設した理論が、どれだけ人々によって受容されることになるのか、まったくの未知数ですが、単なる学際的研究としてではなく、ひとつの新しい総合科学としての部落学は、従来の個別科学研究がなし得なかった、部落差別に対する体系的な分析と総合を可能にしてくれるでしょう。

総合科学としての部落学は、日本の社会を薄暗い差別の中に閉じ込めた、日本の歴史学に内在する差別思想である賤民史観を批判の対象にします。部落学序説は、既存の被差別部落に関する史料・伝承のテキスト批判として遂行されます。決して、被差別部落の人々やその運動団体、また彼らに支援と連帯を主張している、学者・研究者・教育者・運動家・政治家等のことばとふるまいを直接批判するものではありません。

部落学序説の筆者である私は、日本の社会が、この差別思想である賤民史観から解放されて自由になる日、その日が部落差別完全解消の日であると思っています。賤民史観は、「差別する人」・「差別される人」・「差別させる人」、すべての人の精神の奥深くに根を張っています。差別者・被差別者、それぞれの課題として、賤民史観を粉砕・打破するために課題を共有し、共闘していかなければ、日本の社会から部落差別を取り除くことはできないでしょう。差別思想である賤民史観からの解放は、隣人や他者だけでなく、私たち自身をも、賤民史観から解放し、愚民としてではなく、賢民として生きることができる可能ならしめるのです。

差別者のうえにも、被差別者のうえにも、差別なき社会が実現するよう、祈りをこめて、無学歴・無資格・無能力をも顧みずこの部落学序説を執筆します。

文責と著作権について

文責と著作権について

●文責について

『部落学序説-「非常民」の学としての部落学構築を目指して』の文責については、すべて、筆者である吉田向学個人にあります。

●著作権について

この論文作成のための費用については、すべて筆者個人の負担です。いかなる団体や組織からの援助・支援を受けていないことを明記しておきます。当然、この論文の著作権は、筆者個人に帰属します。

●「吉田向学」とは

吉田向学は、Google Bloggerで、ID・パスワード・メールアドレス等で特定された契約者(吉田光孝:吉田向学の実名)と同一視されます。 

ある聞き取り調査

昔、ある被差別部落の聞き取り調査に同行したことがあります。

その被差別部落は、山口県北部の寒村にありました。その村の南に位置していて、その被差別部落に立つと、門前町として栄えた街並みと、それを貫く川や街道を眼下に一望することができました。その被差別部落は、どこか、その村全体をその高台から見守っているような感がありました。

被差別部落の聞き取り調査に同行を求められた私は、訪ねる先が、かって、山口県の郷土史研究の論文の中に「穢多屋敷」のあった場所として古地図を添えて紹介されている被差別部落であると知って、その依頼を快諾しました。

その聞き取り調査は無事終了しましたが、そのとき被差別部落の古老からある話をお聞きしました。その話は、聞き取り調査のあと、時が経過するに連れて、記憶から薄れていくのではなく、筆者の脳裏に深く刻み込まれて行きました。その被差別部落の古老の話は、学校同和教育や社会同和教育で教えられている内容とはまったく異なる、どちらかいうと相反する内容を含んでいたからです。

私は、その古老の話を歴史的に検証してみたくなって、10年間、隣市にある徳山市立図書館の郷土史料室に通い続けました。しかし、学歴を持ち合わせていない私にとって、その作業は簡単ではありませんでした。歴史学、社会学、民俗学・・・、作業に必要な知識や技術は、その都度、時間をかけて自分のものにしなければなりませんでした。

幸いなことに、大学教授の中には、研究の成果だけでなく、その研究方法に関する知識や技術についても執筆される方がおられます。私は、しろうとにも、その研究方法をやさしく解説している『歴史学研究法』・『地方史研究法』・『民俗学の方法』・『民俗探訪事典』などから多くのことを学びました。

徳山市立図書館の郷土史料室の蔵書から学んだことは、時々、調べた内容を他の人に話したのですが、筆者の話を聞いたひとの反応はほとんど同じでした。「それは通説に反している・・・」、「たとへ歴史の事実であったとしても、それは長州藩だけの例外事項に過ぎない・・・」、「それは、何々教授がすでに否定している・・・」という、ほとんど否定的なものばかりでした。

しかし、私は、徳山市立図書館の郷土資料室の史料や論文を調査するにつれて、いつのまにか、「被差別部落の古老の話は、歴史的に真実である」と確信するようになりました。

そして、最近五年間は、約10年の歳月をかけて収集してきた、徳山市立図書館の郷土史料室にある史料・資料と、国道2号線沿いにある宮脇書店等で入手した若干の雑誌・書籍を整理・分析して、それを、筆者固有の視点・視角・視座から体系化することを試みてきました。

既存の学問で検証することができない事柄に対応するには、それに相応しい、新しい学問が必要であると思うようになり、「部落学」構築を意識するようになりました。

もう少し若ければ、更に研究を積み重ねて、完成した「部落学」を提示することができるのですが、私に残された時間はそんなに多くはありません。団塊の世代のまっただなかに生まれた私は、あと数年で定年です。といっても、今既に定職もなく、時間講師などで糊口をすする身ですが、与えられた条件下での最善の試みは、「部落学」構築の前に、「部落学」構築に必要な序説、『部落学序説』を書くことであると確信するに至りました。筆者が執筆を予定している「部落学」は、『部落学序説』で、部落学固有の研究課題と部落学固有の研究方法をあきらかにした上で、執筆にとりかかってもいいのではないかと思うようになりました。

予定している『部落学序説』の論文構成は以下の通りです。

まえがき
第一章 部落学固有の研究対象
第二章 部落学固有の研究方法
第三章 「部落」の定義
第四章 「太政官布告」批判
第五章 「水平社宣言」批判
第六章 「同対審答申」批判
第七章 部落差別完全解消への提言

被差別部落のある古老の話

 被差別部落のある古老の話

ある被差別部落の古老の家を訪ねたのは冬でした。

私たちは居間に通され、古老から話を聞くことになりましたが、話をしてくれたのは、実は、おばあさんだけで、おじいさんは廊下を隔てた隣の部屋で私たちに背を向けて座っていました。私たちの話を聞いているようでもあり、聞いていないようでもありました。

私は、ある部落史の研究家の実施した聞き取り調査に同行しただけなので、彼と被差別部落のおばあさんの話を横で黙って耳を傾けながらメモをとっていました。おばあさんは、彼と話をしながら、私たちのためにお餅を焼いてくれました。何個たべたでしょうか、満腹感が漂ってきたころ、私は、私たちが話をしている居間を見回しました。そして、壁にかけられた一枚の写真を見つけたのです。

その写真の人物は、坂本竜馬などの幕末の志士のような姿をしていました。

「誰なのだろう・・・」と思いながら、記憶を何度もたどってみるのですが、思いあたる人物がいません。

あたまには髷と月代があり、腰には刀を差しています。その顔の表情は、とても厳めしくて、警察官か検察官のようなするどい眼光をしていました。

私は、彼とおばあさんの話を遮って尋ねました。
「あの写真の人は誰ですか」。
すると、おばあさんは間髪を入れず返事を返してきました。
「あの写真は、私たちの先祖です」。
私は思わず、「ええ! おばあさんの先祖って、武士だったのですか?」と大きな声を出してしまいました。おばあさんは更に続けました。
「ええ、そうです。私たちの先祖は、江戸時代三百年間に渡って武士でした。しかし、明治の御代になって差別されるようになりました。差別されるようになって、たかだか百年に過ぎません」。

すると廊下を隔てた隣の部屋で、私たちに背を向けて黙って座っていたおじいさんが、突然、「見ず知らずの人にそのようなことを話すべきではない」と一喝されました。一瞬、寒村の雑木林の中を吹き抜けていく木枯らしのような風が私たちの間をすり抜けて行きました。

聞いてはならないことを聞いたのかもしれないと思った瞬間、おばあさんが、おじいさんにすぐ言葉を返しました。「差別する人は、黙って私たちを差別します。しかし、この人たちは、私たちの話を聞きたいと遠路私たちを尋ねてくださった。そういう人に悪い人はいないと思いますよ。私は話を続けますよ」。おばあさんは、そういいながら、すぐに研究家との話に戻って行きました。

その後、居間に掲げられてあった写真が話題にのぼることはありませんでした。

聞き取り調査がまあまあ無事に終わって、時が経って行きましたが、私は、そのときの被差別部落の古老の家の居間に掲げられていた一枚の写真と、おじいさんとおばあんさんの両者の姿を忘れることができませんでした。というより日ごとにその日の出来事が鮮明に私の脳裏に深く刻み込まれていったのです。

被差別部落のおばあさんは、私たちと向かい合って話をし、そのおじいさんは、最初から最後まで私たちに背を向けて座っていました。おじいさんとおばあさんの対照的な姿は、今でも鮮明に思い浮かべることができます。

1枚の写真をめぐる被差別部落の古老の話は、部落史や部落問題の常識・通説とされている事柄とはまったく逆のことを物語っていました。部落問題の入門書や啓発書に書かれている内容、学校同和教育や社会同和教育で教えられている内容とはまったく正反対でした。一般的には、「私たちの先祖は、江戸時代三百年間に渡って差別されてきました。しかし、明治の御代になって解放令が出され、被差別身分から解放されました。しかし、多くの国民はそのことを理解できず、私たちを差別し続けたので・・・」と言われるが、私たちが聞き取り調査をした被差別部落のおばあさんは、まったく逆のことを証言していたのです。明治の御代になって差別から解放されたのではなく、明治になってから差別されるようになったと。

その村の被差別部落と言われている場所は、長州藩の牢屋があった場所です。

被差別部落の古老の家は、代々、その牢屋の役人を勤めた家系です。被差別部落の古老は、長州藩の武士として藩主に仕えてきた歴史をずっと忘れずに記憶し続けていたのです。おばあさんは、聞き取り調査の終わりをこのような言葉で結びました。

「あなたたちがもう一度尋ねてくださるとき、私たちは生きているかどうかわかりません。もし、いなかったら、私の娘を尋ねてください。私たちの先祖の歴史は、残らず、娘に伝えてありますから」。そう言って、娘さんの名前と住所、電話番号を教えてくださいました。

私は、被差別部落の古老が話してくれたことがらを歴史の資料を用いて検証しようと思うようになりました。

被差別部落には、「言葉化されている」ことがらと、「言葉化されていない」ことがらがあると認識しました。そして、どうしたら、被差別部落の古老が語ったことを歴史の真実として認識することができるのか、どうしたら、被差別部落の古老のこころに、おばあさんだけでなく、おじいさんのこころにも寄り添うことができるのか、考えるようになりました。そして、そこに至る道を探しはじめた。探しても見つからないことが分かったとき、その道を造り出すことを決めました。

通うようになった地方の小都市の市立図書館といっても、その史料の数は膨大です。郷土史料だけでなく、一般の歴史資料を含めると、全部読み尽くすことはできるはずもありません。学歴も資格も持ち合わせていない私には、途方もない時間と労力を要すると思いました。

しかし、あるとき思うようになったのです。山口県北の被差別部落の古老との出会いも偶然なら、それを証明する史料や文献との出会いも偶然でいいではないか。入手できる資料、手にとって目にすることができる資料、それだけを用いて、被差別部落の古老のこころに通じる道を切り開いて見よう・・・、と。

被差別部落の古老との出会いから15年・・・。
無学な故に、多くの時間を費やさざるを得ませんでいたが、このブログ上で公開する『部落学序説』」が完成した日、私は、それを本にして、再度、あの被差別部落の古老を尋ね、お話をお聞きしたいと思っています。

2021/10/05

浄土真宗の寺を尋ねて・・・

浄土真宗の寺を尋ねて


「研究者」と私は、被差別部落の古老の家を訪ねる前、その村の浄土真宗の住職を尋ねました。その住職に、その寺の門徒の中に、被差別部落の門徒がいれば紹介してもらうためでした。


その浄土真宗の寺は、南北に伸びた門前町の南の側に位置していました。時代をしのばせる門をくぐると、浄土真宗の部落差別問題との取り組みを示す「同胞運動」に関する文字が目に飛び込んできました。殺風景な冬枯れの境内にあって、その文字はひときわ大きく目立っていました。

居間に通された私たちは、住職から質問されます。
「何のご用でしょうか・・・」。

そのとき、聞き取り調査の同行を求めてきた研究者が、あらかじめ会見の約束をとっていなかったことを知りました。へたをすると、何の話も聞けず、聞き取り調査も失敗に終わる可能性がある・・・と思って、焦りににた思いを持たざるを得ませんでした。

聞き取り調査をするときには、それなりの「礼儀」が必要です(私には、突然、浄土真宗の寺を尋ねて、その門徒の中にいるかもしれない被差別部落のひとを紹介してもらうという発想はありませんでした・・・)。

会見の予約をとることもそうですが、調査に先立って、あらかじめ、歴史資料や文献を漁って、既に公表されている情報は、あらかじめ予備知識として持っておく必要があります。そうしないと、尋ねられる方も、思いつきで聞き取りをされたのでは、何をどう話していいかわからず、結果、通り一遍の話を聞くに終わってしまう可能性が大きいのです(後日、筆者は、研究者と周防国東穢多寺を尋ねましたが、そのときの聞き取り調査は、住職が業者に頼んで作ってもらったという系図と歴史に関する資料をみせられました。近世の「穢多寺」であることを一切触れることのないその系図と歴史は、差別的な聞き取りを回避するための住職の苦肉の策だったのでしょう。そのときの聞き取り調査に、研究者は満足しておられましたが、筆者は、きわめて不満足でした・・・)。

聞き取り調査に際して私がいつも目を通す書物に、井之口章次著『民俗学の方法』(講談社学術文庫)であります。文庫本なので、誰でも手軽に入手できます。

山口県北部の寒村にある被差別部落を尋ねたときにも、私は、あらかじめ、徳山市立図書館の郷土史料室を尋ねました。そこには、山口県の寺院に関するいろいろな資料が保存されていますが、その中に寺院に関する総合的な調査書があります。表紙はボロボロで、何度も補修をしたあとがみられます。おそらく、多くの人がこの資料を手にしたのでしょう。

その資料には、私たちが尋ねる寺に関する記載もありました。

しかし、その内容は、他の寺の内容と違って、いたって簡素なものでした。文書量も少なく、「記録等一切なし・・・」という記述が目立ちます。調査員の質問に対して、当時の浄土真宗の寺の住職はそのように答えたのでしょうか・・・。調査員は、「資料がなければ、口頭でもいいから話を聞かせてほしい・・・」と申し出たと推測されますが、それに対しても、「一切知らざるか不語・・・。」と書きとどめています。

寺の住職が、その寺の歴史や由来を知らないはずはありません。たとえ火事で消失するようなことがあったとしても、寺の重要な書類は、他の寺院に別途複写を保管するのが一般的な習わしですから、「記録等一切なし」というのは、調査員が、住職から、必要な事項を聞き出すことができなかったということを意味しているのでないかと思いました。

私は、慎重に言葉を選びながら、被差別部落の人々に聞き取り調査をする意味を伝えました。住職は、私たちの気持ちを少しく察してくださったのか、いろいろと話をしてくれるようになりました。少し、雰囲気が和らいだころ、「研究者」は、「この寺の過去帳を見せてください」と住職に求めました。返ってきた答えは、「この寺には過去帳はありません。火事で喪失しました」というものでした。

私は、その寺の調査記録に記されていた「記録等一切なし・・・」という言葉を思い出していました。

住職は、過去帳の話に触れないように話題を変えて、山口県の被差別部落が直面している現実について話をはじめられました。住職は、「山口県では、他の県に先駆けて、高齢化と過疎化が進んでいる、社会同和教育で、よく、「被差別部落があるから差別がある。被差別部落がなくなれば差別はなくなる」ということが言われるが、そんなに簡単なものではない」といいます。

住職の話では、その寺にも、門徒の中に、被差別部落の人がいるし、いくつかある、その寺の下寺(末寺)にも少なからぬ被差別部落の門徒がいるというのです。ある被差別部落は、高齢化と過疎化が進み、最後の家がその被差別部落を後にして出ていったそうです。ひとつの被差別部落が消えてしう。それは、いいことかというと、決してそうではない。なぜなら、この地方にあっては、被差別部落の人々は、そうでない人々と、いつの時代にも共に生きてきたという現実があるというのです。江戸時代も明治になってからも、差別したりされたりという関係ではなく、共に生きてきたという現実がある、だから、被差別部落がなくなるときは、被差別部落だけでなく、村全体がなくなるときだ・・・というのです。

浄土真宗の住職は、被差別部落がなくなり、その村がなくなり、最後の門徒が出ていくのを見届けない限り、その寺を離れることはできないといいます。

私の過去の経験では、浄土真宗の住職は、誠実な人が多いと思います。
真摯に問いかければ、真摯に答えてくださるのです。

住職は、奥から帳面を出してきて、「この村には、誰々が被差別部落の人で、この村には、誰々が被差別部落の人である・・・」と、具体的な村名と姓名をあげて話を進められました。研究者の「過去帳を見せてください」という要望に、別な形で応えてくださったのでしょう。

しかし、途中、住職がお茶を入れるために席を立ったとき、「研究者」が、私の耳元でそっとささやきました。「今の住職の発言は差別発言ではないか。彼は、被差別部落の人の名前を列挙している。これは、差別になるのではないか。住職は差別していると指摘して、この話を止めさせようか・・・」というのです。

私は、研究者に耳打ちしました。「住職は差別していない。被差別部落出身の門徒の通婚圏について話をはじめている。貴重な話をしてくださっているのだから、黙って聞いていよう・・・」。

話が一段落したとき、住職は、その寺の由緒を示す仏像や古文書を片づけ、「この寺が被差別部落の人々と共に生きてきた証を見せてあげましょう」といって、私たちを、その寺の後ろにある境内へ連れ出しました。

そして、住職は、墓地の真ん中にある古めかしい墓石を指さしながら、「あの墓が、被差別部落の人々の先祖を祀っている墓です。被差別部落の人々の墓の周りを取り囲むように、村の主な住人の墓が配置されています。」と言われます。墓地の、一段と小高い丘の上に被差別部落の墓石が並び、その周辺に村の住人の墓が並んでいました。それは、不思議な光景でした。そう

非差別の彼岸への旅立ち・・・

 被差別の彼岸への旅立ち


山口県北部の寒村にある、ある「被差別部落」・・・。

それは、「未指定地区」のひとつです。

その「被差別部落」は、江戸時代の史料や、それに関する論文の中には、「穢多屋敷」のあった場所として登場してきますが、明治以降の文献の中には、ほとんど見当たりません。水平社運動にも参加した記録はないし、戦前戦後を通じて、その被差別部落をめぐって、融和事業や同和事業が展開されたという記録もありません。

山口県教育委員会が作成した『山口県同和対策の概要』(昭和39年8月)というガリ版刷りの冊子の中に、「同和関係地区一覧表」や「同和関係地区一覧図」というのがありますが、その「被差別部落」はその中にもカウントされていません。その「被差別部落」は、「特殊部落」・「細民部落」・「未解放部落」という言葉が相応しくない「被差別部落」でした。近世幕藩体制下の「穢多村」がそのまま、時間を飛び越えて現在に息づいているような「被差別部落」でした。

筆者たちが聞き取りをしている間、浄土真宗の住職も、被差別部落の古老も、歴史や部落解放運動の専門用語を一度も口にされることはありませんでした。また、歴史学の学説や部落解放運動のテーゼに触れられるということもありませんでした。彼らは、一般的なごく普通の言葉、自分たちの生活の言葉で、それぞれの思いを話してくれたのです。彼らとの出会いが、筆者のこころの中に深く残っているのは、彼らの語る言葉が、一言一言、江戸時代を三百年間生き抜いてきた、そして明治になってからも、その歴史を捨てず、所与の人生を引き受けて生きてきた・・・、という歴史の重みを持っていたからです。

私は被差別部落出身ではありません。私も妻も、実家の宗教は、真言宗です。「真言百姓」と言われますが、どこにでもいる、正真正銘の百姓の末裔です。

筆者は、部落差別問題にかかわるようになって、はじめて、部落問題や部落解放運動の用語、部落史の専門用語を覚えました。時々、「そんなに熱心に部落差別問題と関わっていると、被差別部落の人に間違われるよ」と忠告を受けたことがあります。宗教教団の中で、部落解放運動をしている上司から、「君、うそでもいいから部落民宣言をして私たちの仲間にならないか・・・」と誘いを受けたこともあります。部落解放運動の世界では、「差別」と「被差別」の敷居はそんなに高くないらしい・・・、とそのとき、はじめて知りました。
 
しかし、あの浄土真宗の住職や被差別部落の古老の語る歴史の重みを考えるとき、「差別」と「被差別」の間は、被差別部落出身の部落解放運動家が安易に考えているように、その境界を簡単に飛び越えることができるたぐいのものでないことに気づいていましたから、筆者が所属している宗教教団の「上司」の誘いにのることはありませんでした。。

部落差別問題に関わるようになって、何の懸念も持たなかったわけではありません。部落差別問題に関わるようになって、同じ宗教教団に属する教師や信者の間の人間関係がぎくしゃくしてきたし、筆者が所属している「分区」の上司からは、様々な場面で、露骨に、疎外・排除されるようになっていったからです。度々の嫌がらせに、上司に「殺意」さえ抱いたことがあります。それほど、徹底的な疎外と排除にさらされていたのです。そのとき、筆者は、「ああ、被差別部落の人々は、こんな形で差別を受けているのか・・・」と、被差別部落の人が経験するであろう疎外と排除を「想像」上で追体験して行きました。その上司は、「部落出身者を部落民として差別するのはいけないが、部落出身者でないものを部落民として差別しても差別したことにはならない」と言い放っていました。筆者は、所属する宗教教団の教師を辞めることはしませんでしたが、その「分区」の教師会からは離脱しました。離脱したまま、今日に至っています。

山口県北部の寒村を尋ね、浄土真宗の僧侶や被差別部落の古老から話を聞いたとき、筆者は、「差別」と「被差別」は、厳しく峻別されていて、両者の関係は決してあいまいにすることができないものだ・・・、と思うようになりました。浄土真宗の僧侶や被差別部落の古老から話は、「差別」・「被差別」の關係の厳しさを物語っていました。彼らの語る歴史を前提に考察するとき、ある意味で、「差別(真)」は「被差別(真)」になることはできないし、「被差別(真)」は「差別(真)」になることはできないと考えるようになっていったのです。筆者は、どう考えても、被差別部落の古老の生き抜いている歴史、近世幕藩体制下の藩の牢屋に仕える長吏として、300年間という長期に渡って生き抜いてきた歴史、そして、明治新政府のもとで、「身分・職業」を奪われ、差別されるようになって百数十年・・・、先祖の歴史を否定することなく、世の差別の流れの中で砕け散ることなく、差別の風雪の中で自ら崩壊することなく、村の高台に身を置いて、ずっとその村を見守り続けている・・・、そんな彼らの歴史を、私物化して、自分のものとすることなど絶対にあり得ないと思われたからです。「差別(真)」は、「被差別(偽)」になることはできないのです。

その歴史を引き受けて生き抜いている、浄土真宗の住職や被差別部落の古老に対して、筆者は、尊敬の念すら持たざるを得ませんでした。

差別とは何なのでしょうか。それは、被差別に置かれた人々から、彼らの本当の歴史を奪い、その歴史に代えて、「賤民史観」という、なんともおぞましい、希望のない歴史や歴史観を押しつけることではないでしょうか。被差別に置かれた人から、彼らの本当の言葉、歴史や人生の物語を奪い、そのあとで、権力者や政治家、学者や教育者がつくりあげた「賤民史観」という幻想を、さも歴史の事実であるかのように押しつけ、強要すること、それこそが差別というものではないかと思われたのです。

それは、近代日本が、被差別部落の人々に対してだけでなく、近代日本の国策の中で、朝鮮半島や台湾、樺太、太平洋戦争の最中のフィリピン等東南アジアの人々に対してとった「ふるまい」と同じ類のものではないでしょうか。近代中央集権国家によって作られた近代的「部落差別」は、朝鮮半島や台湾、樺太、太平洋戦争の最中のフィリピン等東南アジアの人々から、彼らの生まれながらの言葉・国語を奪い、歴史を奪い、日本語と日本の歴史・皇国史観を押しつけ、臣民化、皇民化政策をとった、日本の近代化の中の悪夢と同じ構造の中にあります。

山口県北部の寒村に生きる、浄土真宗の住職や被差別部落の古老との出会いが、私にもたらしたもの・・・、それは、差別されてきた歴史をになう彼等に対するあわれみや同情の思いではなく、彼らに対する「尊敬」の思いでした。所与に歴史を引き受けていきている彼等に対する「尊敬」の念が、筆者の『部落学序説』全編に渡って、地下水脈のごとく流れているのです。筆者をして、権力者の民衆・人民に向けられた「愚民論」に満ちた「賤民史観」を廃棄させ、その「賎民史観」から自由になっていると思われる学者・研究者・教育者の「学説」や「理論」、「史料」や「文献」の中から、被差別部落の本当の歴史を読み解く鍵を抽出せしめることになったのです。

被差別部落の古老の精神世界に通じる道・・・。

それは、権力者や政治家、学者や教育者が、極めて巧妙な方法で作り上げた「賤民史観」という幻想の向こう側に存在していたのです。差別なき社会を願うものは、自分の足で歩いて、差別の海を、差別の此岸から、「賤民史観」という、人間の作り出した最悪の、悪臭の漂う海の底を超えて、非差別の彼岸へと旅立ちをしなければならないのです。

部落学序説の課題

 部落学序説の課題

山口県北の寒村にある、ある被差別部落を尋ねてからというもの、歴史の真実を見極めたいとさまざまな史料や文献を漁ってきましたが、長い間、作業仮説を立てては、それを検証、その作業仮説が破綻すれば、新たに別な作業仮説を立てて検証、さらにその作業仮説が破綻すれば、次の作業仮説を立てて検証・・・、そんな作業を繰り返してきました。


私は、子どもの頃、海が好きでした。

よく、波打ち際に行っては、砂遊びをしていました。時々、大きな波が襲ってきて、せっかく作った砂の城を崩されても、一向に気にはなりませんでした。波が崩した砂山の上にもう一度砂の城をつくりました。今、考えても、よく、飽きもしないで砂遊びをしたものだと思います。

作ったものが崩される・・・、私は、そういうことに慣れています。

他の人によってくずされる場合もあるし、よりいいものを作るために自ら崩す場合だってあります。無意味な営みをしているようですが、私は、そうすることで、目に見える、形ある砂の上ではなく、自分のこころの中に、目に見えない、こころの中の砂の城、簡単には崩れることのない城を構築することができるようになったのです。

そんな子どもの頃の体験は、大人になり、定年の季節に入り、実社会から身を引く年代になっても、私のどこかで大きな影響を持ち続けています。私が所属している宗教団体の部落差別問題の担当者を命じられたときも、一端引き受けたあとは、繰り返し、失敗やつまずきを経験しながらも、その営みを途中でやめることはありませんでした。部落差別問題の担当者をおりてからも、部落差別問題との取り組みを続けたのは、わたしの子ども時代の体験、海の波が教えてくれた、否、形作ってくれた、「途中であきらめない」という、私の性質によります。部落差別問題以外の担当になっていれば、やはり、その方面で同じ営みを続けたであろうと思います。

今回、WEB上で、『部落学序説-「非常民」の学としての部落学構築を目指して』を書き下ろすことになった直接のきっかけは、ある出来事によります。

昨年の夏のある日、その日は、朝顔が百数十個も咲いた美しい日でした。私は、ある山口県立高校に仕事にでかけていましたが、その留守の間にひとつの事件がありました。そのとき、妻は、退院して自宅療養をしていたのですが、突然、見知らぬ男の人がやってきて玄関のガラス戸を割ろうとしたというのです。妻は、病後のため、体力に自信がなく、すぐに警察に通報しました。警察に電話されたと気づいた男は、すぐ離れてどこかへ行ってしまったそうですが、5~6分後に警察のパトカーが駆けつけてくれて、7~8人の警察官があたりを捜索、近くにある山口県立某高校に押し入って、同校校長から説得されているときに、駆けつけてきた警察官に逮捕されたといいます。その後、逮捕された男が、意味不明なことをしゃべっているというので、逮捕から保護に切り換えたとの連絡が警察から入りました。

その夕方、その男の両親がやってきて、ことの次第を話されました。両親の話だと、息子さんは、「出てきた人を、誰でもいいから危害を加えるつもり」で、玄関のガラスを、ゴルフのドライバーで割ったのだといいます。「はやく警察に連絡してくださったので、息子は、人身事故を起こさないで済みました・・・」と、深々と頭を下げられました。玄関の窓ガラスには、防犯フィルムを貼ってあったので、ゴルフのドライバーで叩かれても打ち破られるということはなかったのですが、息子さんを精神病院に強制入院させたという両親が気の毒でした。しかし、私たち夫婦は、それ以上、何も聞きませんでした。

次の日、その青年の母親がガラス屋と一緒にやってきました。ガラス屋は店に持ってかえって修理すると言って玄関のドアをはずして帰って行きました。青年の母親が、「修理がすむまで、ここで、またせてください・・・」というので、礼拝堂に通しました。すると、礼拝堂のうしろの書棚に、この『部落学序説』を書くための資料や書籍がたくさん並べてあったのを見て、それに気がついた母親は、一瞬不安そうな表情をされました。

私は、それとなく察して、「宗教教団の同和問題を担当してきただけです。私は、被差別部落出身ではありませんから、ご心配なく・・・」と心配を取り除こうとしました。すると、その母親から思いがけない返事がかえってきたのです。母親は、「息子は、実は、そのことで悩んでいたんです・・・」といいます。

青年の母親は、自分の方から、一方的に話をはじめました。

その母親は、結婚するとき、相手が「被差別部落出身かどうか・・・」確かめたといいます。そのとき、今の夫は、彼女に「部落出身ではない」とはっきり答えたというのです。「それならば・・・」と親類縁者もその結婚を祝ってくれたそうですが、やがて、子どもが与えられ、保育園に通うようになり、幸せな生活をしていたある日、市から「牛乳」が配布されるようになったといいます。近所の人に尋ねても、誰もそのような「牛乳」をもらっているものはいません。「なぜ、自分の子どもだけに・・・」、そう思った母親は、市の担当者を問い詰めたといいます。市の担当者は、「この牛乳は同和牛乳です・・・」と答えたそうです。

その日、その青年の母親は父親と言い合いになったそうです。

「あなたは被差別部落出身なのに、それを隠して、私と結婚したのですか!」

父親は、「自分は部落出身ではない。自分の生まれた家の道一本隔てたところから部落だ・・・」と言ったまま、何も話をしなくなったといいます。

母親は、「同和」とは何か、学校同和教育や社会同和教育に機会あるごとに参加して、理解に努めたそうですが、ある日、小学生の息子さんが学校から帰ってくるなり、「おかあさん、同和って何?」と質問したといいます。母親は、息子さんの質問になんとか答えようとしたそうですが、PTA対象の同和教育や社会同和教育で話を聞かされた、「人の嫌がる仕事を押しつけられた気の毒な人・・・」という話を、息子さんにすることはできなかったといいます。

中学生のとき、息子さんは、母親に、「なぜ、おかあさんは、同和地区の人と結婚したのか?」と母親を非難するようになったといいます。また、息子さんは、母親だけでなく、父親にも、同じような質問をしたそうですが、父親は、「うちは部落ではない・・・」とひとこと言ったまま、それ以上なにも言わなかったといいます。

高校、大学と進むに連れて、息子さんの悩みは深くなっていったといいます。そして、大学を卒業したあと、深刻な不況の中、就職先が見つからず、実家に帰って、アルバイトの仕事をしていたといいます。

仕事について数カ月、息子さんは、インターネットを見るようになったといいます。あるとき、「お母さん、インターネットの世界では、みんなぼくの悪口を言っている」と悲しそうに話したといいます。「あなたのこと、知っている人はいないと思うわよ。そのインターネットのホームページおかあさんにも見せて・・・」というと、「お母さんは見ない方がいい。お母さんも傷つくから・・・」と言って見せてくれなかったといいます。

息子さんはやがてノイローゼ状態になり、その日、父親の部屋をゴルフのドライバーで目茶苦茶に壊し家を飛び出したそうです。行くあてもなく彷徨っているうちに、当方の礼拝堂を見つけ、危害に及んだというのです。

その母親の話を聞いて、私も妻も、大きなショックを受けました。母親から、その話を聞くまでは、最近新聞やテレビで報道されている、「若者の理解できない事件のひとつ・・・」で終わっていたかもしれなませんが、母親の話を聞いて、「若者の理解できない事件のひとつ・・・」の背後にある問題の深刻さに驚きの思いを持ちました。

「なぜ、当方の建物を襲ったのか・・・」とお尋ねしますと、「おたくとは何の関係もないから・・・」ということでした。

私は、その母親にも、執筆中の『部落学序説』の話をしました。

そのとき、母親は、「もし、むすこが、インターネットであなたの話を見ていたら、ノイローゼにならないで済んだかもしれません・・・。退院してきたら、息子と一緒に、話をお聞きしたいと思います・・・」といって、帰って行かれました。

山口市で、第12回部落解放西日本夏期講座(1987年)が開かれたとき、部落解放同盟中央執行委員長の上杉佐一郎が、「地対財特法」下の高校奨学金の貸与化に触れて、このように話をしていました。

「高校奨学金貸付制度になり3年後から20年間返済することになるんですが、考え方によっては20年間は非常に長くていいなと思われるかもしれませんが、私はこれは差別の再生産の大きな危険性をもつ要因であると思います。金を借りて高校に行き卒業する、就職をする、通婚をする、そして子どもができる、10年先に給料をもらってくる、今は銀行振り込みですから奥さんに入るのが通常です。ですから奥さんの手に入ったうちから奨学金を払わないといけないのです。そうすると何も知らずに結婚した部落外の奥さんが「何の奨学資金ですか」と質問する。「そら同和の奨学資金だ」と言わないといけない。10年15年後に奨学資金をはらわなきゃならないということの中から新しい差別の再生産をつくりあげることになるひとつの危険な要素をもっていると私は思うのです」。

それから何年かして、山口県の被差別部落を、部落解放同盟中央本部がキャラバンをしたとき、どういうことが話されているのか、私も参加させてもらいました。そのとき、キャラバンに参加した中央本部の人にきいてみました。「一般の人と部落の人が結婚した場合、その間に生まれた子どもはどうなるのか」。中央本部の人は、「部落差別は血の問題であるから、両者の間に生まれたこどもは、部落民になる・・・」といいます。「それでは、もし、そのこどもがまた部落外の人と結婚したら?」と尋ねると、「部落の血が2分の1になり、4分の1になり、8分の1になっても、部落の血がながれている限り部落民である・・・」といいます。

私は、そのとき、部落解放運動は欠陥運動だと思いました。

部落差別からの解放と言われるさまざまな営みが、本当は、部落差別の拡大につながることに結果するのだとしたら、その運動は解放運動の名に値しない似非運動以外の何ものでもないと思われたのです。

ある被差別部落の人は、このように言い放ちました。「その息子さんは、差別者の血が流れているのだから、差別に苦しむような目にあっても仕方がない・・・」。私は、その言葉には、背筋が凍りつくような冷たさを感じました。

部落学序説を、WEB上で公表することにしたのは、思いがけないできごとの背景を知ったからです。前に、まえがきで、「被差別部落の古老の精神世界に通じる道・・・、それは、権力者や政治家、学者や教育者がつくりあげた賤民史観」という幻想の向こうに存在するのである。差別なき社会を願うものは、自分の足であるいて、差別の此岸から、「賤民史観」という悪臭の漂う海の底を超えて、非差別の彼岸へと旅立ちをしなければならない・・・」と書きましたが、この部落学序説は、新しい学問のありようを、学者や研究者、教育者に対して提案するだけでなく、「差別」・「被差別」の立場をとわず、部落差別に悩み苦しむ「あなた」を、「賤民史観」という悪臭の漂う海の底を、自分の足で歩ききって、「非差別の彼岸へ」たどり着く、本当の部落差別からの解放への道があることを提示し、「あなた」をその旅にいざなうものでもあるのです。その気になれば、たったひとりでもはじめることができる旅に・・・。

部落の血など信じてはいけないのです。

「江戸時代、三百年間差別され続け、人の嫌がる仕事を押しつけられた惨めで、哀れで、気の毒な人・・・」、こころない学者・研究者・教育者によってつくり出された幻想を信じてはいけないのです。彼らのしかけた罠に陥ると、かけがえのない人生を彼らの慰み物にしてしまいます。

「部落の血」など、あろうはずがありません。

差別を経験した世代は、次の世代に差別が及ぶことを阻止する努力をするでしょう。さらに次の世代に差別が及ぶようなことがあれば、それは世の変革と改革に向かい、場合によっては、「世直し一揆」や革命に発展させることになるでしょう。人間とはそういうものです。江戸時代三百年間、黙って差別に耐えてきた・・・、そんなことあろうはずがないのです。それは、権力者や政治家、学者や教育者がつくりあげた「幻想」にすぎません。

被差別部落の女性たちは、一番そのことを知っていました。だから、自分たちのこどもを産み続けたのです。母親は、「あなた」を差別の中に突き落とすために産んだのではありません。試練を乗り越えて、希望を掴むために、「あなた」をこの世に送り出したのです。

人間の本当の価値は、自分の意志を超えた、自分の力ではどうしようもない「所与」の人生をいさぎよく引き受けて生きることができるかどうかによって決まると私は思っています。

この『部落学序説』は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を徹底的に破壊しつくすことを課題としています。差別・被差別の立場を問わず、部落差別の完全解消を願っている読者のみなさん、筆者と一緒に「賤民史観」を取り除くたたかいをはじめてみませんか。

部落学序説の視点・視角・視座・・・

部落学序説の視点・視角・視座


「研究者」の削除要求もあって、まえがきがずいぶん長くなってしまいました。

『部落学序説』の執筆を継続するにあたって、「部落学」の対象である「被差別部落」を、筆者がどのような、視点・視角・視座から追求しているか、それを明らかにすることはあながち無意味なことではないでしょう。

私は、意図的に、江戸時代の「百姓」身分から「穢多」身分を見直す作業を遂行することになります。

従来の部落研究、部落問題研究、部落史研究は、「武士」身分から「穢多」を見たものが多いと思われます。「百姓」身分から見た「穢多」身分の姿は、史料や文献はそんなに多くはありません。「百姓」文書の中には、「穢多」に関する差別的なものを見いだすことはかなり難しいと思われます。最近、「庄屋文書」に関する史料の発掘や、それに関する研究が数多く発表されていますので、「百姓」の目から見た「穢多」の姿(歴史の実像)は、ますます明らかになってくることでしょう。

従来の、「武士」身分から「穢多」身分を見たときの、「穢多」の姿は、限りなく賤しい(身分の低い)民に見えるようです。近世幕藩体制下の身分制度の上部を構成している「藩士」階級の、その下部を構成している「士雇」(さむらいやとい)・「穢多・非人」階級にむけた蔑視・差別を示す史料や文献は決してすくなくありません。「藩士」階級の所属する「武士」の中にある階級的奢りは、「士雇」(中間・足軽)・「穢多・非人」身分を「穢多」視する傾向が強いのです。

『部落学序説』は、それを批判検証し、「穢多・非人」身分を見る新しい、本源的な視座を追求します。

『部落学序説』の執筆を継続するに際して、避けて通ることができないのが、「被差別部落」に関する資料(史料や伝承)等の取り扱い方です。

部落学が、単なる観念の遊びではなく、学問の新しい領域として成立するためには、歴史学・社会学・民俗学等と同じように、研究対象を具体的に取り上げなければなりません。具体的に取り上げて論証するためには、「被差別部落」の地名・人名を取り上げ、場合によっては、それらが記載された史料や論文を引用することになります。

しかし、33年間・15兆円という途方もない年数と費用を用いて、同和対策事業が展開されてきたにもかかわらず、部落差別はまだ解消してはいません。同対審答申でいう「実態的差別」は相当の成果をあげたにしろ、「心理的差別」はいまだに根強く存在しているという現実があります。不完全なまま終わった、同和対策や同和教育の現状を踏まえると、被差別部落の地名・人名を軽々しくあげつらうことはできません。また、たとえ、歴史的な史料や文献を引用する場合でも、不用意に実名を引用することはできないと考えられます。

筆者は、幾多の試行錯誤の上、江戸時代の「穢多村」や明治以降の「被差別部落」の地名を表現するときには、「絶対座標」ではなく「相対座標」を用いることにしました。

絶対座標というのは、江戸時代の「穢多村」の名前をそのまま用いることです。明治以降の相次ぐ地方行政改革で、統廃合が繰り返されている関係でかなりな地名が失われている現実がありますが、それでも、残された地名の中に何らかの関連性を持っている場合が多々見られます。

筆者の論文では、「絶対座標」は一度も使用しません。

山口県で長い間、本格的に同和問題に取り組んできた方々なら、このまえがきで触れた「被差別部落」や浄土真宗寺院がどこにあるのか、推定することは容易かもしれませんが、それだけの知識を持っているひとが、差別的暴挙にでるとは考えにくいと思われます(学者・研究者・教育者に対する筆者の淡い期待なのかもしれませんが・・・)。

かと言って、多くの研究者がするように、□□とか、○○、△△・・・の伏せ字を用いたり、ABC・・・という記号を用いて表現する場合は、論文を読むときに目障りになるし、記号の使い分けをいつも念頭にいれなければならなくなり読者の思考を乱すことになります。

そこで、考えついたのが、「相対座標」ですが、相対座標の例をあげるとこのようになります。

たとえば、長州藩には、いくつかの支藩・枝藩があります。長門の国という半島の奥深いところに追いやられた毛利は、山陽道にその出口を見いだそうといくつかの支藩・枝藩を作りました。周防の国には、徳山藩と岩国藩が置かれました。徳山藩を例にとると、城下に、四カ所、「穢多村」を配置しました。その「穢多村」の名前は、それぞれ、現在の地名に引き継がれています。

そこで、徳山藩の「穢多村」を名前をあげて言及するときには、四カ所の名前を、「徳山藩東穢多村」・「徳山藩西穢多村」・「徳山藩南穢多村」・「徳山藩北穢多村」と、東西南北の相対的位置で表現することにしました。そのことは、すでに、「表記規則」で述べた通りですが、「被差別部落」の当事者や部落史の研究家は、私の論文を見て、それが歴史的な正しい記述であるかどうか、持ち前の知識で確認することができるでしょうし、私の論文を読んでくださる一般の方は、必要以上の知識を提供されることで、煩わされずに、論文の内容に入っていただけるのではないかと思っています。

私が読者の方に伝えたいのは、被差別に置かれた方々の「事実」ではなく「真実」だからです。

ただ、被差別部落の人が、社会同和教育で一般の人を対象に公表した講演や文章、被差別部落出身の著述家が出版した小説や論文などの地名・人名については、部落差別の助長につながらないように、それ相応の対策がなされているものとして引用する場合があります。山口県光市の「被差別部落」出身の丸岡忠雄や村崎義正がいのちをかけて語りつたえたものを「匿名」でとりあげることは、行き過ぎであり、彼らの対して失礼になると思います。

しかし、その場合も、「被差別部落」出身者が、必ずしも「被差別部落」出身者の、「時間」と「空間」を越えてよき理解者であるという保証は何もないわけですから、筆者の立場から、著者の承諾なくして、「絶対座標」を「相対座標」に置き換えて引用する場合もあります。

最後に、筆者が提示する「相対座標」をてがかりに、「絶対座標」にたどり着く可能性ですが、多くの場合は不可能であると考えられます。

筆者が、調査のために通った徳山市立図書館の館長と司書の方々は、「仁王門の金剛像」のように、恐ろしい形相で、図書館の史料や蔵書が差別のために悪用されないように立ちはだかっているからです。場合によっては、山口県立文書館の研究員から、何のために調査しているのか、厳しい追求を受けることになります(筆者も一度経験があります)。仁王門をくぐり抜けるには、部落差別を本当に解消したいという熱い思いと誠実な姿勢、彼らを納得させるだけの知識と技量が必要となります。

この仁王門、学者や教育者、被差別部落の当事者ですら、簡単には通り過ぎることはできません。たとえ通りすぎたとしても、今度は、郷土史料室の膨大な史料や論文を読み取る時間と力がなければ、「仁王門の金剛像」の前でただ挫折と敗北を経験することになるでしょう。郷土史料室の史料・資料は、ときどき、倉庫の史料・資料と置き換えられているようなので、あるときは閲覧できても、あるときは閲覧できない・・・という場合もあります。

見つけた資料を複写してもらう段階なると、さらにチェックがかかりますので、部落差別に直結するような資料の複写請求はほとんどできない・・・、という壁に直面します。

「相対座標」を用いるよりもっといい方法があれば、この部落学序説を読んでくださる皆様からのご教示とご指導をお願いしたいと思います。

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※山口県の部落解放同盟の関係者の方から、「被差別部落の人々が触れてほしくないと思っていることがらに臆面もなく触れておきながら、地名・人名を実名表記しないのは、『部落学序説』が抱えている論理的矛盾であるという指摘がありましたが、筆者は、矛盾しているとは考えていません。この『部落学序説』は、部落差別完全解消という目的を持っていますが、その目的の実現のために、現在の社会を生きておられる「被差別部落」のひとびとを「手段」とみなしたり、「犠牲」に供したりする発想はありません。筆者は、『部落学序説』を、「テキスト」批判として遂行しており、部落解放同盟の方々のように「運動」・「運動論」から遂行しているわけではありません。山口県の部落解放同盟の関係者の方々の要望をみたしても、「被差別部落」の実名をさらしたことで、他の被差別部落の方々、運動団体、また他県の部落解放同盟からの批判を避けて通ることはできないでしょう。山口県の被差別部落の人名・地名の実名記載の論文は、筆者ではなく、部落解放同盟の方々が執筆すべきです。筆者は、いかなる意味でも、その代筆に関与することはありません。「差別(真)」の立場を自覚して、「被差別(偽)」(被差別者ではないのに、被差別者を擬態して、被差別者として発言する・・・、筆者は、それを、精神的似非同和行為と呼びます)の立場に転落することを極力排除します。

部落学とは何か

部落学とは何か


歴史が歴史に関する学であり、社会学が社会に関する学であり、民俗学が民俗に関する学であるのと同様に、部落学は部落に関する学であるといえます。


部落学が学として成立するためには、部落学は、歴史学や社会学、民俗学に対して、独立した学としての存在理由を明らかにしなければなりません。

従来、部落研究・部落問題研究・部落史研究という名目のもとで、部落に関するさまざまな個別研究がなされてきました。その研究によって、膨大な史料の集積が行われ、それとともに、数多くの論文や研究書が執筆されてきました。累積された資料の豊富さは、ひとりの学者・研究者・教育者が一生をかけても、それらの資料をひとりで読破し、分析と総合という研究作業を完成させるということを困難にしています。まして、筆者のように、無学歴・無資格の「ただのひと」にとっては、基本的な資料を読破することですら至難の技になってしまいます。部落研究・部落問題研究・部落史研究のどの研究主題についても、網羅的な文献を精査することは絶望的な営みであると言えます。

最近、十数年の個別科学研究の成果を見ても、部落に関する個別科学の研究の場合、ほとんど、何の進展もしていない・・・感があります。個別科学研究に限界を感じた学者・研究者から、学際的な研究の必要が叫ばれ、また、学際的な研究方法を身につけた新しい世代の学者・研究者によって、「部落学」と称して、新たな研究が展開されてきてはいるのですが、いまだ試行錯誤の領域を出ていません。それぞれの「部落学」は、研究主体を「被差別」の置いている点など考慮すると、それらの「部落学」は、部落差別の完全解消に向けた、新しい研究的視野を提供しているとは思われない情況にあります。

今日の、部落・部落問題・部落史に関する学会の現状(限界)を認識する方法は簡単です。

その気になれば、誰でも、簡単に、その現状を確認することができます。部落研究・部落問題研究・部落史研究に関する、図書館の郷土史料室の蔵書や、書店で販売されている関連書籍のなかから、複数の著名な学者・研究者・教育者の執筆した書籍20冊程度を任意に選択して、それらを学者別・テーマ別に比較・検証してみればすぐにわかります。

筆者同様、すぐに、現在の部落研究・部落問題研究・部落史研究が、ここ十数年、とりとめのない混沌とした状態にあり、現在にいたるも、いまだに、そのような状況から抜け出すことができないでいる情況を確認することができるでしょう。

「部落とは何か」・「部落民とは誰か」、「部落」・「部落民」に関する定義ひとつをとっても、学者・研究者・教育者によって異なる定義がなされています。「部落」・「部落民」を定義付することに熱心なひともいれば、これまでの研究結果から、「部落」・「部落民」を定義付することを断念したひともいます。なかには、「部落の定義を繰り返すことは、いたずらに事態を悪化させるだけなので、そのような不毛な議論はもうやめよう・・・」と、自分だけでなく他者の取り組みをも断念に導くことを提案するひともいます。

しかし、部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わるものが、部落を定義することは不可能であるというのは、何を意味しているのでしょうか。学者や研究者が、「部落」・「部落民」を定義することに絶望し断念している姿をみると、無学歴・無資格の「しろうと学」の筆者ですら首をかしげてしまいます。学者・研究者の中に、「この世の中には、定義することができないような不思議・謎が存在している」と考えているひとがいるのでしょうか。学者・研究者が、「部落」・「部落民」の定義を断念するというのは、学者・研究者が、学者・研究者としての良心と責務を放棄し、困難な問題を前に敵前逃亡していることにならないのでしょうか・・・

部落・部落問題・部落史研究を遂行する個別科学は、歴史学、地理学、社会学、民俗学、文化学、人類学、法学、政治学、宗教学等多岐に及びます。どの個別科学研究も、33年間15兆円という膨大な時間と費用を費やして実施された同和対策事業・同和教育事業のなんらかの恩典(研究費)にあずかってきたのではないでしょうか。それにもかかわらず、「部落」・「部落民」という、基本的な定義すら確定できないでいるということは何を意味しているのでしょうか・・・。その研究費すら支出されなくなった今、部落研究・部落問題研究・部落史研究のあらたな展開を望むことはできなくなっているのでしょうか・・・。

異なる個別科学の研究者間の共同研究という点では、歴史学者の沖浦和光と民俗学者の宮田登の対談があります(『沖浦和光・宮田登対談-ケガレ-差別思想の深層』解放出版社)。しかし、『ケガレ』を通読してみればわかるのですが、歴史学と民俗学のケガレ観の違いについて、それぞれの立場からの見解が披露されているのみで、両者の研究成果を総合するような試みはほとんどなされていません。歴史学と民俗学の学際的研究によって、歴史学と民俗学の違いがより鮮明になったに過ぎません。歴史学と民俗学の研究成果を、批判・検証のうえ、総合するという、文字通りの学際的研究には達していないのです。しかし、歴史学者の沖浦和光と民俗学者の宮田登の対談は、希有なこころみとして一読に値する書であります。

種々雑多な論文の集積という点では、『脱常識の部落問題』(かもがわ出版)があります。部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる28人の学者・研究者の論文が収録されています。しかし、この論文集は、28の学者や研究者の、それぞれの研究成果をアトランダムに収録しているに過ぎません。「部落」・「部落民」に焦点をあてて、多角的な視点からその解明に挑んだ・・・という類のものではありません。ただ、多様な学者の多様な研究成果が列挙されているに過ぎません。『脱常識の部落問題』の読者は、部落研究・部落問題研究・部落史研究の「常識」の破綻のみをしらされ、そこから、部落研究・部落問題研究・部落史研究の新しい展望を見つけることは容易ではありません。

また、一方で、異なる個別科学の研究者間の共同研究ではなく、ひとりの研究者による複数の個別科学研究の有機的関連をもった学際的研究というものもあります。

たとえば、川本祥一の『部落差別を克服する思想-どうしてそこに部落があると思いますか?』(解放出版社)がそうです。著者の川本は、立教大学で、学生に、「日本文化の周縁」という科目名で「部落学」を教えていますが、歴史学・社会学・民俗学等を、「ひとつの分野」とするとしています。川本は、「部落学」という、新しい学問の提唱者であるといっても過言ではありませんが、川本は、その『部落差別を克服する思想』を「部落学」の教科書として採用しています。川本の「部落学」が何であるかを確認するためには、その著『部落差別を克服する思想』をよめばいいということになります。筆者は、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学際的研究に触れたいひとは、川本の『部落差別を克服する思想』の一読をおすすめします(筆者の『部落学序説』が提唱する「部落学」との違いもあきらかになります)。

また、同様に部落学を提唱している人に、辻本正教というひとがいます。彼は、『東北学別冊5』において、「あらゆる学問を結集して、それこそ学際学的手法に基づく部落学として、それぞれの疑問を取り除いていく・・・」ことを提案していますが、彼の「部落学」に関する言及は、彼の主要な研究論文『ケガレ意識と部落差別を考える』と比較・検証してみる限りでは、「部落学」を指向する彼の理念と、実際の彼の個別科学研究との間には、おおきな隔たりがあるように思われます。

一時、インターネット上で、大阪市立大学においても「部落学」構築が試みられているとニュースがながされていたと記憶していますが、大阪市立大学の野口通彦は、「歴史学」・「社会学」の学歴・資格を背景に、新たな提案をしています。野口通彦の代表的な著作に、『部落問題のパラダイム転換』がありますが、その内容は、無学歴・無資格の「しろうと」目からみてもかなり荒っぽいもので、学者・研究者としては非常に粗雑な議論を展開しています。野口のいう部落問題のパラダイム《転換》は、決して《転換》ではなく、従来のパラダイムの本質をそのままに単に装いを替えただけに過ぎません。差別解消というより、部落差別の拡大再生産に直結するような論法を展開しています。

上記の例をみてもわかるように、部落研究・部落問題研究・部落史研究の個別科学研究から学際的研究へのこころみは、まだ、はじまったばかりの初期的段階に過ぎません。今後、本格的な研究成果が、学者や研究者から明らかにされるのでしょうが、そういう学会の流れとはまったく別に、『部落学序説』の筆者である私は、ただ、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の聞き取り調査で知り得た証言を歴史的に裏付けるべく、必要に迫られて、歴史学・社会学・民俗学等を総合化して、部落学構築を指向しはじめたのです。

筆者は、日本の社会から部落差別を完全に解消していくためには、「部落学」の構築が急務であると確信しています。部落差別は、政治・文化の両面に根強く浸透しているので、その根っこを掘り起こして、その差別の原因を明らかにするには、従来の個別科学研究の単なる累積だけでなく、部落差別を、ひとつの社会システム、法システムとして、その全体構造の中に位置づけなければならないと思っています。政治・文化の世界から、「被差別部落」に関する史料を抽出して、社会システム・法システムから切り離された特殊な環境下での研究には限界が存在すると思われます。

更に、「部落学」を標榜する先行する研究を読んで思うのですが、「部落学」構築の前に、「部落学」の主体と「部落学」の客体について何らかの検証が必要ではないかと思います。そうしないと、個別科学研究がもたらしたのと同じ状況、諸説の恣意的な陳列に終わってしまいます。先行している「部落学」は、その研究主体を、「被差別部落出身者」であると宣言しています。これまでの、非被差別部落の学者によってなされた研究が必ずしも、部落差別解消に役立っていないという点では、部落差別を受ける側から、そのような試みがあってもいいとは思いますが、しかし、「部落学」として「学」を標榜する以上は、「部落学」は、特定のひとに限定されるものであってはならず、万人が行うことができる「万人の学」として開かれたものでなければならないと思います。その立場が、「差別」であろうと「被差別」であろうと、「部落学」固有の研究方法と研究成果は、「差別」・「被差別」の両者で共有されなければならないと思われるのです。部落学の研究主体を「被差別」に限定するのは、部落学が「学」であることを自ら放棄し、「学」として自己否定するに等しいのです。

部落学構築の前に、「序説」(プロレゴメナ)として、①部落学の主体(差別・被差別の関係)、②部落学の客体(研究対象と研究方法)、③部落学研究で使用される、「賤」・「穢」・「屠」等の基本用語の定義、④民俗学の「気枯れ」、歴史学の「穢れ」の解釈の統合の可能性等、⑤研究者の前理解について、あらかじめ批判・検証する必要があるではないかと思います。「序説」(プロレゴメナ)を経ずして行われる、個別科学研究の単なる集積・糾合としての部落研究・部落問題研究・部落史研究や「部落学」は、多くの場合、研究者の恣意と思いつきに終わるのではないかと思います。

部落学に携わるものは、「部落学」の前提となっているさまざまな要素を、徹底的に批判と検証にさらさなければならないと思います。『部落学序説』は、「部落学」を学たらしめるところにその存在理由があります。

「穢れ」をめぐる歴史学と民俗学の相克

  「穢れ」をめぐる歴史学と民俗学の相克


「けがれ」という言葉が多義的に使用されてきたということは、多くの学者や研究者が指摘している通りです。

前節で、筆者は、「けがれ」を「気枯れ」と「穢れ」の二重定義として捉えました。近世幕藩体制下の「村」に住む「村人」に焦点をあてて、「村」・「村人」の「常」の時に発生する、百姓として生きる気力の喪失・生産性の低下を「気枯れ」と定義し、「村」・「村人」の「非常」の時に発生する法的逸脱を「穢れ」と定義しました。ここで、第3の命題をあげておきます。

命題3:「けがれ」は、二重定義された概念である。「けがれ」は、「常」の時には「気枯れ」として、「非常」の時には「穢れ」として定義される。

表題の新「けがれ」論という表現は、以上のことを指しています。

ここで、歴史学や民俗学で指摘されている「けがれ」論についてその概略を把握してみましょう。最初に取り上げるのは、歴史学者の沖浦和光と民俗学者の宮田登の対談集である『ケガレ 差別思想の深層』(解放出版社)です。

沖浦は、「ケガレとは何か」と自ら問いを立てたあと、その問いに答えます。

「ケガレは、古来からきわめて多義的に用いられてきました。今日では、民俗学をはじめ文化人類学・宗教学・社会思想史・比較文化論など、学問の各分野で論じられていますが、はっきりと定まった一つの観念体系として<ケガレ>を規定することはむずかしい・・・」。そして、ケガレの解釈を、①神話学、②文化人類学、③宗教学、④民俗学の個別科学研究の現時点での一般論を紹介しています。

沖浦は、部落差別に深く関わる「ケガレ」観は、「③宗教学」の「宗教的なケガレ」観であるといいます。「ケガレを不浄とみて、<清浄>を維持するためにそれを隔離し排除していこうとする思想」であるとして、具体的に、「日本の寺社の死穢(しえ)・産穢(さんえ)・血穢(けつえ)を中心とした禁忌に代表されるケガレ観」をとりあげています。

沖浦は、次いで、「④民俗学」の「ハレ・ケ・ケガレ」の三極循環論に触れ、「いささか安易な図式」として否定的な評価をしています。その理由として、「気枯れ」説と「穢れ」説の関連を民俗学がきちんと説明しきれていない点を指摘しています。沖浦は、「それ自体が悪しき生命力をもった実体」とみなされている、ヒンドゥー教的なケガレを、民俗学は、「到底説明できない」と主張しています。

沖浦は、部落差別の原因である「穢れ」は、本質的に「実体概念」であると認識しているようです。近世被差別民が「穢多」といわれたのは、そう言われるだけの「実体」・「実質」があったのだと、主張しているようです。

沖浦は、「②文化人類学」におけるケガレは、「それ自体で存在する実体概念ではなく、一定のシステムとの関わりにおいて生じる関係概念」である」と、ケガレに関する考察の中には、文化人類学のように、実体概念を退け関係概念を主張する学的研究があることを十分認識しながら、あえて、被差別部落の人に対する差別の原因であるケガレを「実体概念」として捉えようとする姿勢からみると、沖浦の説の背後にも、払拭されていない「賤民史観」が存在しているようです。

沖浦は、「社会学」者としての肩書の下、「評論家」の管孝行と対談しています。

雑誌『現代の眼』(1981年11月号)で、《賤民史観樹立への序章》と題した対談の中で、管から、「賤民はおのずから賤民だったのではなく、賤民とされたことによって賤民になったのですから、それには理由がなくてはならない」と指摘されたとき、沖浦は、周辺的な事例を列挙するのみで、管の問いに対してまともに答えようとはしていません。

その頃、沖浦は、近世幕藩体制下の「穢多・非人」を「賤民」と同定する歴史学者としての視座をより確実なものにしつつあったのでしょう。論題の《賤民史観樹立への序章》という表現もさることながら、沖浦は、「士・農・工・商・穢多・非人」を、沖浦固有の表現、「士・農・工・商・賤」という図式で表現しています。

沖浦は、彼が、「穢れ」を関係概念から実体概念の方へ傾斜していった起因として、その対談の中でこのように語っています。「私、この春にインドに行きまして被差別民衆と交流して参りました。ひどい差別を受けている不可触賤民といわれている人たちの部落へ入ったわけです。合計九地区へ行きました。そこでいろいろ実体を調べたのですが、さきにあげた日本の賤民の従事していた職業と九割まで一緒なんです」。

インドの不可触賤民の在所を日本固有の「部落」という言葉で表現しているところをみても、インドにおける不可触賤民の調査が、沖浦に相当大きなインパクトを与え、「穢れ」を、関係概念としてではなく、実体概念としての解釈の道を開いたことは想像に難くありません。

沖浦のインドの不可触賤民調査から二十数年後、彼は、『瀬戸内の被差別部落 その歴史・文化・民俗』の中で、広島藩の「革田身分」に触れ、「不可触賤民を<身分外の身分>とみなしたインドのカースト制度にきわめて類似した身分制度」としています。そして、インドの不可触賤民と日本の穢多との間の属性・共通の性質を比較し、「日本社会における「穢多」「非人」という呼称ならびにその処遇は、インドの「不可触賤民」にきわめて類似していたと言わねばならない」と結論づけています。

沖浦は、その根拠として五項目をあげます。①内婚制、②職業の世襲、③清目役の賦課、④儀礼・行事における身分間の格差、⑤衣食住の規制。「十七世紀中期から法制化され・・・江戸幕府の賤民政策は、しだいにインドの不可触民制に類似した賤民制になっていったのである」といいます。

しかし、沖浦にとって、日本の部落差別が、インドの不可触賤民制にどのようなルートで、どのような影響を受けたのかということは、未だに研究途上にある課題であって、沖浦自身の中にあっても証明し得ることがらではないのです。

しかし、インドの不可触賤民調査から20年後にあっても、「大きい衝撃を受けた」とする沖浦は、「賤民史観」をより強固にしていきます。

沖浦がその過程の中で書いた『竹の民俗誌-日本文化の深層を探る』の最後の部分で、このように語ります。「特に「人に非ず」「穢れ多し」というような烙印を押されて、差別の中で抑圧されてきた近世の時代の被差別民史は、まさしく不条理と悲惨の歴史であったことはまぎれもない事実である。しかし、そのような光のさしこまぬ暗い歴史のなかでも、彼らは伝統的技能と新しい創意でもって仕事にはげみ、古くから伝承されてきた民族と文化の一端を担ってきたのだ。様々な苦しみと悲しみがあったが、差別と闘いながら人間としての生がキラリと光る側面も少なくなかった。・・・賤民の生活と生業は、正面から歴史のオモテ舞台に出ることはなかったが、心底ではひとりの人間としての自負と誇りを持ちながら、迫害を乗り越え苦難に耐えつつ生き抜いてきたのであった・・・」「賤民史観」をそのままに、否、むしろ強化しながら、そのような歴史学者の差別的営みがさもなかったかのように、宗教家が語る説教のような言葉で、その著を結ぶ沖浦和光の中に、私は、日本の知識階級、そこに属する歴史学者や社会学者の差別意識を見てしまいます。

「賤民史観」は、部落差別が近代国家の政策から出てきたことを、民衆の目からそらし、原因ならぬ原因、文化に内在する、ひいては民衆に内在する差別意識へと民衆を駆り立てます。そして、ますます、部落差別を解決不能な迷路へと、混沌の世界へと追いやろうとしています。

歴史学者・社会学者として聡明な沖浦は、私が書く『部落学序説』と同じ内容の論文を書こうと思えば書くことができたと思います。しかし、この論文でとりあげるような、一切合切の史料や伝承を、沖浦は、何のためらいもなく、「賤民史観樹立」のため、ばっさりと切り捨ててしまいます。一時的な同和対策事業の継続のために、本当の部落差別からの解放への願いを放棄していった、部落解放同盟をはじめとする運動団体に、彼の「賤民史観」は受容されていきましたが、私は、沖浦の歴史学者としてのありようにすごく違和感を感じています。

明治以降における、部落差別の最大の言辞は、歴史学者が研究し、教育者によって流布・伝搬されていった「賤民史観」そのものであると思います。差別的な歴史観からは差別的な研究結果しか生み出されないと思われるのです。

歴史学者・沖浦和光と民俗学者・宮田登の対談『ケガレ 差別思想の深層』の中で、沖浦は、宮田の前に議論上、敗北します。

宮田は沖浦にこのように問いかけます。

「さまざまの文献資料の中から、賤業とされていた生業のプラス面を抽出できるということは、当時の人々のなかにもそういうプラス意識が十分にあった」として、「見えるケガレ」、「見えないケガレ」を「消していく作業が可能ならば、沖浦さんが以前から主張されていた、賤視観の根本にあったケガレ=不浄観を徹底的に解体していくという作業も現実に定着するんじゃないでしょうか」。

そのとき、沖浦は、「穢れ」の実体差別であるインドのカースト制度になぞらえて日本の部落差別を研究してきた、彼自身の研究の方針を忘れてこのように答えるのです。

「だから、私は、ケガレ=不浄というのは、確固とした根拠のある実体概念ではなくて、もともとイリュージョン、共同幻想だと・・・」。それに対して、宮田は答えます。

「そうそう、共同幻想・・・」。

沖浦の「・・・」は、沖浦が自分自身の語っている言葉に違和感を感じたことを示唆します。また宮田の「・・・」は、沖浦が簡単に宮田の説に屈伏してしまったことに対するとまどいを示しています。

私は、この対談を読んだとき、二つの「・・・」は、歴史学者の沖浦和光が、民俗学者の宮田登との論争に破れた瞬間を示唆している、歴史学者の「賤民史観」・「賤民思想」が、民俗学者の前に論争で破れた瞬間であると、こころの中で、民俗学者・宮田登に拍手喝采をおくりました。

筆者は、歴史学の「穢れ」解釈と、民俗学の「気枯れ」解釈とが、いまだに妥協点を見いだせないでいるなか、「部落学」構築の重要なキーワードとして、「けがれ」の二重循環説を主張することにしました。「けがれ」を、「常」のサイクルと「非常」のサイクルに分けて考える視角・視点・視座は、『部落学序説』の筆者固有のものです。無学歴・無資格故の発想である・・・、と批判されるかもしれませんが、「しろうと学」でしかない『部落学序説』の基本的な発想です。

「村」に身を置いて生きる「百姓」の目からみると、「けがれ」の二重循環説、「新けがれ論」は、研究上の必然から浮上してきました。今後の『部落学序説』のすべての文章には、この「新けがれ論」を前提として執筆されます。

部落学の研究主体

部落学の研究主体


部落学構築に際して、なによりもまず解決しておかなければならないことがあります。

それは、部落学を「万人の学」として遂行するために必要な、部落学の研究主体の検証です。部落学が学であるためには、その研究主体として、すべての人が関与できるものでなくてはなりません。先行する部落学の提唱者が主張しているように、その研究主体を「被差別部落民」に限定することは許されないと思います。

部落学は、被差別部落民の自己理解の学ではなく、日本社会に存在する部落差別問題の解消を目的とする学ですから、差別・被差別の枠を超えて、それを願うすべての人に開放されなければなりません。

「被差別部落の人々の痛みや苦しみは、当事者でなければわからない・・・」ということが、さも、まことしやかに言われますが、本当にそうなのでしょうか。確かに、心情的にみると、その主張もあながち間違いではないのですが、同じ痛みや苦しみを経験するかしないかで、他者の痛みや苦しみを理解することが容易になることは否定すべくもありません。

ある病気を経験した人は、その病気を経験したことのない人よりも、今、その病気で苦しみ悩んでいる人の気持ちをよりよく察することができるというのはあり得ることです。しかし、経験や体験の共有が、人の痛みや苦しみを共有する唯一の道だとすると、病気を患っている人の治療にあたる医者や看護師は、患者と同じ病気を患った経験や体験がないと、その患者の痛み苦しみを本当の意味では理解することができないということになってしまいます。よき医者や看護師は万病を患った経験がある人ということになります。それでは、医者や看護師は身がもちません。

それは、殺風景な光景です。人間というのは、そんな殺風景な光景にはなじみません。人間は、隣人や他者の痛みや苦しみを「想像」によって、思いやることができる存在です。「想像」できなければ、隣人や他者の痛みや苦しみに耳を傾けることによって、隣人や他者の痛みや苦しみを教えてもらうことができます。心を向けて、「聴く」ことで、なんらかのものを共有できるの思われるのです。

部落学構築に先立って、「差別」と「被差別」をどうきり結ぶのか、ある程度見通しをつけておく必要があります。差別者と被差別者がどう向き合うのか、心情レベルではなく、認識レベルで確認しておく必要があります。

従来は、部落解放運動を担う側から、「差別」と「被差別」が厳しく峻別されました(図1)。被差別の側に身を置いてなければ、差別の側に身を置いているとみなされ、ちょっとしたことでも糾弾の対象にされました。

私が所属する宗教教団のある教区で開催された同和問題研修の場で、当時の部落解放同盟中央本部書記長の小森龍邦氏は、「差別者は、被差別者にはなれない。しかし、差別者は限りなく被差別者に近づくことはできる。あなたがたは、被差別者に限りなく近づく努力をしてほしい・・・」と訴えていましたが、小森の主張は、極めて観念的なものです。現実の差別者と被差別者の関係はそんなに単純なかたちで表現できるものではありません。

山口に赴任して以来、所属する宗教教団の同和問題担当にさせられました。8年間担当をしたあと、その担当を辞退したのですが、筆者は担当をおりたあとも、部落差別問題との取り組みを続けました。既述のとおり、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老との出会いがあったためですが、筆者の浅い経験でも、現実の差別・被差別の関係は非常に複雑で、「差別」・「被差別」の二分法では把握できるとは思えません。

そこで、私は、集合演算の自然結合を使用して、「差別」・「被差別」の関係を16パターンに分類することにしました。

まず、観念的な二分法を、「被差別(真)」と「差別(真)」と表現することにします。

「被差別(真)」は、本当の部落民を意味し、逆に、「差別(真)」は、部落民でない一般の人を意味することとします。両者の関係は、

 「被差別(真)」-「差別(真)」

と、表現されます。

ところが、現実は複雑で、「被差別(偽)」や「差別(偽)」が存在します。

「被差別(偽)」というのは、周囲の人々から「被差別」とみなされているが、実際は「差別」の側に身を置いている場合がこれに該当します。部落差別問題に熱心にかかわる学校の教師や宗教家は、「本当は部落民ではないか・・・」と差別・被差別の両方の側から疑われるようになりますが、その場合は、みかけと実際とは異なるわけですから、「被差別(偽)」と表現されます。

一方「差別(偽)」というのは、本当は「被差別」の側に身を置いているのに、それを否定して生きている場合がこれにあたります。被差別部落の青年は通常、高学歴を身につけると被差別部落でない人と結婚して、再び、被差別部落に戻ることはないといわれます。部落解放同盟の上杉佐一郎は、「部落内外の通婚が増えてきています。どうして増えてきているかと言えば、奨学金ができることによって、高校・大学に行き、就職する、そして職場で恋愛をして通婚ができる。このようなケースが一般との通婚の実例をみると八〇%をしめています」といいます。彼ら大半は、中産階級の中に身を投じることによって、身元を隠して生きることになるのです。「被差別」の側にありながら、一般の側からはそのようには受け止められない存在、「差別(偽)」は、そのような有り様を指して用いることにします。

つまり、差別・被差別を考察するときの基本的なパターンとして、被差別の側に「被差別(真)」と「差別(偽)」、差別の側に「差別(真)」と「被差別(偽)」を設定します。すべての人はこのいずれかに属すると仮定します。

そこで、差別・被差別の関係を論じるために、集合演算の自然結合を適用して、差別・被差別の関係を4×4の16パターンに類型化します。

 被差別(真)→ 差別(真)
 被差別(真)→ 差別(偽)
 被差別(真)→ 被差別(真)
 被差別(真)→ 被差別(偽)

 被差別(偽)→ 差別(真)
 被差別(偽)→ 差別(偽)
 被差別(偽)→ 被差別(真)
 被差別(偽)→ 被差別(偽)

 差別(真)→ 差別(真)
 差別(真)→ 差別(偽)
 差別(真)→ 被差別(真)
 差別(真)→ 被差別(偽)

 差別(偽)→ 差別(真)
 差別(偽)→ 差別(偽)
 差別(偽)→ 被差別(真)
 差別(偽)→ 被差別(偽)

現実の複雑な差別・被差別の関係を、この16パターンに縮減して考察することになりますが、私は、長い間、このパターンで、部落差別問題のすべての領域で、「差別(真)」に立っている筆者と、「差別(真)」・「差別(偽)」・「被差別(真)」・「被差別(偽)」に立っているひとびととの関係を認識・判別してきました。

差別・被差別の関係を、この16パターンに類型化して考えることのメリットは、関係を類型化することで、様々な差別事件や差別事象を合理的に説明することが可能になるということです。

まえがきで紹介した、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老と、『部落学序説』の筆者である私との出会い、その関係は、「被差別(真)」-「差別(真)」で表現されます。由緒正しき「穢多」の末裔と由緒正しき「百姓」の末裔との関係で、小森がいう、「差別者は被差別者にはなれない。しかし、差別者は限りなく被差別者に近づくことはできる。」という典型的な理念型が現実になった場合です。

現代では、極めてまれなケースかも知れません。しかも、江戸時代三百年間、明治以降百数十年間の歴史を見据えての話ですから・・・。

部落学のような、差別・被差別の峻別が求められる学問にあっては、差別・被差別の関係の有り様を、自律的にその学問の内部で決定する必要があります。まかり間違っても、様々な運動団体の理念や目的を持ち込んだり、概念の借用をしてはならないと思うのです。

民俗学の創始者・柳田国男は、「己を空しゅうする」ことの大切さを説きました(「学生生活と祭」)。それは、常識や通説から自由になって、研究対象をあるがまま受け入れるところから、ものごとの本質に迫ろうとする姿勢です。柳田がいう、「いかなる専門に進む者にも備わっていなければならぬ」「史心」も同じことを指していると思われます。

「己を空しゅうする」というのは、「部落学」を遂行するものが、「部落学」を遂行する己に対して無自覚でいるということではありません。逆に、おのれを自覚して、安易に政治的イデオロギーや各種運動の基本理念に依拠しないということです。

「己を空しゅうする」とは、「自由な大地に自由な精神を持って立つ」ことを意味します(ゲーテ『ファウスト』の中に、「自由な土地に自由な民と共に立ちたい」ということばがありますが、筆者流に読み替えました)。『部落学序説』の筆者である私は、自分の立場を「差別(真)」として把握していますが、それは、筆者の本質が差別的であるという意味ではありません。方法論上の作業仮設として、筆者の立場を「差別(真)」として把握するという意味に過ぎません。

差別・被差別の類型化

差別・被差別の類型化


差別・被差別の関係を、「差別(真)」・「差別(偽)」・「被差別(真)」・「被差別(偽)」の4種類の立場を想定し、それら相互の関係を集合演算の自然結合を使用して網羅的に、差別・被差別の関係を16パターンに類型化しました。

今、差別・被差別の関係を、類型化した16のパターンにそって、ひとつひとつ丁寧に説明していくのが筋なのでしょうが、賢明な読者の方々の読解力に期待して、省略したいと思います。図を挿入しておきますので、それを参考に類推してください。

今、『部落学序説』の筆者である私は、自分の立場を、「差別(真)」(被差別部落出身ではない=非部落民)に置いていますが、この場合、私は、差別・被差別の関係において、4種類の立場の人に接することになります。

Ⅰ 「被差別(真)」(部落民)
Ⅱ 「差別(真)」(非部落民)
Ⅲ 「差別(偽)」(隠れ部落民)
Ⅳ 「被差別(偽)」(部落民の仮面を被った非部落民)

差別・被差別を考えるとき、いつも、そのパターンを念頭においておくと、いろいろなことが見えてきます。

この差別・被差別の類型化がどのように役立つか、野口通彦著『部落問題のパラダイム転換』を例にとってみましょう。彼は、「部落民とそうでないものを分ける境界線が曖昧になってきた」と指摘します。前節で追加表示した「図」の縦の細線(被差別と差別を分ける境界線)にねじれが生じて、もう1本の太いS字型の曲線が生じる場合です。野口は、「境界線が入り込み、錯綜してきた」といいますが、図3はその状態と合致します。

野口は、部落民概念を再構築する必要を力説します。彼がもくろむ、新たな、差別・被差別の境界線は、図3のSの字曲線(太線)です。「被差別(真)」(部落民)(図のⅠ)と「差別(真)」(非部落民)(図のⅡ)は、変更ありませんが、「差別(偽)」(隠れ部落民)(図のⅢ)は、親が部落出身であることをこどもに教えず、また被差別部落を出て部落外に住み、学歴と社会的地位をえている場合、差別された経験もなく、部落民であるという自覚も持っていない場合が多いので、彼らを部落民から除外して、「差別(真)」(非部落民)に算入するというのです。野口は、知識階級・中産階級の仲間入りをした部落民を「差別(真)」(非部落民)にいれ、善意・悪意をとわず、他の人々から部落民とされた「被差別(偽)」(部落民の仮面を被った非部落民)を、今度は、逆に、「被差別(真)」(部落民)に算入しようというのです。その結果、下の図3の、Sの字曲線(太線)が、部落差別のあらたな境界線として登場することになります。

野口は、これを「部落概念の拡大」と称します。

部落解放運動等によって、学歴と社会的地位を手にした部落民は、現代的脱賤を認め部落民の範疇から外して一般に算入、学歴や社会的地位をもつことができず、部落にとどまっている人と、「いわれなき差別」を受けはじめた「被差別(偽)」(部落民の仮面を被った非部落民)を、「解放の主体の新たなる登場」として部落解放運動に組み込ませるというのです。

こうなると、従来の「部落民」という語は時代錯誤になってくるので、部落民に代えて、「被差別市民」という概念を用いることを提唱します。野口は、このようにして部落概念と部落解放運動の再構築を図るというのです。

この部落学序説の読者であるあなたは、この野口の提案をどううけとめますか。

野口の提案は、差別解消のための提案ではなく、融和事業・同和事業の都度行われてきた、差別の拡大再生産の営みで、悪しき差別行為であると思います。

私は、野口の教説と違って、部落概念の拡大・拡散ではなく、部落概念の縮小・追い込みこそ、差別なき社会をつくるための有効な方策だと思うのです。

野口には、被差別の人の痛みや苦しみに対する感受性のなさ、人権を侵害されたものの無念さくやしさは届いていないのかもしれません。現代の部落差別の枠組みをそのまま維持、新たな部落民を再生産し続けようと目論む彼の発想は、部落差別の完全解消に資するどころか、部落差別の露骨な再生産に奉仕することになるのです・・・。

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※『部落学序説』の筆者と、『部落学序説』の差別性を指摘される「部落解放同盟の方」との関係は、「差別(真)」と「被差別(偽)」の関係になります。筆者も「部落解放同盟の方」も、その出自は被差別部落ではありません。ふたりとも、「部落外」の人間なのです。筆者は、この『部落学序説』を執筆するに際して、「差別(真)」の立場にたっていることを明言してきました。しかし、「部落解放同盟の方」は、被差別部落出身でないにもかかわらず、「部落民」として行動してこられました。被差別部落出身者、また、部落解放運動家として、いろいろな差別事件の糾弾に関与してこられました。その席では、まるで、ほんとうの部落民であるかのように振る舞ってこられました。筆者の「差別」・「被差別」の類型化を適用しますと、彼は、「被差別(偽)」、つまり、被差別部落出身ではないけれども被差別部落出身者として行動していることになります。つまり、『部落学序説』の筆者は、「被差別(偽)」の立場から批判されていることになります。彼の批判は、「被差別(真)」からの批判ではないのです。彼が、ほんとうに、自分を被差別部落出身者として同化させ被差別部落民になりきっているのか、単なる精神的似非同和行為なのか・・・、筆者の知るところではありませんが、自分の視角・視点・視座をあいまいにするところでは、ことばとふるまいもあいまいになってきます。『部落学序説』の執筆をはじめて9ヶ月になりますが、筆者は、まだ、一度も、「差別(真)」からの批判は受けていません。「被差別(偽)」の立場から「差別(真)」の筆者への批判では、山口県北の寒村にある、ある「被差別部落」の古老と筆者の出会い、「被差別(真)」と「差別(真)」の関係を凌駕することはできません。

大島恋歌

大島恋歌


山口県光市の教育委員会関連の研究論文(55-09)に、《同和問題関係史料取扱いについて》という文章があります。


その冒頭部分で、「被差別地区住民の歴史資料は・・・苦悩の実態であり屈辱の歴史なのである」と記されています。また、本文中においても、「被差別部落住民に関する歴史資料は・・・苦悩の記録であり、耐え難い歴史なのである」、と再度記述されています。

しかし、私は、聴きたい・・・。

本当に被差別部落の人々の歴史は、触れてはならない、「苦悩の実態」・「屈辱の歴史」・「苦悩の記録」・「耐え難い歴史」なのでしょうか。そこにあるのは、影の世界、闇の世界だけであって、光や希望の世界はないのでしょうか。

わたしは、決して、そうは思わないのです。

光市教育委員会がいう、「苦悩の実態」・「屈辱の歴史」・「苦悩の記録」・「耐え難い歴史」ということばを連ねる論文には、このような史料が掲載されています。

(史料)
「大島郡M村、茶筅彦右衛門次男、浅兵衛、平人の娘と馴れ合い、あまつさえ、仲間の者多人数へ乱暴せしめ候趣に付遠島。同断、懸り合い、K村百姓孫兵衛りんこと、茶筅浅兵衛の父、彦右衛門へ引き渡し仰付られ、以来平人に立ち戻り候に於いては重く相咎めらるべく断、沙汰仰付られ・・・」

その史料に対して、光市教育委員会は次のような解釈をほどこしています。

(光市教育委員会の解釈)
「これは・・・茶筅の浅兵衛がK村(隣村)の百姓娘りんと「馴れ合い」で、仲間の者多人数へ乱暴し、事件が明るみに出た。そして、K村の百姓りんは、父浅兵衛に身柄を渡され「以来平人に立ち戻るにおいては重く相咎め」とあって、茶筅身分に落とされているのである」。

この史料を筆者が、『部落学序説』の立場から解釈しますと、この話は、百姓の娘りんに焦点をあてて読むことになります。

「りんは、浅兵衛が、十手を預かる役人であることを知っていました。当時の習俗では、茶筅は、近世幕藩体制かの司法・警察である穢多身分で、15歳を過ぎると、家業を継いで、十手持ちの訓練をうけなければなりませんでした。15歳になると、子どもの頃一緒にあそんだ、百姓や町人出身の幼なじみとも別れをつげ、村の治安を守る警察職務に従事しなければなりませんでした。職務に関することは、たとえそれが幼なじみであったとしても漏洩することは禁止されていました。穢多身分は、その職務の遂行上、百姓とは別火・別婚の掟に従っていました。しかし、百姓の娘りんは、あるときから、隣村の青年、茶筅の浅兵衛が好きになりました。浅兵衛も、百姓の娘と知りつつ、りんが好きになり、ふたりは、人目をしのんで合いびきをするようになりました。それを、仲間の茶筅にからかわれた浅兵衛は彼らとけんかをするはめになりました。しかし、多勢に無勢、浅兵衛は、仲間の茶筅たちによって、海に投げ落とされてしまいました・・・。そんな話が、奉行に伝わり、浅兵衛と百姓の娘りんは、奉行所でお取り調べを受けることになりました。奉行は、百姓娘りんの、茶筅浅兵衛に対する愛の深いことを知って、無理やりに両者を引き裂くと、百姓娘りんは、世をはかなんで死んでしまうかもしれない・・・と思うようになりました。それは、不憫極まりない・・・と思った奉行は、百姓娘りんの決意を確かめたうえで、判決を言い渡しました。「百姓の娘・りんが、茶筅・浅兵衛と交わるは決して許されるものではない。よって、百姓の娘りんに厳罰を言い渡す。百姓の娘・りんを茶筅浅兵衛の父、彦右衛門預けとする。以降は、百姓の娘であることを捨て、十手持ち、茶筅浅兵衛の女房としてその職務を支えるよう。茶筅・浅兵衛がお仕置きを終えて遠島から帰ってくるまで、義父彦右衛門のもとで、茶筅の女房として必要なことを学ぶがよい・・・」。茶筅・浅兵衛と百姓の娘・りんは奉行の前で、その裁きに感謝して、深くあたまをさげました。娘りんの行く末を心配していた、奉行の御裁定を見守っていた父の百姓・孫兵衛も、浅兵衛の父茶筅・彦右衛門も、奉行の寛大な裁きに深く感謝した・・・(時代劇の見過ぎかもしれませんが・・・)。そう解釈しますと、この事件は、被差別部落の人が受けた屈辱の判決、百姓の娘りんが、賤しい茶筅身分に落とされたひどい差別的な判決ではなく、人情味溢れる奉行が作り出した「大島恋歌」であると思われます。

私は、差別問題に触れるとき、この話をよくいたします。

ひとつのできごとをどう解釈するのか、それは、解釈者がどの立場に立って、そのできごとを眺めるかによって大きく異なってきます。「差別(真)」・「被差別(偽)」・「被差別(真)」・「差別(偽)」のいずれにたってできごとをみるかによって、解釈も大きく異なってくるのです。

日本の歴史学に内在する差別思想である賤民史観の立場に立つ光市教育委員会の解釈もひとつの解釈かもしれませんが、『部落学序説』の視角・視点・視座からみた、筆者の解釈も捨て難い解釈のひとつではないかと思っています。私は、被差別部落に関する資料をみるとき、「差別(真)」と「百姓」の立場から、その史料・伝承を解析することにしているのです。

学者や研究者、教育者からは、「この文献から、どうして、そんな解釈を引き出すの? おかしいんじゃないの?
あなたは、部落差別の厳しさを全然認識していない!」とお叱りを受けるかもしれません。いままでに、何度もそのような反応に接したことがあります。

しかし、私の感性では、奉行が、百姓の娘・りんに対しても、二人が二度と再会することができないように、浅兵衛とは違う場所へ遠島を言い渡すこともできたはずですが、こともあろうに、奉行は、好きになった相手の父親に預けるという予想外の判決を出しているという一点から、上記の解釈に思い至ったのです。

山口に赴任してきたとき、私が最初に図書館で調べていたのは、キリシタン弾圧の歴史と観音信仰の歴史でした。それにまつわる名所旧跡を尋ね、図書館で史料を漁っていました。世の中から見捨てられた人々の歴史の足跡を尋ねていたのです。

光市の室積の象鼻ヶ崎に、小さなお堂があって、その境内に、「遊女の碑」があります。

知人と写真を撮りに行ったとき、浜辺には、真っ赤な椿の花が散っていました。私の目には、遊女の悲哀をいまに伝えているように見えて、その象鼻ヶ崎の真言宗のお堂から、同じ、真言宗の、観音菩薩の浄土と言われる周防国極楽寺への旅をしたのです。中世の天皇勅願寺の寺は、尋ねる人も少なく、蝉時雨の静けさの中に建っていましたが、名所旧跡も、尋ねる人、それぞれに異なる姿を見せてくれます。観音菩薩は、巡礼をする人と同じ姿をとって現れるというのは、本当かもしれません。学歴もなく、資格もなく、ただ、山口の地に棲息しているだけの私は、今も、史料や文献の中に出てくる伝承を尋ね、こころの旅を続けているのです。

『部落学序説』の筆者である私のペンネームは「吉田向学」です。私の曾祖父(江戸時代に生まれ明治時代に世を去った)の名前です。江戸時代末期から明治初期を生き抜いた曾祖父の名前は、向学、祖父は、永学。先祖は、みんな、その名前のどこかに「学」という字が組み込まれていますが、信州(長野県)の熱心な神道の支持者であったようです。百姓の家系なので、みんな無学で、ただのひとです。

百姓の末裔が、百姓の目で、近世・近代・現代という歴史の諸相をみることに何の不自然さもありません。逆に、「藩士」・「士雇」・「穢多」・「非人」の目で、近世・近代・現代という歴史の諸相をみることには、どことなく、違和感がつきまといます。何か詐欺師になったような感じ・・・。ですから、『部落学序説』の筆者である私は、「われここに立つ!」という思いを大切にしているのです。

古老の語る伝承は真実

 古老の語る伝承は真実

「部落学」は、成立するのでしょうか。

筆者の「部落学」構築のきっかけは、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老から聞いた証言でした。

筆者が、いろいろな人にその古老の話をすると、いつも、同じ答えが返ってきます。「厳しい差別をやわらげるために、被差別部落の人々が、自分で自分をなぐさめるために作った妄想でしかない・・・」、と。常識や通説に照らして感想を述べられる人が多いのですが、被差別部落の古老の話は本当に妄想なのでしょうか。

常識や通説と違う話・・・、そういう話にであったとき、私たちはどうすればいいのか。

柳田国男は、「事実を基にして考えてみる学問、どんなに小さな事実でも粗末にせぬ態度、少し意外な事実に出逢うと、すぐに人民は無知だからだの、誤っているのだと言ってしまわずに、はたしてたしかにそのようなことがあるか。あるならどういう原因からであろうかと、覚り得るまでは疑問にして持っているような研究方法」の大切さを説いています。常識や通説と違う話に遭遇したとき、私は少なくとも柳田の教えに忠実でありたいと思っています。

もし、被差別部落の古老が語る話が単なる「妄想」でしかないとしたら、その「妄想」を歴史的な事実・真実として信じてきた筆者は、単なるピエロになってしまうでしょう。しかし、そのとき、笑われるのは、そう信じた筆者ひとりです。しかし、笑われるのを恐れて、「研究者」や他の多くの学者に同調して、自説を撤回し、この『部落学序説』を破棄してしまって、そのあと、もし、被差別部落の古老の語る伝承が真実であることがわかったとしたら、筆者は、笑われることを恐れた代償として、もっと大切なものを失ってしまうことになるでしょう。

筆者は、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の聞き取り調査に同行した「研究者」の、「厳しい差別をやわらげるために、被差別部落の人々が、自分で自分をなぐさめるために作った妄想でしかない・・・」という見解より、自分の目と耳を信じたい・・・。

あの被差別部落の古老の話は、決して、「厳しい差別からのがれるために、自分で自分をなぐさめるために作った妄想」ではない、と。

「研究者」の抗議で、本来ならもっとあとで言及するはずの話を早急にしなければならなくなりました。

柳田国男の言葉にしたがって、被差別部落の古老の話を胸にあたためながら、隣市の市立図書館の郷土史料室に通ったり、また、近くの書店で関連書籍を漁っていたある日、磯村英一の言葉が目に飛び込んできました。そこには、明治4年の太政官布告に関する記述がありまし。磯村英一によると、「身分解放令」と一般的に言われていることは、「教科書だけではない。ほとんどの研究者までが、この政令を高く評価する。しかし実はこの措置に”明治以降の差別”の原因が生まれたことはあまり解明されていない・・・。強いていえば、身分解放令そのものが、新しい差別を生んだことになる。このことが、同和問題・部落解放をどれだけ難しくしたかは、必ずしも一般に知られていない。」という、驚くべき内容でありました。

磯村英一は、同和対策審議会答申の策定に中心的な役割を果たした人で、地域改善対策協議会の会長までされた人です。いわば、国の同和行政の中心的な要にいる磯村が、なぜ、「明治4年の太政官布告を身分解放令」とする、常識と化した通説をこのように批判するのか。磯村の言葉は、そのまま、国の方針の転換を代弁した・・・として受け止められても仕方がない状況の中で、なぜ、そのような言葉を文書に残したのか・・・。

私は、ある被差別部落の古老の話は、この磯村の言葉に照らしても真実である可能性があると確信するようになりました。明治4年の太政官布告は、本当は、身分解放令ではなく、被差別部落の人を差別のどん底に突き落とすものであったのだと。「身分解放令そのものが、新しい差別を生んだ・・・」という磯村の言葉は、あの被差別部落の古老の語る証言を歴史的な真実であると証明する非常に有力な証拠であると思うようになりました。

磯村英一は、運動団体(部落解放同盟)によって、激しい非難を受けました。

「磯村会長を中心とする地対協の大学の先生方は、この一番大切なときに権力に屈してしまった」、「学者が権力に屈伏した」・・・と、当時の部落解放同盟の執行部は、地域改善対策協議会と磯村英一を激しく非難しました。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという、その批判の激しさには絶句しますが、磯村英一の「身分解放令そのものが、新しい差別を生んだ」という見解は、その批判の前で、ほとんどの人に省みられることなく姿を消してしまいました。磯村の言葉の中に、部落差別完全解消への、国家レベルの新たな提言を読み取る人が一人でもいれば、部落差別問題は、解決に向けて大きく一歩を歩みはじめたのではないかと思います。「部落差別の根源的解消より、既存の権益の上にたった同和対策事業の継続」を求めた被差別部落の人々も、磯村の言葉に耳を傾けることはありませんでした。

しかし、磯村英一のことばは、筆者をして、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の語った話を真実であると受け止めさせたのです。

2021/10/04

北川門下生として

北川門下生として

古島敏雄の『地方史研究法』は、学歴も資格も持ち合わせていない筆者のようなものにも、歴史学がなんであるのか、歴史学の知識や技術をわかりやすく提供してくれます。

筆者は、偉大な学者というのは、そういうものかといつも思っています。

古島は、「地域の歴史を知るためには、そこの歴史をすみずみまで明らかにしてくれる書物がなくても、ばらばらの経験を整理する頭と、努力さえあればよいのである。その頭の根本は、大きくは物事を合理的に考えることであり、さらにその根本は素直に読み、素直に整理していくことにある」といいます。そして、「こういう態度を養う」には、「すぐれた個別研究を努力して読んでみることが必要である」というのです。

筆者にとって、「すぐれた個別研究」に該当するのは、山口県立文書館の元研究員(出会った当時は、研究員)の北川健先生です。北川健先生だけを先生と敬称をつけるのは、部落差別問題に関する集会で何度かお会いし、いろいろ教えていただいたことがあるからです。さらに、筆者は、彼が執筆した論文の大半は精読しているつもりです。彼は、その研究論文において、しばしば、使用する概念の定義について言及しています。

筆者は、部落研究・部落問題研究・部落史研究において、研究成果が、とりとめもない種々雑多な見解の乱立に終わる・・・傾向は、歴史研究を遂行するときの概念が明確に定義されていないためであると思っています。「部落」・「部落民」という、極めて基本的な概念ですら、学者・研究者・教育者の恣意的な解釈にさらされています。Aという学者・研究者の理解する「部落」・「部落民」という概念の外延と内包が、Bという学者・研究者のそれとまったく異なる場合もあります。しかし、部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる学者・研究者・教育者の多くは、「部落」・「部落民」という概念の外延と内包を明らかにすることには興味がなさそうです。

33年間15兆円を費やして実施された同和対策事業・同和教育事業においては、「部落」・「部落民」という概念ではなく、「同和地区」・「同和地区住民」という概念が採用されているのも、その一因かもしれません。

歴史的に考察すると、「部落」=「同和地区」、「部落民」=「同和地区住民」の等式は成立しないのです。「部落」ではなくても「同和地区」指定されている場合もありますし、「部落」であっても「同和地区」指定されていない場合(「未指定地区」)も多々あるからです。「同和地区」指定のあいまいさは、その「同和地区住民」のあいまいさにつながっていきます。「部落」・「部落民」の歴史にかかわらず、中央政府や地方行政によって、「同和地区」・「同和地区住民」の認定がされたら、その地域と住人は、「同和地区」・「同和地区住民」になってしまいます。

逆に、中央政府や地方行政によって、「同和地区」・「同和地区住民」として認定されることで、「部落」・「部落民」ではない人々も、「部落」・「部落住民」という意識を持つようになってしまいます。

「部落」・「部落民」という概念だけでなく、「被差別部落」の属性を説明するときに使用される、「賤」・「穢」・「屠」というような概念についても、学者・研究者・教育者によって、明確な定義がなされないまま、恣意的に使用されている場合が多いのです。部落研究・部落問題研究・部落史研究において、同じテーマが取り扱われたとしても、基本概念のあいまいさが禍して、その研究結果は、十人十色、千差万別となります。

その点、北川先生の論文は、要所要所で、定義(概念・外延・内包)を明示しておられます。筆者は、山口県の「部落史」については、北川先生の歴史研究に負うところが多いのです。

あるとき、北川先生に、「先生の研究を押し進めていったら、結論として、こういうふうになりませんか・・・」、とお尋ねしたら、北川先生は、無学な筆者の言葉を否定されないで、「その可能性はある。私はいままで書いた論文に責任があるから、その論文は君が書いたらいい・・・」と勧めてくださいました。『部落学序説』執筆のきっかけであるだけでなく、『部落学序説』執筆中も、北川先生の影響は大きいものがあります。

筆者の、山口県の「部落史」に関する知識や技術は、北川先生から学んだものです。

筆者は、北川先生の論文を自分の足で歩いて確かめました。彼の書いた論文は、事実でした。筆者は、彼の論文は信頼に足る論文であると思っています。

しかし、同じ文書館で研究員をされていたもうひとりの研究員(布引敏雄)の論文は、足で歩いて確かめると、いろいろ問題があることがわかりました。資料批判が徹底されていないのです。ひとつの事件に二つの異なる文書が残されている場合、彼は、どれが史実に近いか、資料批判という基本作業をしないで、部落解放運動や同和教育の一般的傾向や通説にあわせて、被差別部落の人々を、よりみじめで哀れで気の毒であると思われる方の資料をコメントも付けないで採用しているからです。彼の論文を読むだけならともかく、その論文を自分の足であるいて確かめたという立場からは、彼の論文はそのまま受け入れることができないものを数多く含んでいます。

あるとき、山口県宇部市の「被差別部落」の中にある隣保館で、宇部市教育委員会の主催した集会で講師を頼まれたことがありました。北川先生が講演された次の回で、講演を頼まれたのです。筆者にとっては、いまだに信じがたい体験でしたが、講演を前に、北川先生に連絡して、「私は、学歴も資格ももっていないので、北川門下生を名乗っていいでしょうか・・・」とお願いしたのですが、北川先生は、こころよく、「君ならいいよ・・・」、と了承してくださいました。

もちろん、「北川門下生」を名乗ったのはそのとき一回限りですが、筆者は、そのとき、あらためて、北川先生は偉大な人物だと思うようになりました。筆者のそれまでの経験では、無学歴・無資格の筆者から、少しく関係があるかのような話をすると、多くの学者・研究者・教育者に迷惑がられるのがほとんどでしたから・・・。

宇部市の隣保館での講演は、筆者が被差別部落の中でした、最初で最後の講演でした。筆者は、「文献」と「伝承」をおりまぜてお話をしました。周防国の被差別部落の所在を示す古地図や、筆者が撮影した「穢多寺」の写真をお見せし、「大島恋歌」などの伝承の解釈方法を提示しました。講演のあと、被差別部落の年配の方と青年の方2人が、筆者の話について感想を話してくださいましたが、「今日の講演の内容は、はじめて耳にすることが多かったです。講演を聞きながら、自分たちの歴史は、自分たちで調べなければ・・・と思いました。どのようにしたら、あなたのように、部落の歴史を掘り起こすことができるのか、ぜひ、今日話されたことを文章化して、私たちがいつでも読めるようにしてくだされば・・・」という趣旨のことを言われました。筆者は、そのとき、文章化を約束して帰ってきたのですが、約束したまま、その約束を果たさないで、今日に至っています。

『部落学序説-非常民の学としての部落学構築を目指して』を書き上げたら、その被差別部落の人々にも送付しなければなりません。

部落学序説執筆過程でよく使う手法は、学者・研究者・教育者の論文を比較検証するという方法です。私は、北川健先生以外、学識経験者と名のつくひとと人間的なつながりはありません。無学歴・無資格である筆者には、当然、教授と学生という、教えたり教えられたりというつながりもありません。あるのは、学者・研究者・教育者が書いた「論文」だけです。どの、学者・研究者・教育者の論文を読んでも、筆者の頭の中に、その顔がちらつくということはありません。筆者は、その「テキスト」を前にして、「テキスト」批判に徹することになります。

学者・研究者・教育者の論文の比較をするわけですから、比較元と比較先を名前をあげて明記することになるでしょう。

ある人は、日本では、そのような研究方法は、「歴史学」の研究方法としては、一般的ではないといいます。大切なのは、「歴史学」の学術論文として、それに相応しい様式と手続きを踏んでいるかどうかにあるのであって、研究論文の内容ではないというのです。そのひとの話ですと、「歴史学」においては、場合によっては、歴史研究の相反する結論が、同時に学術論文として認められる場合もあるといいます。学歴も資格もない筆者には、そのあたりの事情はよく分かりませんが、どのような学問であったとしても、「真実」にどれだけたどり着けたかということが最も大切なことではないのか・・・と思います。研究の「手続き」さえよければ、研究の「内容」はどうでもいい・・・、というのは、問題ではないでしょうか。そんなことがまかり通っていれば、日本の歴史学はやがて学問(科学)としての信頼性を失うことになるのではないでしょうか・・・。

『部落学序説』執筆の旅は、すでにはじまっています。

「大切なこと」を忘れていると連絡をくださるひともいるし、それに筆者自身で気づく場合もあります。無学歴・無資格の筆者であるゆえ、これからもいろいろな錯誤に陥ることもあるでしょう。しかし、だからといって、『部落学序説』の執筆に反対しておられる方々の要望にそって、この論文の執筆を断念することはできません。『部落学序説』の執筆をはじめてすぐ、「折り返し不能点」を超えてしまった感があるからです。始めた旅を、旅の目的地にたどりつくまで、続けなければなりません。無学歴・無資格ゆえに、旅に必要な十分な装備がなくても、『部落学序説』執筆の旅を最後まで続けようと思います。装備の不備は、必要に応じて、現地調達すればことたりるのですから・・・。

大切なのは、はじめた旅を続けることです。

そして、目的地にたどり着くことです。


百姓と穢多

賤民史観は、はだかの王様の、

目には見えない、詐欺師の衣装。
みんな、それが現実に、あると思っているけれど、
そんなもの、本当は、どこにもありゃしない。
わたしには、見えない。本当にみえない。
ないからないと言って、なぜいけないの?
もともとないのは、幻想よ。

賤民史観は、無能な学者のかくれみの。
なんでもかんでも、「賤民」と、いう器に、投げ込めば、済むと思っている。
怠惰な、歴史学者のための、便利な道具。
味噌も糞もいっしょにし、
賤民解放令、なぞとのたまわる。
江戸の風俗取り締まる穢多と、遊女をごちゃまぜにして、
差別は、複雑怪奇・由来不詳とのたまわる。
説教強盗顔負けの、歴史学者を信じるな。

賤民史観脱ぎ捨てて、裸になったらわかるぞな。
歴史学者も部落のひとも、人間みんな同じだ。
むしろを旗に声をあげ、
竹や鍬を振りかざし、一揆起こした百姓の
末裔なればわかるぞな。

そのときどこにいたのやら、穢多と茶筅と宮番は。
うらみつらみはないければ、本当のことをいってやる。
あんたは当時の警察官。たくさん集まりゃ機動隊。
非常のときはかけつけて、盗人捕まえ、村守る。
差別どころか、感謝のことば。

中にはいるぞ、規律違反。
盗人働きする警官、そんな不祥事探し出し、
差別、差別とはなんなんぞ。
悪いことすりゃ警官も、お縄を受けて牢暮らし。
村人みんな寝静まる、冬の夜空のその下で、
村の家々見て回る、そんな姿もみてるぞな。
百姓みんなそのせいで、朝がくるまで安眠よ。

明治に入り、全国津々浦々に、番人配置したのは天皇だ、
そんなたよりが届いた日、嬉し涙にむせぶ穢多。
やっと苦労が報われた・・・。

そこへ、おいかけるようにやってきた、知らせときたら、外交上の問題で、
近世警察解体を、しなきゃならぬという知らせ。
日本の国辱・治外法権撤廃の、ために、犠牲になりやんせ。
身に与り知らぬ草莽の汚名をすべて着せられて、
野に放たれて呻吟す。
お上のためなら耐えねばならぬ、
そんな忠義がわざわいし、いつのまにやら差別のるつぼ。
出るに出られぬ罠の中。

由緒正しき百姓は、いつまでたっても常民よ。

穢多や茶筅や宮番は、そんな常民守るため、
何ぞ非常のあるときは、一身すべて投げうちて、治安の維持にはげみたる
穢多の名前は非常民。

庄屋と村の三役は、十手持つ故、穢多や茶筅と同じぞな。
かれらもみんな非常民。丑松、半蔵、同じぞ。
由緒正しき貧(どん)百姓の末裔語るこのはなし、
ほんとうの、ほんとうの話ぞよ。

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※この文章は、「部落解放同盟の方」の要望に答えたものです。彼は、「『部落学序説』で何を訴えようとしているのか、最初に結論を明示すべきである・・・」というのです。筆者は、『部落学序説』で大切なことは、論証の「過程」であって、「結論」ではない・・・と主張したのですが、彼は納得できず、あくまで「結論」を先取りしようとしました。『部落学序説』の初期の大切な読者でしたから、彼の要望に応えて、書いたのが、上記の「詩」です。しかし、結局、「部落解放同盟の方」には、筆者の考え方はつたわらなかったようです。

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...