2021/10/05

古老の語る伝承は真実

 古老の語る伝承は真実

「部落学」は、成立するのでしょうか。

筆者の「部落学」構築のきっかけは、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老から聞いた証言でした。

筆者が、いろいろな人にその古老の話をすると、いつも、同じ答えが返ってきます。「厳しい差別をやわらげるために、被差別部落の人々が、自分で自分をなぐさめるために作った妄想でしかない・・・」、と。常識や通説に照らして感想を述べられる人が多いのですが、被差別部落の古老の話は本当に妄想なのでしょうか。

常識や通説と違う話・・・、そういう話にであったとき、私たちはどうすればいいのか。

柳田国男は、「事実を基にして考えてみる学問、どんなに小さな事実でも粗末にせぬ態度、少し意外な事実に出逢うと、すぐに人民は無知だからだの、誤っているのだと言ってしまわずに、はたしてたしかにそのようなことがあるか。あるならどういう原因からであろうかと、覚り得るまでは疑問にして持っているような研究方法」の大切さを説いています。常識や通説と違う話に遭遇したとき、私は少なくとも柳田の教えに忠実でありたいと思っています。

もし、被差別部落の古老が語る話が単なる「妄想」でしかないとしたら、その「妄想」を歴史的な事実・真実として信じてきた筆者は、単なるピエロになってしまうでしょう。しかし、そのとき、笑われるのは、そう信じた筆者ひとりです。しかし、笑われるのを恐れて、「研究者」や他の多くの学者に同調して、自説を撤回し、この『部落学序説』を破棄してしまって、そのあと、もし、被差別部落の古老の語る伝承が真実であることがわかったとしたら、筆者は、笑われることを恐れた代償として、もっと大切なものを失ってしまうことになるでしょう。

筆者は、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の聞き取り調査に同行した「研究者」の、「厳しい差別をやわらげるために、被差別部落の人々が、自分で自分をなぐさめるために作った妄想でしかない・・・」という見解より、自分の目と耳を信じたい・・・。

あの被差別部落の古老の話は、決して、「厳しい差別からのがれるために、自分で自分をなぐさめるために作った妄想」ではない、と。

「研究者」の抗議で、本来ならもっとあとで言及するはずの話を早急にしなければならなくなりました。

柳田国男の言葉にしたがって、被差別部落の古老の話を胸にあたためながら、隣市の市立図書館の郷土史料室に通ったり、また、近くの書店で関連書籍を漁っていたある日、磯村英一の言葉が目に飛び込んできました。そこには、明治4年の太政官布告に関する記述がありまし。磯村英一によると、「身分解放令」と一般的に言われていることは、「教科書だけではない。ほとんどの研究者までが、この政令を高く評価する。しかし実はこの措置に”明治以降の差別”の原因が生まれたことはあまり解明されていない・・・。強いていえば、身分解放令そのものが、新しい差別を生んだことになる。このことが、同和問題・部落解放をどれだけ難しくしたかは、必ずしも一般に知られていない。」という、驚くべき内容でありました。

磯村英一は、同和対策審議会答申の策定に中心的な役割を果たした人で、地域改善対策協議会の会長までされた人です。いわば、国の同和行政の中心的な要にいる磯村が、なぜ、「明治4年の太政官布告を身分解放令」とする、常識と化した通説をこのように批判するのか。磯村の言葉は、そのまま、国の方針の転換を代弁した・・・として受け止められても仕方がない状況の中で、なぜ、そのような言葉を文書に残したのか・・・。

私は、ある被差別部落の古老の話は、この磯村の言葉に照らしても真実である可能性があると確信するようになりました。明治4年の太政官布告は、本当は、身分解放令ではなく、被差別部落の人を差別のどん底に突き落とすものであったのだと。「身分解放令そのものが、新しい差別を生んだ・・・」という磯村の言葉は、あの被差別部落の古老の語る証言を歴史的な真実であると証明する非常に有力な証拠であると思うようになりました。

磯村英一は、運動団体(部落解放同盟)によって、激しい非難を受けました。

「磯村会長を中心とする地対協の大学の先生方は、この一番大切なときに権力に屈してしまった」、「学者が権力に屈伏した」・・・と、当時の部落解放同盟の執行部は、地域改善対策協議会と磯村英一を激しく非難しました。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという、その批判の激しさには絶句しますが、磯村英一の「身分解放令そのものが、新しい差別を生んだ」という見解は、その批判の前で、ほとんどの人に省みられることなく姿を消してしまいました。磯村の言葉の中に、部落差別完全解消への、国家レベルの新たな提言を読み取る人が一人でもいれば、部落差別問題は、解決に向けて大きく一歩を歩みはじめたのではないかと思います。「部落差別の根源的解消より、既存の権益の上にたった同和対策事業の継続」を求めた被差別部落の人々も、磯村の言葉に耳を傾けることはありませんでした。

しかし、磯村英一のことばは、筆者をして、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の語った話を真実であると受け止めさせたのです。

2021/10/04

北川門下生として

北川門下生として

古島敏雄の『地方史研究法』は、学歴も資格も持ち合わせていない筆者のようなものにも、歴史学がなんであるのか、歴史学の知識や技術をわかりやすく提供してくれます。

筆者は、偉大な学者というのは、そういうものかといつも思っています。

古島は、「地域の歴史を知るためには、そこの歴史をすみずみまで明らかにしてくれる書物がなくても、ばらばらの経験を整理する頭と、努力さえあればよいのである。その頭の根本は、大きくは物事を合理的に考えることであり、さらにその根本は素直に読み、素直に整理していくことにある」といいます。そして、「こういう態度を養う」には、「すぐれた個別研究を努力して読んでみることが必要である」というのです。

筆者にとって、「すぐれた個別研究」に該当するのは、山口県立文書館の元研究員(出会った当時は、研究員)の北川健先生です。北川健先生だけを先生と敬称をつけるのは、部落差別問題に関する集会で何度かお会いし、いろいろ教えていただいたことがあるからです。さらに、筆者は、彼が執筆した論文の大半は精読しているつもりです。彼は、その研究論文において、しばしば、使用する概念の定義について言及しています。

筆者は、部落研究・部落問題研究・部落史研究において、研究成果が、とりとめもない種々雑多な見解の乱立に終わる・・・傾向は、歴史研究を遂行するときの概念が明確に定義されていないためであると思っています。「部落」・「部落民」という、極めて基本的な概念ですら、学者・研究者・教育者の恣意的な解釈にさらされています。Aという学者・研究者の理解する「部落」・「部落民」という概念の外延と内包が、Bという学者・研究者のそれとまったく異なる場合もあります。しかし、部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる学者・研究者・教育者の多くは、「部落」・「部落民」という概念の外延と内包を明らかにすることには興味がなさそうです。

33年間15兆円を費やして実施された同和対策事業・同和教育事業においては、「部落」・「部落民」という概念ではなく、「同和地区」・「同和地区住民」という概念が採用されているのも、その一因かもしれません。

歴史的に考察すると、「部落」=「同和地区」、「部落民」=「同和地区住民」の等式は成立しないのです。「部落」ではなくても「同和地区」指定されている場合もありますし、「部落」であっても「同和地区」指定されていない場合(「未指定地区」)も多々あるからです。「同和地区」指定のあいまいさは、その「同和地区住民」のあいまいさにつながっていきます。「部落」・「部落民」の歴史にかかわらず、中央政府や地方行政によって、「同和地区」・「同和地区住民」の認定がされたら、その地域と住人は、「同和地区」・「同和地区住民」になってしまいます。

逆に、中央政府や地方行政によって、「同和地区」・「同和地区住民」として認定されることで、「部落」・「部落民」ではない人々も、「部落」・「部落住民」という意識を持つようになってしまいます。

「部落」・「部落民」という概念だけでなく、「被差別部落」の属性を説明するときに使用される、「賤」・「穢」・「屠」というような概念についても、学者・研究者・教育者によって、明確な定義がなされないまま、恣意的に使用されている場合が多いのです。部落研究・部落問題研究・部落史研究において、同じテーマが取り扱われたとしても、基本概念のあいまいさが禍して、その研究結果は、十人十色、千差万別となります。

その点、北川先生の論文は、要所要所で、定義(概念・外延・内包)を明示しておられます。筆者は、山口県の「部落史」については、北川先生の歴史研究に負うところが多いのです。

あるとき、北川先生に、「先生の研究を押し進めていったら、結論として、こういうふうになりませんか・・・」、とお尋ねしたら、北川先生は、無学な筆者の言葉を否定されないで、「その可能性はある。私はいままで書いた論文に責任があるから、その論文は君が書いたらいい・・・」と勧めてくださいました。『部落学序説』執筆のきっかけであるだけでなく、『部落学序説』執筆中も、北川先生の影響は大きいものがあります。

筆者の、山口県の「部落史」に関する知識や技術は、北川先生から学んだものです。

筆者は、北川先生の論文を自分の足で歩いて確かめました。彼の書いた論文は、事実でした。筆者は、彼の論文は信頼に足る論文であると思っています。

しかし、同じ文書館で研究員をされていたもうひとりの研究員(布引敏雄)の論文は、足で歩いて確かめると、いろいろ問題があることがわかりました。資料批判が徹底されていないのです。ひとつの事件に二つの異なる文書が残されている場合、彼は、どれが史実に近いか、資料批判という基本作業をしないで、部落解放運動や同和教育の一般的傾向や通説にあわせて、被差別部落の人々を、よりみじめで哀れで気の毒であると思われる方の資料をコメントも付けないで採用しているからです。彼の論文を読むだけならともかく、その論文を自分の足であるいて確かめたという立場からは、彼の論文はそのまま受け入れることができないものを数多く含んでいます。

あるとき、山口県宇部市の「被差別部落」の中にある隣保館で、宇部市教育委員会の主催した集会で講師を頼まれたことがありました。北川先生が講演された次の回で、講演を頼まれたのです。筆者にとっては、いまだに信じがたい体験でしたが、講演を前に、北川先生に連絡して、「私は、学歴も資格ももっていないので、北川門下生を名乗っていいでしょうか・・・」とお願いしたのですが、北川先生は、こころよく、「君ならいいよ・・・」、と了承してくださいました。

もちろん、「北川門下生」を名乗ったのはそのとき一回限りですが、筆者は、そのとき、あらためて、北川先生は偉大な人物だと思うようになりました。筆者のそれまでの経験では、無学歴・無資格の筆者から、少しく関係があるかのような話をすると、多くの学者・研究者・教育者に迷惑がられるのがほとんどでしたから・・・。

宇部市の隣保館での講演は、筆者が被差別部落の中でした、最初で最後の講演でした。筆者は、「文献」と「伝承」をおりまぜてお話をしました。周防国の被差別部落の所在を示す古地図や、筆者が撮影した「穢多寺」の写真をお見せし、「大島恋歌」などの伝承の解釈方法を提示しました。講演のあと、被差別部落の年配の方と青年の方2人が、筆者の話について感想を話してくださいましたが、「今日の講演の内容は、はじめて耳にすることが多かったです。講演を聞きながら、自分たちの歴史は、自分たちで調べなければ・・・と思いました。どのようにしたら、あなたのように、部落の歴史を掘り起こすことができるのか、ぜひ、今日話されたことを文章化して、私たちがいつでも読めるようにしてくだされば・・・」という趣旨のことを言われました。筆者は、そのとき、文章化を約束して帰ってきたのですが、約束したまま、その約束を果たさないで、今日に至っています。

『部落学序説-非常民の学としての部落学構築を目指して』を書き上げたら、その被差別部落の人々にも送付しなければなりません。

部落学序説執筆過程でよく使う手法は、学者・研究者・教育者の論文を比較検証するという方法です。私は、北川健先生以外、学識経験者と名のつくひとと人間的なつながりはありません。無学歴・無資格である筆者には、当然、教授と学生という、教えたり教えられたりというつながりもありません。あるのは、学者・研究者・教育者が書いた「論文」だけです。どの、学者・研究者・教育者の論文を読んでも、筆者の頭の中に、その顔がちらつくということはありません。筆者は、その「テキスト」を前にして、「テキスト」批判に徹することになります。

学者・研究者・教育者の論文の比較をするわけですから、比較元と比較先を名前をあげて明記することになるでしょう。

ある人は、日本では、そのような研究方法は、「歴史学」の研究方法としては、一般的ではないといいます。大切なのは、「歴史学」の学術論文として、それに相応しい様式と手続きを踏んでいるかどうかにあるのであって、研究論文の内容ではないというのです。そのひとの話ですと、「歴史学」においては、場合によっては、歴史研究の相反する結論が、同時に学術論文として認められる場合もあるといいます。学歴も資格もない筆者には、そのあたりの事情はよく分かりませんが、どのような学問であったとしても、「真実」にどれだけたどり着けたかということが最も大切なことではないのか・・・と思います。研究の「手続き」さえよければ、研究の「内容」はどうでもいい・・・、というのは、問題ではないでしょうか。そんなことがまかり通っていれば、日本の歴史学はやがて学問(科学)としての信頼性を失うことになるのではないでしょうか・・・。

『部落学序説』執筆の旅は、すでにはじまっています。

「大切なこと」を忘れていると連絡をくださるひともいるし、それに筆者自身で気づく場合もあります。無学歴・無資格の筆者であるゆえ、これからもいろいろな錯誤に陥ることもあるでしょう。しかし、だからといって、『部落学序説』の執筆に反対しておられる方々の要望にそって、この論文の執筆を断念することはできません。『部落学序説』の執筆をはじめてすぐ、「折り返し不能点」を超えてしまった感があるからです。始めた旅を、旅の目的地にたどりつくまで、続けなければなりません。無学歴・無資格ゆえに、旅に必要な十分な装備がなくても、『部落学序説』執筆の旅を最後まで続けようと思います。装備の不備は、必要に応じて、現地調達すればことたりるのですから・・・。

大切なのは、はじめた旅を続けることです。

そして、目的地にたどり着くことです。


百姓と穢多

賤民史観は、はだかの王様の、

目には見えない、詐欺師の衣装。
みんな、それが現実に、あると思っているけれど、
そんなもの、本当は、どこにもありゃしない。
わたしには、見えない。本当にみえない。
ないからないと言って、なぜいけないの?
もともとないのは、幻想よ。

賤民史観は、無能な学者のかくれみの。
なんでもかんでも、「賤民」と、いう器に、投げ込めば、済むと思っている。
怠惰な、歴史学者のための、便利な道具。
味噌も糞もいっしょにし、
賤民解放令、なぞとのたまわる。
江戸の風俗取り締まる穢多と、遊女をごちゃまぜにして、
差別は、複雑怪奇・由来不詳とのたまわる。
説教強盗顔負けの、歴史学者を信じるな。

賤民史観脱ぎ捨てて、裸になったらわかるぞな。
歴史学者も部落のひとも、人間みんな同じだ。
むしろを旗に声をあげ、
竹や鍬を振りかざし、一揆起こした百姓の
末裔なればわかるぞな。

そのときどこにいたのやら、穢多と茶筅と宮番は。
うらみつらみはないければ、本当のことをいってやる。
あんたは当時の警察官。たくさん集まりゃ機動隊。
非常のときはかけつけて、盗人捕まえ、村守る。
差別どころか、感謝のことば。

中にはいるぞ、規律違反。
盗人働きする警官、そんな不祥事探し出し、
差別、差別とはなんなんぞ。
悪いことすりゃ警官も、お縄を受けて牢暮らし。
村人みんな寝静まる、冬の夜空のその下で、
村の家々見て回る、そんな姿もみてるぞな。
百姓みんなそのせいで、朝がくるまで安眠よ。

明治に入り、全国津々浦々に、番人配置したのは天皇だ、
そんなたよりが届いた日、嬉し涙にむせぶ穢多。
やっと苦労が報われた・・・。

そこへ、おいかけるようにやってきた、知らせときたら、外交上の問題で、
近世警察解体を、しなきゃならぬという知らせ。
日本の国辱・治外法権撤廃の、ために、犠牲になりやんせ。
身に与り知らぬ草莽の汚名をすべて着せられて、
野に放たれて呻吟す。
お上のためなら耐えねばならぬ、
そんな忠義がわざわいし、いつのまにやら差別のるつぼ。
出るに出られぬ罠の中。

由緒正しき百姓は、いつまでたっても常民よ。

穢多や茶筅や宮番は、そんな常民守るため、
何ぞ非常のあるときは、一身すべて投げうちて、治安の維持にはげみたる
穢多の名前は非常民。

庄屋と村の三役は、十手持つ故、穢多や茶筅と同じぞな。
かれらもみんな非常民。丑松、半蔵、同じぞ。
由緒正しき貧(どん)百姓の末裔語るこのはなし、
ほんとうの、ほんとうの話ぞよ。

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※この文章は、「部落解放同盟の方」の要望に答えたものです。彼は、「『部落学序説』で何を訴えようとしているのか、最初に結論を明示すべきである・・・」というのです。筆者は、『部落学序説』で大切なことは、論証の「過程」であって、「結論」ではない・・・と主張したのですが、彼は納得できず、あくまで「結論」を先取りしようとしました。『部落学序説』の初期の大切な読者でしたから、彼の要望に応えて、書いたのが、上記の「詩」です。しかし、結局、「部落解放同盟の方」には、筆者の考え方はつたわらなかったようです。

部落学固有の研究対象

 部落学は、部落に関する学です。

歴史学が歴史に関する学であり、社会学が社会に関する学であり、民俗学が民俗に関する学であるのと同じように、部落学は部落に関する学です。

部落学の研究対象としての「部落」を表現するにはどのような言葉があるのでしょうか。近世の幕藩体制の中で、「穢多村」と言われていたところは、明治4年の太政官布告以降は、「旧穢多村」と呼ばれるようになりました。

近世の幕藩体制下の「穢多村」と近代の明治初期の「旧穢多村」を同定するには、批判・検証が必要になるとおもいますが、「穢多村」と「旧穢多村」の外延はほぼ共通している・・・、と推定しても差し支えないのではないかと思います。

その「旧穢多村」は、日本が「国辱」として認識していた、治外法権という不平等条約撤廃の実現の可能性が見えはじめた頃から、「旧穢多村」に代えて、「特殊部落」という言葉が使用されるようになりました。

しかし、「旧穢多」から「特殊部落」への移行は、単なる名称の変更ではありませんでした。行政用語としての「特殊部落」は、「一般部落」から差別的に区別された表現として使用され、その外延は、「旧穢多」だけでなく、「その他の人々」をも含有するものでした。「旧穢多村」から「特殊部落」への名称の変更は、単なる名称変更ではなく、その概念の外延について、急激な拡大をともなっていたのです。外延がかわると、当然内包も変わってきます。

「旧穢多村」から「特殊部落」への概念の変遷は、単なる名称変更ではなく、概念の外延と内包において、大幅な変節がともなっていたのです。「特殊部落」という言葉がささやかれはじめた頃、「旧穢多」の外延は、明治政府の統計調査によると、約80万人でした。しかし、水平社宣言の頃には、「特殊部落民」の外延は約300万人であると言われています。「特殊部落」という言葉は、その外延として、「旧穢多」に加えて、その約3倍の「その他の人々」を含んでいたのです。

水平社宣言は、「全国に散在する我が特殊部落民よ・・・」という言葉ではじまっています。水平社宣言を朗読してみれば分かるのですが、後半に入ると、突然、「我々がエタである・・・」という言葉がでてきます。

最近の水平社宣言の研究によると、水平社宣言は、2種類の資料(西光万吉と栃木重吉の2者による執筆)から構成されていると言われます([07-50])。つまり、「特殊部落」に関する部分と、「エタ」に関する部分。両者は、本来異なる資料に属するというのです。その2種類の資料が併合・編集され、最後に、今のような宣言になったというのです。つまり、水平社宣言は、「特殊部落民」としての宣言と、「エタ」としての宣言と、その両方が編集によって合体されたものだというのです。

水平社宣言が出された当時、「旧穢多」身分の人々の中には、「特殊部落民」に数えられることを拒否した人々が相当数いたことが記録されています。彼らは、自らが「旧穢多」であることを認めつつ、「その他の人々」(明治後期に、政治的・社会的・経済的にその時代から取り残された士族や平民たち)と、混同されて同一視されて、「特殊部落民」とされることに強い反発を感じていたものと思われます。

「特殊部落」・「特殊部落民」は、「旧穢多」や「その他の人々」が、自分たちの存在を表現するために、自分たちの中から紡ぎだした言葉・表現・概念ではありませんでした。「特殊部落」・「特殊部落民」は、行政用語として、当時の政治家や官僚、学者・教育者等によって、「旧穢多」と「その他の人々」に、政策上、押しつけられた用語だったのです。水平社運動に参加した人々の多くは、行政用語としての「特殊部落」・「特殊部落民」という概念を自分たちの存在を示す表現として採用していったのです。「一般部落」から区別された、非常に差別的色彩の強い「特殊部落」という言葉を、自分たちの存在を示すことばとして受容していたのです。

水平社宣言の限界と問題点は、水平社運動に参加した人々が、当時の行政によって押しつけられた「特殊部落」・「特殊部落民」という差別的な表現をもってしか、その存在を表現することができなかったというところにあります。もし、水平社運動に参加した人々が、行政用語としての「特殊部落」・「特殊部落民」という概念に代えて、彼らのレーゾン・デートル(存在理由)を表現する呼称を提案していたとしたら、今日に続く、「特殊部落」・「特殊部落民」をめぐる概念のあいまいさに翻弄されることはなかったでしょう。

「明治政府・地方行政は、「特殊部落」・「特殊部落民」と差別的な表現で我々を見るけれども、それは間違った見方である。我々の本質は、○○。我々は、我々自身を○○と呼ぶ・・・」と宣言しそれを明文化していさえすれば、今日のように、「特殊部落民」・「未解放部落民」・「被差別部落民」・「同和地区住民」・「被差別市民」等、その時々の施策や運動によって、「部落」・「部落民」概念の外延・内包について、恣意的な解釈を許容し、「部落差別問題」を解決不能と思われるような混乱状態を引き起こすことはなかったでしょう。

戦後、「特殊部落」という言葉は、「未解放部落」という言葉に言い換えられ、「未解放部落」もやがて「被差別部落」という言葉に置き換えられていきます。概念自体に差別性を含まない言葉へと、表現が変化していく訳ですが、「特殊部落」→「未解放部落」→「被差別部落」という概念の変遷は、単なる言葉の言い換えではありませんでした。

「特殊部落」が「未解放部落」へ、また「未解放部落」が「被差別部落」へ、概念の名目が変更されるだけでなく、「旧穢多村」から「特殊部落」へ概念の変遷が行われたときと同じように、概念の外延が拡大され、内包も変節されていったのです。

明治4年の太政官布告が出されて「穢多村」が「旧穢多村」になり、「旧穢多村」が「特殊部落」になり、「特殊部落」が「未解放部落」になり、「未解放部落」が「被差別部落」になっていく都度、「穢多村」を核として、その周辺に「その他の人々」が配置され、その外延が徐々に肥大化・拡大化させられた結果、現代の「被差別部落」は、明治初期の「旧穢多村」とは似ても似つかぬ存在になってしまったのです。

「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」、それらの概念がどのような意図で創設されていったのか、それを取り上げた文章に、京都大学名誉教授・井上清(唯物史観の歴史学者)の《「未解放部落」と「被差別部落」》([22-15])があります。

この、約二千字の短文は、どちらかというと、功なり名を遂げた歴史学者が、学生を前に語って聞かせる、ちょっぴり自慢話を含んだ裏話である「歴史学夜話」のような文章ではないかと思われます。夜話なら夜話らしく、面白くおかしくその話を楽しんだなら、それは酒の席での話であると、すぐ忘れてしまった方がいい。それをことさら取り上げるのは問題である・・・、というように考える人もいるかもしれません。しかし、逆に、夜話であり、裏話であるからこそ、それを井上清はほんとうのことを物語っていると考える人もいるかもしれません。ともかく、筆者が、余話として書かれた短文を、ひとつの重要な論文としてとりあげるとき、多くの人々から失笑をかうことになるかもしれません。しかし、ここでは、その愚をあえておかして、その歴史学夜話を取り上げることにしましょう。

井上は、「自分で自分を特殊部落と呼ぶことと、他人がその語を用いるのを糾弾することは、表面的には矛盾なしとはしない。けれども全国水平社は、これに代わるよび方をつくらなかった」と指摘します。この「特殊部落」という言葉は、戦後5年後の1950年頃まで継続して使われ続けたと言われます。

井上は、部落解放全国委員会書記長北原泰作との話し合いの中で、「未解放部落」という表現を勧め、北原は、その1年後、その著作の中で、「特殊部落」と書いたところは、すべて「未解放部落」に変更したといいます。

しかし、井上は、「未解放部落という語も適当でないと思うようになった」といいます。「未解放とは封建的身分差別から解放されていないという意味ですが(・・・中略・・・)現在の部落解放は、資本主義とその権力からの解放でなければならない。その意味では、日本のすべての労働者・農民も未解放である。それなのに未解放部落の解放運動といえば封建制からの解放運動になってしまう。これはいけないではないか」と考えたといいます。

井上は更に続けて、「そこで私は、何から解放されるのかという問題にはふれないで差別されている部落だから、少々どぎついけれども、そのものずばり「被差別部落」といえばよいではないか、と考えた」といいます。井上の提案は、すぐには一般的に受け入れられることはありませんでしたが、1966年頃から、「被差別部落」という表現が一般的に使われはじめたと言われます。井上は、「遺制とする見方から、現代資本主義とその権力の人民収奪と支配の一形態であるという見方への移行を意味している」といいます。

要するに、一人の歴史学者によって、「特殊部落」→「未解放部落」、「未解放部落」→「被差別部落」という概念の変遷が作り出されていったのです。

筆者は、「未解放」というのは、時間的概念であると思います。「被差別」というのは、空間的概念であると思います。唯物史観の歴史学者・井上の、あいつぐ、歴史的な基礎概念の見直し作業によってもたらされたものは、単なる名称変更という表面上の変更にとどまりませんでした。歴史学上の批判・検証をより徹底して、概念を明確化、「特殊部落」という概念を、縮小し、解消へと導くというのではなく、逆に、学者の思いつきでもって、時間的にも空間的にもその枠組と内容が拡大されていったのです。「部落」概念は、拡大されればされるほど、焦点がぼやけ、複雑さ矛盾を孕み、錯誤と混乱を自らの概念のうちに抱え込む結果に陥ってしまったのです。

それにしても、概念が「元穢多」から「未解放部落」へ、「特殊部落」から「被差別部落」へと、何度も変遷されていったにもかかわらず、「部落」の当事者からは自分たちを正しく表現する概念が一切提示されることがなかったのは、なぜなのでしょうか。

明治の女性解放運動家に、青踏社の平塚雷鳥がいます。彼は、このような言葉を残しています。「原始女性は太陽であった。真正の人であった。今は、女性は月である。他によって生き、他の光によって光る病人のような青白い顔の月である」。他者によって、権力者や政治家、学者や教育者によって定義づけられた「旧穢多村」、「特殊部落」、「未解放部落」、「被差別部落」といった言葉でしか、自分たちの存在を表現できないでいる、部落学の固有の研究対象である「部落」の人々は、まさしく、この「青白い顔の月」、「他によって生き、他の光によって光る病人のような」存在であり続けているのではないでしょうか。今日に至るまで・・・。

水平社宣言の中で、声高々に歌われている言葉、「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって、先祖を辱しめ、人間を冒涜してはならぬ。」は、穢多の末裔である、栃木重吉の言葉であると言われています([07-50])。栃木重吉こと、平野小剣([19-01])は、東北福島県信夫郡浜辺村、阿武隈川畔の出身です。彼の先祖は、幕藩体制下の獄屋に勤める穢多身分でした。すべての番人は、藩からの祿米で生活していました。非常のおりには、一身を投げうってその職務に忠実に、場合によっては、村人のためにいのちさえかけて闘ったといいます。彼は、父親が逝去した次の年、福島県庁の給仕になろうとしましたが、「新平民だから採用はできぬ」と云って世話人から履歴書をつき返されたといいます。そのとき、彼の母は、「涙を一瞼に溢らして」、「こんな村に生まれ、こんな母を持ったお前は因果なものだ。許してくれ・・・」と云った、「あの悲痛な言葉は今でも耳底に残っている。」といいます。

栃木重吉は云います、「いったいどうすれば、俺は生きて行けるだろう。新平民のこの俺は、深い人間生存の道について悩まずにはいられなかったのだ。そうだ、俺の生き行く道は一つあった。俺はそれを考えはじめた」。彼の母は、「世の中の人はみな鬼だ。呪われるものは呪い返せ、そして最後は母の側に来い。母は温かい手をひらいて待っている・・・」と言って世を去っていったといいます。水平社運動に、西光万吉、坂元清一郎、米田富、駒井喜作、桜田規矩三、南梅吉等と参加した彼は、「他動的または受動的に慈恵と憐憫によって解放を希うは我々先祖に対する「最大の罪過」である」といい、そして、「自動的に我が祖先の霊を慰めんがため共通なる目標に向かって」生きることを宣言します。栃木重吉は、「穢多」こそ、自分を語る言葉、昨日穢多であった、今日も穢多である、そして明日も穢多であり続ける、そのことによってだけ、穢多はほんとうの自由を、解放を、自分の手にすることができると宣言したのでしょう。栃木重吉の言葉には、平塚雷鳥と同じく、「他によって生き、他の光によって光る病人のような」存在であることを拒否し、穢多の始源に立ち戻って己の存在理由を確かめようとした、他を寄せつけないような比類まれなる「熱」と「光」が溢れています。

政治家や運動家、学者や教育者が作り出す、「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」のような、熱くもなく冷たくもなく、生ぬるくて、吐き出したくなるような言葉ではなく、「穢多村」、そして、その住人として「穢多」という言葉が、復権され、本来の輝きを放つようになったときにだけ、部落差別のほんとうの姿が解明され、部落差別の完全解消が実現されるのではないかと思います。

明治の法学者のひとりは、「穢多を穢多視するは不当なり」([71-06])といいます。

「穢多は穢多にあらず・・・」。

主語として用いられている「穢多」(前者)と述語として用いられている「穢多」(後者)とはまったく異なる意味を持っています。ひとつは、被定義事項であり、もうひとつは定義事項です。「穢多」なる概念は二重定義なのです。「穢多」概念の二重定義、多重定義に気づいたひとはそう多くはありません。歴史学・社会学・民俗学などの個別科学研究がなしえなかったことに挑戦する、「穢多」という言葉を、明治以降の部落差別というるつぼから取り出して、本来の輝きを取り戻させる、それも、『部落学序説-「非常民」の学としての部落学構築を目指して』の大きな課題なのかもしれません。「穢多」という言葉は、彼らが自分の言葉で自分を語ることができる、たったひとつの言葉だったからです。

穢多村の原風景

 近世の穢多村・・・


それは、どのような村なのでしょうか。

「被差別部落」出身ではない筆者にとっては、近世の幕藩体制下の穢多村を何とか想像してみようとするのですが、ほとんどこれといったイメージを思い浮かべることはできません。『部落学序説』を執筆するために集めた、歴史資料や伝承、昔話をひもといてみるのですが、近世穢多村の風景を描くとっかかりさえ手にすることはできませんでした。このブログの読者の中に、近世穢多村の伝承を継承し、近世穢多村が何であったのか、その原風景を知っている人がいたら、是非、教えていただきたいと思っています。

近世の穢多村がどのような村なのか、思いを馳せていたある日、小学校のとき、担任の教師が話していた、「水田・塩田・皮田」という言葉を思い出しました。水田を耕すのは、ただの百姓。塩田で塩をつくるのは、塩百姓。皮田で皮革を生産するのは皮百姓・・・。それ以上のことは思い出せないのですが、私が小・中・高で勉強していた頃住んでいたのは瀬戸内海に面した小さな町でした。そこは、江戸時代のときに、遠浅の海を干拓して、塩田が作られた場所で、日常、塩田で働く人々の姿をよく目にしていました。

「塩田で働く人々を昔、塩田百姓と呼んでいた・・・」と、その時耳にしたように思うのですが、まだ半世紀しかたっていないのに、私たちの生活や記憶から、その塩田や塩田百姓はその姿を消してしまっていました。小学校に上がる前までは、入浜式塩田でした。塩田百姓の人が、大きな熊手のようなもので、塩田の砂をならしていました。やがて、流下式塩田に変わり、昔の塩田の姿は、著しく様変わりしてしまいました。そして、高度経済成長の時代にはいると、今度は、真空式製塩法が採用され、潮を天火でほして塩を採るのではなく、油をどんどん炊いて、それでもって潮から塩を蒸留する方式へと変えられていきました。そして、中近東の戦争と石油の高騰で、真空式製塩法は経済的に採算がとれない状態になり、結局、塩田は姿を消し、そのあとには、工場や駐車場、商店街やボーリング場、JRの操車場へと姿を変えていきました。日本は、外国から、純度の高い岩塩を輸入するようになり、日本の製塩業は壊滅的打撃を受けました。

私は、小学校から帰ると、よく、塩田にいって、その岸壁から海を眺めたり、釣りをしたりしていました。夕暮れどきには、浜夕顔や月見草の花がきれいに咲いていました。潮風を思い切り吸うと、何かほっとするようなところがありました。ところが、そういう、ふるさとの光景が、高度経済成長にともなう、工業都市化、近代化によって、ほとんど姿を消してしまいました。岡山県倉敷市児島には、塩生(しおなす)という遠浅の海が延々と続く場所がありました。しかし、そのような、日本人の、瀬戸内に住む人々の原風景のひとつが姿を消していきました。「ふるさとにいてふるさとを失う」・・・、そんな淋しい思いを経験したのは、私ひとりではないでしょう。

塩田だけでなく、水田も同じです。自宅から小学校までの通学路、少し市街をはずれると、青々とした稲田が続く畑の中の一本道を小学校目指して歩いていったものです。水田と水田の間を流れる、ちいさなせせらぎや用水路は、学校の帰り際、小学生たちが、メダカをとったり、フナをとったりする遊び場でした。しかし、農業の近代化とかで、パラチオン製剤という農薬が撒かれた次の年には、メダカの姿はどこにもありませんでした。農薬で荒れた水田は、次第に、姿を消し、住宅地や工場へと変身していきました。塩田だけでなく、水田も、その原風景を失ってしまったのです。「故郷にいて故郷を失う」、その寂しさは耐え難いものです。

それでは、「皮田」は?というと、私が住んでいたところには、そういう場所はありませんでしたから、戦後の高度経済成長の中で、「皮田」がどういう運命をたどっていったのか、知るよしもありませんが、そうとう大きく変貌し、やはり、「故郷にいて、ふるさとを失う」、そういう経験をされたのではないかと思います。

「水田」や「塩田」については、私の中に、「原風景」が存在しますが、「皮田」については、何の記憶もありません。ただ、「水田」や「塩田」から類推・想像するのみです。

なぜ、「近世穢多村の原風景」を追求しようとするのかというと、それは、そういう作業をすることで、筆者の中にある先入観や偏見、意識・無意識を問わず、差別的社会の中で継承を余儀なくされているものの見方や考え方をできる限り排除するためです。意識する分だけ、筆者は、先入観や偏見から自由になることができると思っています。

あるとき、『部落解放史 熱と光を』(部落解放研究所編)の上・中・下3巻を読みました。『部落解放史 熱と光を上巻』(部落解放研究所編)の中に、「革製品となるまでの工程」として、全16工程が紹介されていました。その工程に着目しながら、「皮田」の立地条件を検証していて分かったのですが、「皮田」が存在・成立するためには、①豊富な川の水、②良質の塩、③上等の菜種油が必要なことがわかりました。

長州藩のいろいろな歴史地図をひもときながら、その条件にあう場所を想像してみますと、長州藩の「穢多村」の中で、最も大きな「穢多村」のひとつが、その条件を満たしていることが分かりました。その「穢多村」は、農村地帯の真っただ中にあって、春になると、「穢多村」周辺には、黄色の菜の花が咲き乱れたと思われます。江戸時代、菜種油は、貴重な資源でした。その「穢多村」は、島田川の上流にあり、「穢多村」の中を貫いて流れています。島田川を下ると、そこは、瀬戸内海の天然の遠浅、昔から、塩田(しおた)で塩を栽培していました。豊富な川の水、良質の塩、上等の菜種油が手に入るその「穢多村」は、長州藩最大の「穢多村」であり、幕藩体制下の「皮田」としての「穢多村」の立地条件を満たしていました。

そこで、ふと疑問に思ったのですが、島田川の上流に位置するその「穢多村」は、島田川の川の流れに原皮をつけます・・・。そして、近隣でとれた高品質の菜種油と、島田川の下流から舟で運ばれてきた瀬戸内の天然の塩を用いて、皮の加工をして革を作ります。百姓たちは、その島田川の、同じ水を飲料水にしたり、農業用水にしたりして、上流から「穢多村」を貫いて流れくる島田川の水を生活用水として使っていたのですが、百姓たちが、その水を問題にしたことは一度もないのです。「穢多村」から流れ出る「穢れた」水・・・、それを差し止めるために百姓一揆が起きたという事例はひとつもありません。そのとき、もしかしたら、江戸時代の百姓の穢れ観と、現代社会に住む私たちの穢れ観とはかなり違いがあるのではないかと思わされました。

『部落学』の研究対象である「部落」民でないものが、戦後の時代を通り過ぎ、戦前の昭和の時代、そしてもっと前の大正、明治の時代を通って、近世「穢多村の原風景」を手にすることができるというのは、本当に絶望的な試みです。しかし、どんなに時代がかわっても、なんらかの形で、その昔の原風景を伝えるものが残っているはず・・・。どんなにちいさな断片でもそれを寄せ集めて再構成することで、近世「穢多村の原風景」を復元することができるのではないかと思いました。

そんな思いをもって、史料を漁っていたとき、山口県立文書館の研究員・北川健の書いた論文の中に、長州藩・近世穢多村の原風景のような、山口県北の被差別部落に伝わる伝承を目にしました。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取

わずか8行の短い伝承ですが、北川は、近世、幕藩体制下での「穢多村の伝承」であるといいます。この伝承は、今日まで、近世穢多村の「景観と態様」、その「典型」を伝えているというのです。私は、この伝承の中に伝えられている「穢多村」の姿が、近世穢多村の原風景に一番近いのではないかと思いました。この伝承を精読し、分析していけば、江戸時代の穢多村のほんとうの姿を自分の目で見ることができるのではないかと思わされました。「水田」・「塩田」に続いて、「皮田」に親近感を覚えた瞬間でした。

当時、山口県立文書館の研究員であった北川健は、この8行詩を、《山口県の文芸の中の部落の歴史》と題した講演の中でも触れておられますが、この8行詩は、他の歴史学者や研究者、また民俗学者やその研究者の注目をひくところとはなっていません。私は、かえってそのことが幸いしていると思われます。この伝承は、差別的な歴史観や歴史解釈のケガレに染まっていない、純粋無垢な形で存在し続けている希有な伝承であると思わされました。

北川がいう、「近世被差別部落の景観と態様」を伝える、「典型」的な伝承は、それを正当に解釈してくれる、解釈者を求めていると、思わされました。この8行詩は、近世穢多村の住人が、住人が帰属する「穢多村」と「穢多」について歌いあげた歌です。

「部落学」を指向するものは、なんらかの形で、はるかに過ぎ去ってしまった遠き時代の、近世「穢多村」の原風景を己の中に復元しなければなりません。人は誰でも、何も描かれていない真っ白なキャンパスのような心や精神を持つことはできません。生まれてから現在まで、様々な言葉や像をこころに刻みながら生きています。自分で刻み込む場合もありますし、また自分の意志とは関係なく、外からの力で、教育や学習によって、刻み込まれる場合もあります。「真っ白なキャンパス」というようなものは、ありもしない幻想以外の何ものでもないのです。だから、できる限り、自分の心や精神が「真っ白なキャンパス」に近づくことができるよう、研究者が研究対象に対して抱く「原風景」を明らかにし、言葉化する必要があるのです。

「部落学」は、決して、学者や研究者が、己の中に無意識にもっている被差別部落に対する「原風景」を絶対化し、それを、賤民史観という枠組みの中で、みじめで、あわれで、気の毒な面だけを強調して描いてみせるような独善的な研究であってはならないと思います。「部落学」は、差別意識を、史料や伝承の中に読み込むのではなく、できる限り予断と偏見を排除して、仮説的に設定した「原風景」を検証しながら、歴史的にほんとうの「原風景」にたどり着くという営みでなければなりません。

近世穢多村の「景観と態様」を伝える8行詩の形をとった伝承・・・。この伝承を、どう読み取るか。

それは、「部落学」構築が可能かどうかの試金石になります。

穢多の実像

穢多の実像・・・

「穢多」・・・、この言葉を筆者が何のためらいもなく使用していることに違和感を覚えておられる方がいるかもしれません。

「穢多」という言葉は、「差別語」として、差別・被差別の側から「使用してはならない言葉」として認定されて久しく時が経つからです。ほとんど誰も使用しなくなった言葉を、筆者は、普通に使用しています。筆者は、この言葉でしか、『部落学序説』の研究対象である「部落」という概念を把握することはできないと考えるからです。

「旧穢多」や「新平民」ならまだしも、「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」という言葉をもってしては、明治4年の太政官布告が対象とした人々の本質を把握することができないからです。

「穢多「という言葉が差別語として扱われるのは、「穢多「という言葉を「穢れ多し」と読むからでありましょう。しかし、「穢れ多し」という読みは、「穢多」という言葉に対する正しい読みなのでしょうか。

近世史料や文献をひもといていくと、「穢多」という言葉に関して、3種類の命題を抽出することができます。

(1)「穢多は穢多なり」
(2)「穢多は穢多にあらず」
(3)「女は穢多なり」

上記(1)~(3)の命題の中で、「穢多」という言葉は、主語と述語の両方で使用されています。「述語」としての「穢多」の主語は「穢多」だけでなく、「女」の場合もあります。この場合の「女」は、「穢多」出身の女性ではなく、一般の女性を指しています。

筆者がこの『部落学序説』で、研究対象としてとりあげるのは、(1)と(2)と②の主語としての「穢多」のみです。筆者は、「穢多」という言葉を、『部落学序説』の固有の研究対象である「部落」の起源を指す言葉として受け止めています。

江戸後期から明治前期の国学者である岡本保孝は、このように記しています。「ソモソモ穢多ト書クハ、仮字ナリ。・・・穢多ト云ウ仮字ノ字面ニスガリタルヨリノコトナラン。・・・穢ト書クニヨリ汚穢ノ義ニトリナシ、ケガレルコト多シトオモウナルベシ。笑ウニタエタリ」。

国学者・岡本は、「エタ」という言葉は、本来、別の漢語表現であったが、それがいつのまにか忘却されて、「仮字」として「穢多」という漢語表現が用いられるようになったというのです。そのために、「穢」という漢字が、「汚穢」の意味にとられるようになった、今日でいう差別語になったことを示唆しています。岡本は、「エタを穢多というは、笑止千万、ちゃんちゃらおかしい」と指摘しているわけです。

それでは、「エタ」という言葉に割り当てられた最初の言葉は、何なのでしょう。国学者・岡本は、残念ながら、「エタのタの詞未だ、詳にせず」と示唆に富んだ言葉を残して、「もとよりエタは雅言にあらねば捨ておくべし」として、「エタ」の語源を探る考察を中断してしまいます。

明治以降の歴史学者は、幕末から明治初期の国学者のこの研究をほとんど誰も省みないのです。そして、国学者・岡本が、「笑ウニタエタリ」と表現した、「穢れ多し」という言葉を採用していくわけです。

江戸時代三百年間穢多であり続け、明治以降も穢多の末裔であった人々も、「エタ」を「穢多」として受け止め、この「穢れ多し」という意味内容も持つ、自分たちの先祖を指す言葉を忌み嫌うようになります。「穢多」という言葉に、差別と侮辱感を感じるようになってしまいます。

私は、この「エタ」という概念を定義することを目標に、歴史資料や論文を漁ってきました。一般的に、定義というのは、まず、内包を決めて、そのあとで外延を決めます。内包というのは、概念の属性、概念を説明する言葉です。外延というのは、その概念に属する個々の具体的な構成要素をいいます。

例えば、「被差別部落」という概念の内包は「被差別」であり、概念の外延は「被差別部落」ということになります。この定義方法は、好ましい定義ではありません。なぜなら、概念の中に、すでに内包が内在しています。「被差別部落(概念)は、差別された(内包)部落(外延)である」ということになり、単なる字句の説明と同じレベルの定義になってしまいます。本来「被差別部落」という言葉は、その程度の意味しかないわけです。この言葉を考案した歴史学者の井上が指摘しているように、時間的側面、歴史的側面は一切含んでいない空間的概念でしかないのです。「被差別部落」という概念は、あまりにも漠然とし過ぎて、「穢多」の末裔を指す言葉としては相応しいものではありません。

国学者の岡本は、「エタ」という概念の内包と外延を明らかにして、その概念を定義しようとしますが、途中で、自分の仕事の範囲外であると言って、投げ出してしまいます。

私は、「エタ」という言葉のもとの漢語は何なのか、長い間、その言葉の定義をめぐって試行錯誤をしてきました。内包を確定しては、外延を検証し、外延を検証しては、内包を検証し、それを延々と繰り返してきたのです。そして、「エタ」という言葉は、ひとつの漢語に置き換えることができるようになりました。それは、「穢多」といわれた人々がいったい何であったのか、その本質が分かった瞬間と同じでありました。

この論文の結論とでもいうべき内容ですが、いまだに、具体的な歴史資料の中にその証拠を見いだすことができないでいるのですが、歴史資料の中からすでに抹消されてしまった言葉である可能性もあります。結論を先出しすれば、「エタ」のもとの漢語は、「衞手」ではないかと思っています。前田勇著『江戸語の辞典』の中に、「守手」(まもりて)というのが掲載されていますが、その言葉には、「見張りの番人」という説明がなされています。

武部良明著『漢字の用法』によれば、「まもる」に対応する漢字として、「衞」・「護」・「守」を取り上げています。「衞」は、「危ないことがないように取り囲むこと」、「護」は、「攻められることがないように持ち続けること」、「守」は、「大切なものとして持ち続けること」を意味するとあります。「見張りの番人」という前田の説明からすると、「まもる」という言葉の漢語として相応しいのは、「衞」・「護」となります。武部は、「盗人の隙はあれども守手の隙なし」という諺をとりあげていますが、「六尺弐分の棒構ひ旅人強盗せいとふ(制盗)し」と歌われている「穢多」は、別名「棒突」とも呼ばれていました。「棒突」の職務は、「衛」であり、「お上」から護衛を命じられた対象に危害が及ぶことがないように、その屋敷や居場所を護衛することでありました。

中山英一著『被差別部落の暮らしから』(朝日選書)に、一茶の句が紹介されていますが、その中に棒突の句がいくつかあります。この本は、『部落学序説-「非常民」の学としての部落学構築を目指して』の立場からみて、従来の部落解放運動の枠組みの中で書かれた書籍としては最もすぐれた書籍のひとつであると思っています。

中山英一は、1926年生まれ。長野県出身で、現在、「人権センターながの」の代表理事をされているそうです。中山は「私自身被差別部落に生まれ、さまざまな差別を受けた体験をもとに、自分なりの差別」に対する見解を書いた」とする、その書の中で、「歴史を無批判に受け入れるべきではない。歴史の歪みに気づく感性こそ人権感覚なのだ」と指摘しています。中山はいいます。

「部落の親たちというのは、わが子に部落のことを語りたがりません。なぜなのか。それは部落の人たちは「部落とは何か」という本当のことを知らないからなのです。「誇りと自信」が持てないから、わが子に語れないのです。私が自分の出身を知ったのは「部落民」という言葉ではなく、「長吏」と「四つ」という言葉からでした。・・・「長吏」と呼ばれる人たちは、自分が長吏でありながら、「長吏」の正しい意味を知らないのです。知らないから教えられないのです。ところが、本当のことは知らないけれど、間違った、嘘のことは知らされていたのです。それを「偏見」といいます。「偏見」というのは、事実ではないことをあたかも事実であるかのように思ったり、いったりすることです。それを部落の人たち自身も本当だと思っていたのです。つまり、部落の人は、「ふつうの人間とは違う」「卑しい人間」「悪い人間」である。部落の人たちもそう思われていたのです。だからこそ、わが子に語れないのです。・・・一番基本的なところでは、五十年前と現在とあまり変わっていないのです。わが子に部落のことを生き生きと、胸をはって語れるお母さんが何人いるのでしょうか。子どもに聞かれると、逃げてしまっているのではないでしょうか。」

「世間の人は「部落の人は字を知らない」とか「文化の程度が低い」といいますが、そういう現象は明治以降なのです。それ以前は、部落の人たちは、文字がなければ生活できなかったのです。なぜかというと、「長吏」という役は権力の末端を担う仕事ですから、さまざまな役があるのです。今でいう「警察」や「刑務所」の仕事です。だから、字を読め、あるいは、書き、役目を理解する必要があるのです。字を知らないと、「長吏」という役がつとまりません。」

中山が、そのような洞察を持つようになったのは、同じ信州人である小林一茶の句との出会いでした。一茶は、百姓の息子でした。中山は、その「百姓の目から見た穢多の姿」を知るのです。差別的な目ではなく、穢多や長吏に対して、別な、尊敬のまなざしを持って見る一茶の句に触れて、中山は、部落解放運動に携わるものが時として持つ、針鼠のようなとげとげしさを克服し、このように語るのです。

「苦しみ、悲しみながら、それでも喜びのときには笑いを忘れず、真摯に人生を全うする人の姿に触れたとき、だれもその人を見下したり、卑しいと忌避することはできないはずだと、私は信じている。なぜなら、部落の出であろうと、そうでなかろうと、真摯に生きる人がこの世には大勢いるのだし、そうした人が自分と同じように生きている人を差別することなど、ありえないではないか。」

少しく長い引用になりすぎたが、中山の書に、一茶が歌った棒突の句の解説がのっています。

「棒突がごもくを流す白雨哉

この年は九州、四国を行脚している時期であるので、その辺りのことを詠んだ句であろう。「白雨」は「夕立」のことで夏の季語である。「棒突」とは、六尺棒(警棒の前身)を持って町や村を護衛する役人、現在の警察官にあたる。つまり「長吏」の別称である。私の生家(長野県南佐久郡佐久町)にも六尺棒と十手があった。「ごもく」とは「五目」で、「いろいろ」すなわちここでは塵芥のことである。「棒突」は世人から卑しめられ、軽蔑されているが、夕立が塵を洗い流すと同じように世の中の悪人と悪い物を清掃する人で、世のため、人のために貢献している大事な人であると賞賛している句である。」

話をもとに戻すと、『江戸語の辞典』に出てくる「まもりて」は、言葉の意味からして、「守手」よりも「衛手」という言葉の方が相応しいと思われます。「衛手」の、「衞」を「エ」と発音し、「手」を「タ」と発音します。「衛手」は、「エタ」のもとの漢語ではないかと、私は推測しているのです。まだ文献で確認したわけではありませんが、かならずしも間違いではないと思っています。「手」を「タ」と発音することは、江戸時代の言語学者である新井白石も認めています。

「エタ」は、「衛士」という、今でいう警察のキャリアのもとで、実際に警察官として現場で働いていた配下の「衛手」ではないか・・・、そのようにみはじめると、古代律令制度の中の、制度外制度、身分外身分として登場してきた「衛士」や「衛手」は、司法・警察職として、古代から中世へ、中世から近世へ、時代を超えてその職務を担っていったと推定されます。現在の部落研究・部落問題研究・部落史研究におけるさまざまな問題点と行き詰まりを一挙に解消できるのではないかと思います。

中山英一著『被差別部落の暮らしから』に、中山の両親の写真が掲載されています。中山のおとうさんの写真をみながら、頭に、まげと月代をつけ、腰に刀をさしたら、そして、長吏としての職務に従事しているときの緊張感をもって写真をとったら、私が、十五年前、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の家、長吏と同じ役を担っていた、あの古老の姿がダブってきます。あの古老の先祖の厳めしい、警察官か検察官のような鋭い眼光をしていた人が、ふと、微笑みをもらしたときは、こんな表情になるのかな、と思わされました。

『部落学序説-「非常民」としての部落学構築を目指して』は、まだまだ、たくさんのことを立証していかなければなりません。しかし、『部落学序説』の結論は、中山がいう「新しい視点と希望」を共有することになるでしょう。ですから、『部落学序説-「非常民」としての部落学構築を目指して』の遅々たる歩みにいらいらする人は、中山英一著『被差別部落の暮らしから』を読んでください。そして、ご自分で、彼の長吏の末裔としての生き方を、それぞれの個別科学研究の立場で調べ直してください。いつかきっと、筆者と同じ道を、『部落学序説-「非常民」としての部落学構築を目指して』自分の頭と足で歩みだすことができるでしょう。悲しい国、悲しい民、悲しい歴史・・・、被差別部落の歴史は、そのような歴史に組み込まれています。しかし、かならず、差別なき朝がやってきます。権力者や政治家、学者や教育者が、被差別者に賤民史観を振りまき、差別の痛みや苦しみを押しつけたことに対して恥ざるを得ない朝がやってきます。「賤民史観」を根底から覆し、完膚なきまでに徹底的に批判・検証することで、被差別部落の人々だけでなく、すべての人が、その内にもっている人間の尊厳に気づく日がやってきます。『部落学序説-「非常民」としての部落学構築を目指して』は、中山のいう、「新しい視点と希望」に裏付けを与える営みでもあるのです。

「穢多」は、幕藩体制下の「司法・警察」を表現するときの包括概念・上位概念です。筆者が、一般的に差別語といわれている「穢多」という言葉を、臆面もなく使い続けるのは、「エタ」という言葉の中に、千数百年の時の流れに耐えて持ちこたえている真実の響きが鳴り響いているからです。私のこころの中にある耳にはその響きがいつも聞こえているのです。

最後に、(1)~(3)の述語としての「穢多」ですが、主語である「穢多」の述語としえの「穢多」は、(1)の命題では肯定され、(2)の命題では否定されています。主語である「穢多」の述語としての(1)の「穢多」と(2)の「穢多」とはどのような関係があるのでしょうか。また両者の間に、どのような「差」があるのでしょうか。あらためて、言及していきます。

「地域的概念としての部落」の崩壊-野口説への批判

「地域的概念としての部落」の崩壊-野口説への批判 

幕藩体制下の「穢多」はどこに住んでいたのでしょうか。


「穢多村」と、「旧穢多村」・「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」の間には、それぞれの概念の外延(誰を構成要素としているか)の違いがあります。現代に近づけば近づくほど、その外延は「拡大」していく傾向にあります。拡大すればするほど、部落差別の問題がみえなくなってきます。

「穢多の在所」を論じる前に、「部落差別」から地理的要素、場所的要素を取り除いて、「部落」・「部落民」概念の再構成を提案している、大きな問題を孕んでいる、野口道彦氏の説を紹介しておきましょう。

野口道彦著『部落問題のパラダイム転換』という書物の中に、第1章1節、《「部落民」とは何か-どう概念規定するのか》という文章があります。彼は、現代の部落差別は「属地的要素」が希薄になってきたといいます。部落に住んでいるから部落民であるとも、部落に住んでいないから部落民でないとも言えない、「もともと、差別する側が恣意的に大した根拠もなしに部落民だとみなしているのだから、それを逆手にとって、その無根拠性を白日のもとにさらけ出したほうがよいだろう」といいます。現代では、誰が部落民か、その境界があいまいになっているのだから、「部落民概念は混乱させた方がよい」というのです。

彼は、属地的要素にこだわらないで、「部落民」という概念を拡大し、「部落民」という概念の外延を、「部落民とみなされ差別された人、あるいは差別される可能性を強く持っている人」まで拡大した方がよいというのです。「部落民とみなされ差別された人」の中には、「誤った身元調査に基づいて差別されていても、まったく本人は差別されていることに気づいていない」、そういう人も含まれるのです。隣近所のトラブルで、冗談で、「あいつは部落民だ」と流されたデマによっても「部落民」が創出されるというのです。彼は、更に、「部落差別を受けた体験を共有しうる人、差別に対する憤りや悔しさを共感できる人」をもその範疇に含めてしまいます。「部落民としてみなされ差別された人は部落民である」ともいうのです。

彼は、部落民でないのに部落民として差別されていることに気づいたら、間違われた人は、「そうだ。私が部落民だ。それがどうしたと切り返せる主体をつく」ればいいというのです。

彼のいう主体とは何なのでしょうか。

主体をあらわすひとつの言葉に、アイデンティティというのがあります。

アイデンティティは「同一性」という意味がありますが、過去・現在・未来において一貫して持つことができる立場や視座を指すといってもいいと思うのですが、このアイデンティティは二つあります。ひとつは、パーソナル・アイデンティティ、もうひとつはグループ・アイデンティティです。

パーソナル・アイデンティティは、例えば、ある人が、自分は過去においてこのように生きてきた、そして今もこのように生きている、これからも同じように生きていくのだと個人的に表現する場合がこれにあたります。自己の存在を時間の流れの中で、歴史の中で、一貫して維持しようと生きている状況をいいます。

グループ・アイデンティティは、自分が帰属する集団や共同体の一員として、「昨日、私は部落民として生きてきた、そして今日も、部落民として生きている、明日も部落民として生きるのだ」と、他の集団や共同体に所属する人と、共有理念を持って生きていく状況をさします。

パーソナル・アイデンティティとグループ・アイデンティティの両方を持ち合わせたとき、私たちは、自己の主体を確立できます。

「部落民でないのに部落民として差別されていることに気づいたら、間違われた人は、「そうだ。私が部落民だ。それがどうしたと切り返せる主体をつく」ればいいという、野口の理論は、民衆が持っている潜在的な能力、自分の「物語」を語る能力と意義を無視しています。昨日、今日と生きてきて、そして、ちょっとした人生の誤解やいたずらで、明日、なぜ部落民として生きなければならないのか。野口の理論は、桜の木に梅の花を咲かせるようなものです。そんなことできるはずもないのです。

部落差別の真の解決には、「部落」・「部落民」という概念をあいまいにしないことです。明治以降の差別問題は、その概念をあいまいにしてきたからこそ、問題が複雑化し混乱して収拾がつかなくなっているのですから、権力者や政治家、学者や教育者がまずなすべきことは、「部落」・「部落民」概念を定義して、その外延を縮減する方向で行うべきではないのでしょうか。

野口は、「部落民」は、「客観的な定義が不可能な言葉である」といって、その定義を放棄します。また、「差別される対象は、差別者の恣意により、融通無碍に広がるのであるから、あらかじめ客観的に範囲を確定できるものではない」と、「部落」・「部落民」概念の内包と外延をあいまいなままに放置しようとします。そして、「部落民」の所在を示す「部落」という概念を放棄して、新しい概念として、「被差別市民」という概念を導入しようとします。
野口の理論は、日本の社会が持っている部落差別の構造を容認し、現在時点での差別・被差別の線引きを引き直し、部落民の外延を拡大した上で、あらたな部落民(被差別市民)に運動を引き継がせる、このことで、被差別部落やその運動団体、彼らによる部落解放運動の継続を大前提に、それを学者として理論付けしようとしているように思われます。

野口が「差別する側の恣意性」を前提とするとき、その「恣意性」を最大限に利用するのは、国家であったり、地方行政であったりするのではないでしょうか。民衆が、民衆自身のアイデンティティを無視され、桜の木に梅の花を咲かせるような無理難題がまかり通るところでは、権力や国家による「恣意性」を許容する道を開くことにつながるのは必定でしょう。

こういう言葉が正確かどうかはわかりませんが、野口の理論・思想は、ファシズム的であると思われます。ないしは、ファシズムに大きく道を開け放つ理論・思想であると言えます。

野口は、本の最後の方で、アイデンティティを取り上げ、「部落民としてのアイデンティティは、結局のところ解放の戦略として「身元隠し」を選ぶのか、それとも「誇りの戦略」を選ぶのかをめぐる自分探しであり、他者に対しての自己掲示である」と。野口は、他にも、「差別のない社会システムをどのように構築するのか、未来社会への豊かな想像力があれば、さまざまな「解放の戦略」が構想されるであろう。しかし、長い時代に渡って社会から、負の意味付けをされてきた「部落」や「部落民」というシンボルを、どのようにとらえ、どのように対処していくのかという点にしぼって議論すれば、結局のところ、「身元隠し戦略」か「誇りの戦略」か、この二つ以外にはない」と力説します。

野口の言葉は、部落差別の厚い壁を前に呻吟し、絶望し、その壁を乗り越えることができないと悟ったときに、自分の中に、ありもしない幻想、自分のための「宗教」のようなものを作って、自分でその「宗教」を盲信し、その中に埋没してしまってる、あるいは自己陶酔に陥っているような感じがあります。

私は、野口があまり重点を置いていない、「差別のない社会システムをどのように構築するのか」という立場にたってこの論文を書こうとしています。部落差別は、自然発生的に生じた社会現象でも文化現象でもありません。部落差別は、権力と民衆、支配と被支配の脈絡の中で、意図的に政治的に作り出されてきたものです。各時代の、社会システム、政治システム、法システムの中に、部落差別問題を位置づけてこそ、部落差別の本当の姿を解明でき、部落差別解消につながるのではないかと思います。「未来社会への豊かな想像力」は、「過去社会」への豊かな想像力、現象ではなくシステムとして認識・把握することができる洞察力を持つことによって、必然的に開かれてくると思います。過去のシステムを解明できずにいる、また解明しようとしないから、明日の、差別なき社会の展望を持つことができないのではないかと思います。

江戸時代の穢多は、パーソナル・アイデンティティの面からしても、グループ・アイデンティティの面からしても、「昨日穢多であった、今日も穢多である、明日も穢多であり続ける・・・」、そう信じて生きていた「穢多」を部落学固有の研究対象にしていますが、幕藩体制下の社会・政治・法システムの中に「穢多」を位置づけてとらえ直すとき、はじめて、部落差別問題の完全解消につながる道が開けてくるのではないかと思っています。穢多の在所に関する考察は、「穢多」の本質や、近代以降の「旧穢多」・「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」を把握する上で、極めて重要な意味をもっています。

周防国図・長門国図に見る穢多の在所

 私の手元に1枚の地図があります。


大きさは、幅2メートル、高さ1メートル。国立国会図書館に所蔵されている地図で、その復刻版を徳山市立図書館の郷土資料室で複写・拡大し、それを貼り合わせたものです。

徳山市立図書館の郷土資料室は、地図の複写は、著作権法の問題が絡んで、どんな小さな地図でも、一枚全部を一度に複写してくれることはありません。寛大な司書の場合、一枚の地図の半分までは、一回で複写してくれます。「周防国図」・「長門国図」を全部入手するためには、最低でも4回徳山市立図書館の郷土史料室に通うことになります。

国立国会図書館に所蔵されている地図の復刻版である「周防國図」と「長門國図」の2枚の地図は、江戸時代に作成された地図の上に、明治初期の山口県の区画を上から書き込んだもので、いわば、一枚の地図の中に、江戸時代の長州藩の村と明治以降の山口県の村が二重写しにされているといってもいいような地図です。近世と近代の両時代が地図上で共存しているのです。

この地図を最初に複写してもらったのは、周防国の観音信仰を調べていたときです。

周防の国には、福岡の太宰府と広島の宮島にならんで、中世の巡礼の拠点であった、周防国極楽寺があります。中世および近世の旅人になったつもりで、瀬戸内海を船で旅をして、周防国の室積浦にたどり着いたと仮定して、そこから、どういう道のりをたどって、周防国極楽寺という、かっての天皇勅願寺にたどりつくことができるのか、調べるためでした。

長州藩は、民衆の信仰として、浄土真宗を手厚く保護しましたが、真言宗については冷やかでした。周防国極楽寺は、その維持費については、藩から一部拠出があるものの、近世全体に渡って、ごくわずかの檀家によって守られ維持されてきました。山口県にある寺院の中で、名所旧跡に数えられている寺の中にあっては、私が一番好きな寺のひとつです。

車で、参道を走ると、梅雨の時期などは、目の覚めるような青色の紫陽花の花が咲き乱れています。私は、この周防国極楽寺を「周防国紫陽花寺」と呼んで、いろいろな人に紹介しています。室積浦を船でおりて、島田川沿いを北上していきますと、やがて、周防国国分寺の参道の入り口にたどりつくことができます。

駐車場に車をとめて、境内の清水をのんで、急な石段を数分登っていくと、その頂きに、古い御堂と鐘撞堂があります。なにか、日本昔話にでてくるような小山の上の小さなお寺というところがありますが、この真言宗の寺は、観音信仰の寺で、「聖」と「俗」を分ける隔ては一切ありません。

石段に座って、麓を見下ろすと、島田川の川面が海のように見えます。

観音菩薩の浄土である補陀落世界を彷彿とさせるものがあります。もし、私が仏教徒なら、余命幾許もないお年寄りを背負って、この石段のところまで連れてきて、「ほら、ここが観音菩薩の浄土だよ・・・」といって、みせてやりたいような場所です。

差別され、抑圧され、排除され、悲しみと苦しみを背負った巡礼者が、一抹の希望を持って身を寄せる場所・・・それが周防国極楽寺です。戦後公開された古い書物に『問わず語り』(岩波文庫)があります。夫(天皇)によって、その弟に払い下げられて、妻として、女性として、非人間的な屈辱を味わった女性が出家して、全国を巡礼してまわるという話であったと記憶していますが、その中に、「足摺の観音」という文章がありました。

瀬戸内海を旅する途中、その女性が船の上で聞かされた話ですが、昔、足摺岬には、小さなお堂があったといいます。そこには、一人の住職と一人の小坊主が住んでいました。そんなある日、そのお堂に、旅の修業僧がやってきて、宿と食事を求めるのです。そのとき、住職はそれを断るのですが、小坊主は、旅の修業僧が気の毒になり、自分の食事を分けてやるのです。しかし、そのことが住職の知るところとなり、住職は、旅の修業僧を追放するわけです。そのとき、旅の修業僧は、小坊主に、「さあ、補陀落世界に共にまいらん」といって、小さな舟にのって、波の荒れる太平洋に漕ぎだすのです。そのことが何を意味しているのか、知った住職は、二人を呼び寄せるのですが、二人の姿は波に飲み込まれてしまいます。住職は、自分のこころの中に分け隔てするこころ、差別するこころがあったから、こんな悲しいできごとを引き起こしてしまったと深く悔いて、「聖」と「俗」を仕切る寺の塀を取り除き、誰でも、観音菩薩の救いを求めて訪れることができる寺にした・・・という、そのとき自分の差別性に気づいた住職が、足を摺って悔しがったという地名の由来についての話ですが、周防国極楽寺にも、「聖」と「俗」を隔てる塀はありません。

周防国極楽寺にも、「聖」と「俗」を取り除く伝承が語り伝えられています。『今昔物語』にでてくるのですが、雪が降り続いたある日、麓から食料を運んでくる信者の姿も見えずひもじい思いをしていたあるとき、雪の積もった庭に一頭の鹿を見つけるのです。住職は、それをたべて、生き延びるのですが、伝承は、観音菩薩の化身の現れとして受け止めるという話です。ある研究者は、僧侶が肉食をした寺というのは「穢寺」であるといいますが、決して、そうではありません。

中世に栄えた観音信仰の拠点であった周防国極楽寺は、近世に入って、三百年間、檀家わずか十数軒という状態が続くのです。現在もほとんど同じですが、なぜ、周防国極楽寺への巡礼が衰退していったのか・・・。私は、その理由のひとつに、周防国極楽寺の麓に、「穢多村」、それも「垣の内」が形成され、その参道を塞いでいったためではないかと思っています。周防国極楽寺は決して「穢寺」ではなく、その麓にある浄土真宗の某寺こそ「穢寺」にあたります。

私は、頭の中で、室積浦から周防国極楽寺にたどりつく旅をしたのですが、国立国会図書館に所蔵されている地図の復刻版『周防国図』に記された、村の名前、道の名前、川の名前、一里塚などの情報をてがかりに、昔、巡礼者がたどったであろう旅をたどったのです。そのこころの旅をしていく中で、ふと、思ったのです。長州藩の穢多や茶筅、宮番はどこにいたのだろうか、と。

歴史資料によると、中世・近世の巡礼者は、至るところで、穢多・茶筅・宮番に遭遇するということがわかったのです。道がわからなくなる、すると、穢多に尋ねると親切に教えてくれる、途中、強盗に持ち物を盗まれる、すると、穢多に相談する、場合によっては盗まれたものを取り戻してくれる、病気になる、すると、穢多が薬草をくれるか、医者のところに連れていってくれる・・・、街道を守っている穢多たちによって、中世・近世の庶民は安全な旅をすることができた、そういうことがわかってきたのです。

「穢多」の在所は、簡単にわかるようになりました。

『周防国図』・『長門国図』に記された街道と街道が交差する点、「穢多」の在所はそこにあるのです。中世・近世の「穢多村」は、人の住みたがらない不便な地に無理やり追いやられて形成されたのでも、自然発生的に形成されたのでもありません。「穢多村」は、当時の社会システムの中に、政治・統治システムの中に深く組み込まれて存在していたのです。二つの地図上には、「穢多村」の存在場所を示す、いかなる記号も言葉も出てきません。しかし、どこに「穢多村」が配置され、存在しているかがすぐ分かるのです。

この地図『周防国図』・『長門国図』を手に入れたことが、穢多の在所を知る上で大きな手がかりになりました。『地下上申図絵』や『御国廻行程記』などには、どこに穢多村があったのか、詳しい表記が施されていますが、『部落学序説-「非常民」の学としての部落学構築を目指して』という論文を書くにあたっては、必須ではありません。身の丈ほどの情報があれば十分です。

長州藩の基礎史料のなかに、『防長風土注進案』というのがあります。

そこには、各宰判(他藩の郡に該当する言葉)に所属する穢多村が明記されています。こまかい調査をするなら別ですが、穢多の在所について調べるには、そこまで必要ありません。すべての情報を入手するには、時間と費用がかかります。手弁当で調査・研究をしている私には、そのような環境を整えることはできません。

『防長風土注進案』には、穢多村117カ所が記録されていて、江戸時代の穢多村に関する、ある程度の情報も入手することができます。

《萩藩の被差別部落について》(西田彦一著)には、『防長風土注進案』に記載されている穢多村に関する分析があります。「地形からみた被差別部落の立地」という表をみると、穢多村は、山麓の傾斜面、山肢下端分部、小谷の傾斜面、丘陵・台地面、丘陵・台地下端部、氾濫原、乱流地、自然堤防、バックマーシュ、砂州・砂嘴、トンボロ、砂浜、ポリエ斜面に設置されているというのです。穢多村の立地条件は、西田によると、「自然災害を受けやすい」、「自然的災害の危険率が甚だ高い」、「しばしば水害を蒙った」、「一般地区とは隔たったいわゆる隔離地区」であり、「不利な自然的条件にもまして、人為的に危険地域を形成していた・・・」といいます。地理学者も、賤民史観に強く影響されているのでしょうか。西田は、それらを前提にして、このように結論を出しています。
「部落の立地条件が、自然的にも社会的にも恵まれていないことには変わりがない。したがって、地理学の立場から見るならば、地域計画を推進するにあたり、悪化地区改善をはかる行政措置が必要である。本稿の執筆を機会に関係当局の適切な行政措置を強く望みたい」。

その論文でとりあげられた52の穢多村を、自分の足で歩いてみて思うことは、被差別部落の立地条件は、決して、西田が指摘するようなものではないということです。同和対策事業の根拠を捻出するために、意図的に捏造された把握ではないでしょうか。長州藩の穢多村は、村の一部であって、村全体が「穢多村」として扱われるということは、例外(本藩別業の地)をおいては存在しませんでした。自然災害にあうとき、それは、穢多村だけでなく、その近隣の百姓や町人の居住地も同じであったと思われます。

穢多村の在所は、藩によって、ある目的のもとに配置されることによって成立します。

当時の社会システム、統治システムを前提にして考えないと、穢多の立地条件を正しく認識することはできないのではないかと思われます。穢多村は、藩によって、意図的に配置されたものです。それは、長州藩だけではありません。毛利8カ国すべてに渡って同じことを確認できますし、四国や九州についても同じです。日本全国、沖縄から北海道まで、穢多村は、それぞれの地域性を考慮されながら配置されていったのです。穢多の在所に関するキーワードは、「非常の民」ないしは「非常民」です。彼らは、「非常民」として、意図的・計画的に、全国津々浦々に配置されていったのです。

穢多の在所は、「非常民」としての職務・役務を行うのに最適な場所が選択されました。西田がいうように、決して、自然災害に弱い場所へ追いやられたのではないのです。

「高佐郷の歌」にみる穢多の在所

「高佐郷の歌」にみる穢多の在所


少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取

山口県立文書館の研究員・北川健が発掘した、長州藩の近世穢多村の伝承をもう一度とりあげてみましょう。

最初、この伝承が公表されたときには、4カ所が伏せ字になっていました。その後、伏せ字が解かれて、原文で上記のように紹介されるようになったのですが、この伝承の中で、具体的な地名は、「高佐郷」だけです。

「高佐郷」は、長州藩の時代の高佐村のことで、穢多の在所があったのは、その村の一部です。

「高佐郷」は、長州藩の奥阿武宰判に属する19ヶ村のひとつです。19ヶ村のうち、穢多(穢多・茶筅・宮番の総称、上位概念、包括概念としての穢多)の在所は、12ヶ村。戸数10~20が5ヶ村、戸数5~10が5ヶ村、戸数1~5ヶ村が7という、少数点在の地域です。

中国地方の他の穢多村との類似点が多い村ですが、前節でとりあげた西田の「地形からみた被差別部落の立地」の一覧表には、この高佐村はでてきません。高佐郷の穢多村は、ごく一般的な場所にあったのでしょう。

ときどき、北川が、被差別部落の人々に対して、「本当に地名を消していいのか。地名には、被差別部落のマイナスの面だけでなく、プラスの面も含まれている・・・」と指摘されていたと聞いていますが、この高佐郷に伝わる8行詩もそうなのでしょう。

この8行詩を、筆者は、「高佐郷の歌」と呼ぶことにします。

高佐郷の地理的な位置を、前節でとりあげた、『周防國図』・『長門國図』でみてみると、高佐郷から街道を東に行けば、徳山藩・岩国藩や安藝國、西に行けば、萩城下、南に行けば「山口」、北に行けば、石見國にたどりつくことができます。要するに、高佐郷は、江戸幕藩体制下においては、交通の要所でした。しかも、万が一、戦争が発生した場合には、この要所を抑えることで、敵軍が萩城下に侵入してくるのを防ぐことができる格好の場所でした。

長州藩は、「軍事」と「司法・警察」を明確に区別していました。

毛利藩主は、「軍事」に携わる藩士だけでなく、「司法・警察」に携わる人々(穢多もそのひとつ)を大切にしました。特に、戦時ではなく平時にあっては、高佐郷の要所を守っていたのは、「司法・警察」に携わる人々、特に、「穢多」と呼ばれた人々でした。

高佐郷の歌は、その「穢多」たちが自らを歌った歌です。

何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取

「もし、非常事態に直面したときは、高佐郷の穢多たちは、捕り物用の「ひしぎ」・「早縄」・「腰道具」・「六尺弐分の棒」を持って馳せ参じ、街道を通る「旅人」を検問し、その中に強盗が混じっていれば、それを見抜いてすぐに捕らえる。高佐郷は誰一人として村から他村へ抜け出ることはできない・・・」。この8行詩をそう読みますと、この高佐郷の歌は、高佐郷の穢多たちが、自分たちに与えられた職務に忠実に、場合によってはいのちをかけてその職務にあたっている、しかも、その職務の熟練度はすぐれていて、誰ひとりとして、彼らの支配地から逃亡することはできない。あやしいものはすべて捕らえてみせる・・・、そんな自信にあふれた歌ではないかと思います。

高佐郷の歌には、「穢多「たちが、「人の嫌がる仕事を無理やり背負わされて、いやいやその仕事に従事した・・・」というようなイメージは露もありません。彼らは、自分たちが穢多であることを誇っているし、何よりも、責任と使命を持って、与えられた職務に忠実であろうとする姿勢は、今日の警察官のような姿勢です。

いままで、部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わってきた人々は、江戸時代の「穢多「といわれた人々は、「人の嫌がる仕事を押しつけられ、下級警察の仕事をしていた」と解釈する場合がほとんどです。

『部落差別を克服する思想』という論文で、従来の通説、「人の嫌がる仕事を押しつけられ、下級警察の仕事をしていた」、あるいは、「警察の手下をしていた」という見解を、正面から否定したのが、その著者、「部落学」の提唱者でもある川元祥一でした。私は、『部落学序説』を書くにあたって、先行研究として、彼の研究に負うところが多いのですが、彼の説を確認してみましょう。

川元は、『日本の警察』(警察制度調査会)から次の言葉を引用します。

「領内の安寧を保持する警保の組織は多少の差異は見られるが、実際に現在の巡査の役職を果たしているのは、主として各奉行の配下に属する同心、岡引、穢多等であって・・・捜査の結果犯人の逮捕の段階になると、これはもはや岡引の役職ではなく、当時これを捕らえることは不浄なこととして極度に嫌い、捕縛を持って岡引に随行した穢多の仕事であった。・・・捕らえられた罪人は、上下の牢屋に入れられ、これが看守もまた、穢多の役・・・」。

川元はこの史料を分析して、「穢多」は、下級警察の仕事、警察の手下としての仕事ではなく、警察本体の仕事「現業的部分の仕事」として認識するのです。私は、川元の見解は、的を射たものであると思っているのですが、川元は、「この仕事の中に差別の対象となる側面と、周辺社会との関係性を示す側面の両方を見るのはむずかしくない」と指摘しながらも、その仕事の故に、「穢多「たちは、差別・排除の対象とされたと結論づける点では、せっかく、「穢多」の本質にたどりつきながら、その瞬間、もう一度賤民史観のまっただなかに鼻柱を突っ込んでしまうようなところがあります。

川元は続けてこのようにいいます。「明治政府は・・・種々の社会的機能を果たしていた部落に対して棄民政策をとる。そのため、歴史の中の関係性が見失われ、差別ばかりが残るのである」。

川元の説は、明治四年の太政官布告によって、「穢多」は、近世的身分から解放されたのではなく、明治政府によって「棄民」扱いされたと主張しているのです。この「棄民」という言葉を、権力者や政治家、学者や教育者は「賤民」という学術用語で言い換えていったのです。川元は、「部落問題は・・・日本の官僚たちの喉に刺さった魚の骨」であるといいますが、まさにそのとおりであると思います。その「刺さった魚の骨」をどう取り除いていくのか、それが、部落差別完全解消につながっていくことになるというのは想像に難くありません。

しかし、川元の研究は、そこで、暗礁にのりあげてしまいます。

「部落差別」は「国家的差別」と言い切るのはいいのですが、切り捨てられた理由として近代警察機構の「強引な欧米模倣」というところへと落ち着いていくところに、『部落学序説』の筆者は、彼の研究が暗礁にぶつかったことを見いださざるを得ないのです。穢多をはじめとする近世警察が切り捨てられた背景は、明治政府による、単なる「欧米模倣」ではありません。筆者は、近世警察が排除されたのは、明治政府と、それをとりまく諸外国との交渉、欧米諸国による、新しい日本政府に対する外交的抑圧、場合によっては、日本が欧米諸国との戦争によって植民地化される、あるいは属国とされる可能性がある事態を回避していく、そのひとつの手段が、明治四年の太政官布告でなかったのかと思っています。川元がいう、「日本の官僚たちの喉に刺さった魚の骨」、それは、日本国家の存続のため、切り捨てたくなかった近世警察を新政府が切り捨てざるを得なかった苦渋に満ちた決断ではないかと思います。筆者が、川元氏に期待するのは、『部落差別を克服する思想』を、政治の問題として徹底して研究してほしいということです。できれば、文化論に逃げないでほしいということです。

穢多の在所は、地理学者が指摘するような、自然災害の危険性の高い場所ではなく、長州藩高佐郷に伝わる伝承のように、近世警察である穢多の、職務遂行のための派遣・配置の場所なのです。国立国会図書館所蔵の『周防國図』・『長門國図』を見て、治安・警察の責任者になったつもりで、警察署や駐在所を配置してみるとすぐにわかるのですが、それは、「穢多「の在所と同じ場所になります。「穢多村」を示す記号や言葉がなくても、この地図をみるだけで、「穢多」の在所がわかるというのは、そういう意味です。

ひとこと、付け加えれば、私は、33年間15兆円という巨額な同和対策事業費は、単なる貧しい社会層に対する救済費ではなく、明治政府の喉にささった刺を取り除くための、「旧穢多」とその末裔に対する国家賠償的性格のものであると思っています。

部落差別はどうすればなくなるのでしょうか

部落差別はどうすればなくなるのでしょうか


それでは、どうしたら「部落差別」をなくすることができるのでしょうか・・・。

『部落学序説』がこれまで指摘してきたことは、極めて簡潔です。

明治以降の「部落差別」は、日本の知識階級・中産階級である「歴史」学者・研究者・教育者・政治家・運動家によってつくられ、継承・発展させられてきた「賤民史観」と「愚民論」を、日本の歴史学に内在する差別思想であることを認めて、その「賤民史観」と「愚民論」を、日本の社会から葬り去ることです。

『部落学序説』の筆者である私は、明治以降の日本の社会に「部落差別」を蔓延させた張本人は彼らをおいて他にはいないと思っています。

「歴史学者」・「歴史研究者」は、国家権力に対する奉仕の学として、国家権力の意志を先取り、または追従し、日本の社会の中に「部落差別」という幻想を捏造してきました。戦後、民主化が進行していくなかで、彼らは、その差別的研究を払拭する機会が充分あったと思われますが、その機会を逸して、戦前の「賤民史観」と「愚民論」を新しい装いで踏襲していきました。

戦前・戦後を通じて、「皇国史観」・「唯物史観」、いずれの史観に立っているかどうかに関係なく、「歴史学者」・「歴史研究者」は、「賤民史観」的・「愚民論」的部落史研究を遂行しました。その研究成果は、「公教育」という「権力装置」を通して、その「教育者」によって「愚民」とみなされる一般民衆・一般国民に教育・普及させられていきました。

やがて、彼らの説く「賤民史観」と「愚民論」は、「被差別部落」の運動家や活動家、一般民衆・一般国民の間にも受け入れられ、「賤民史観」や「愚民論」に疑義を抱くことがないまでに、その啓蒙が徹底されました。一般民衆・一般国民は、「部落差別」をする正統な理由がないにもかかわらず、「部落差別」をする側に追いやられ、また、「被差別部落」の側も「部落差別」される正統な理由がないにもかかわらず、「部落差別」を受ける側に追いやられてきたのです。

「部落差別」の構造的枠組みに気づいたひとがひとりでもいれば、明治以降の「部落差別」という、意図的につくり出された社会的病気の蔓延を防ぐことができたことでしょう(実際は、そのことに気づいた歴史学者・研究者・教育者は多々いたのですが、それぞれの時代にあっては少数者の意見だったのでしょう。ほとんど省みられることなく社会から葬り去られてしまいました。筆者の『部落学序説』は、そのようなひとびとの声にも耳を傾け、一般説・通説となった「賤民史観」・「愚民論」を批判しているのです)。

明治以降の「部落差別」が、知識階級・中産階級に属する人びとによって、理論化され体系化されて今日の差別的社会がつくられたということが確認されたら、「部落差別」をなくするために、「部落差別」を完全解消に導くために何をしたらいいのか、至って明瞭になります。

まず、日本の社会の知識階級・中産階級に属する歴史学者・歴史研究者が、みずからが作り上げてきた「賤民史観」・「愚民論」という「幻想」を破棄し、日本の歴史から、差別的な「賤民史観」的記述、「愚民論」的記述をみずからの手で取り除くことです。

「皇国史観」・「唯物史観」などのイデオロギー的史観から自由になって、イデオロギーから自由な史観であることを吹聴する「ファッショ史観」である「自由主義史観」からも自由になって、これまでの歴史研究から、日本の歴史学に内在することになった「賤民史観」・「愚民論」という歴史解釈上の「殻」をとりはずし、実証主義的な「歴史の核」のみを抽出、「賤民史観」・「愚民論」を克服した歴史を記述すべきです。

日本の知識階級・中産階級である歴史学者・歴史研究者が、みずからとみずからが従事する日本の歴史学に内在する「賤民史観」・「愚民論」を払拭するときにのみ、日本の「権力装置」のひとつである「公教育」において、教育者が、差別なき、ほんとうの教育実践を達成することができるのです。「公教育」の歴史教育に携わる教師の多くは、その指導内容を公的に強制されていて、それぞれの教育現場の歴史と状況にあわせて「恣意的」に変更することが許されないからです。山口県の小・中・高の教師の姿を観察しても、彼らは「権力装置」のひとつである「公教育」の忠実な「しもべ」でしかないからです。教育現場に、「賤民史観」・「愚民論」の克服を訴えても、それを実現することは容易ではないでしょう。

教育者の指導によって行われた「同和教育」・「解放教育」が、部落差別完全解消に結果しなかったのは、彼らの努力不足、教育者としての熱意が不足していたことが原因ではなく、「同和教育」・「解放教育」の前提となり「部落史」に関する歴史理解の暗黙の前提とされた「賤民史観」と「愚民論」に原因があります。

その問題点を眺望できる立場にいる学者・研究者は、歴史学者・歴史研究者だけでなく、教育学者・教育研究者も該当します。国立大学の教育学者養成機関、学校教師養成機関に所属する教授・助教授・助手・講師の責任は重大なものがあります。日本から部落差別をなくすことができるかどうか、彼らの「自己変革」にかかっています。

常に、部落差別の起源を、知識階級・中産階級に帰属する「自己」以外の「他者」(彼らによって「賤民」・「愚民」とみなされたひとびと)に原因を求め、押しつけてきたひとびとが、自らの精神の臓腑を切開手術して、その差別性の淵源である「賤民史観」・「愚民論」を取り除くことは、確かに、困難と時間がかかるいとなみであることは否定できません。

しかし、『部落学序説』の筆者の立場からみると、知識階級・中産階級である歴史学者・歴史研究者、とくに部落史の学者・研究者が、その差別性の淵源である「賤民史観」・「愚民論」を取り除くいとなみは、歴史学者・歴史研究者の「良心」のかかった問題として、そのために費やした時間と労力に勝る成果と評価を手にいれることができる・・・、と思われます。

水平社の初代中央執行委員長である南梅吉の指摘する「物質的の欠乏」(同和対策事・同和教育事業)より「精神的苦痛」(部落差別そのもの)を取り除くことを優先する必要がありあます。33年間15兆円という膨大な時間と費用をかけても部落差別完全解消を達成することができなかった「物質的の欠乏」に偏った施策ではなく、「精神的苦痛」を取り除くための「賤民史観」・「愚民論」の除去こそ、合理的な部落差別完全解消の方策なのです。

筆者は、これまで、「部落史」の学者・研究者によってなされてきた「部落史研究」のすべてを否定しようとしているわけではありません。その研究成果から、「賤民史観」・「愚民論」という差別的「殻」をとりのぞき、歴史的「核」だけを研究成果として提示すべきであるといっているのです。

『部落学序説』の筆者である私は、無学歴・無資格です。ほんとうに、まもなく60歳を迎えるまで、私の人生の中で、一度たりとも、「大学」という名前の付いた場所で「教授」・「助教授」・「講師」といわれる方から講義・指導を受けたことはないのです。一般の民衆・大衆の中に棲息する名もなきひとりに過ぎません。

しかし、そのような筆者ですら、これまでの「部落史」研究の先達の歴史をひもときながら、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」・「愚民論」を払拭し、「部落差別」成立の根源にたどりつこうとした多くの部落史研究・一般史研究があったことを確認しています。「賤民史観」・「愚民論」の流れだけでなく、民主主義的なもうひとつの思潮(民衆レベルの人間解放の論理)も存在しているのです。その流れがなければ、『部落学序説』の、部落差別完全解消に向けた提案は思い浮かべることすら難しかったのではないかと思います。無学歴・無資格の筆者より、より優位な部落差別完全解消、そして、その結果として、日本の民衆(近世幕藩体制下の「旧百姓」・近代中央集権国家の「平民」の末裔)の人間解放に直結していくことができるのではないかと思います。

日本の知識階級・中産階級に属する学者・研究者・教育者が、自らと「旧百姓」、「旧穢多」の末裔とを含む、「平等な人間解放」を指向するときにのみ、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」と「愚民論」をとりのぞき、ふたたび、個人としての尊厳を全体主義の中に埋没させる「ファッショ史観」・「ファシズム史観」・「全体主義史観」・「軍国主義史観」(「自由主義史観」の属性)から、日本の国と国民(民衆)を守っていくことができるのではないでしょうか・・・。

日本の知識階級・中産階級に属する学者・研究者・教育者による「賤民史観」と「愚民論」の継承と固守は、日本の右傾化に最短の道を用意してしまいます。

『部落学序説』の筆者であるわたしは、この『部落学序説』の貴重な読者である「あなた」に訴えているのです。「あなた」が、学歴と資格をもった尊大なお方であったとしても、また、無学歴・無資格の筆者と同じ存在であったとしても、誰はばかることなく、「あなた」の精神世界と社会から、日本の歴史学に内在する「賤民史観」と「愚民論」を取り除くことを訴えているのです。「あなた」が変わると、「社会」(「世間」)が変わる、社会(「世間」)が変わると、日本が変わる、そのようには考えられないでしょうか・・・。

非常の民としての穢多

非常の民としての穢多

「穢多」という概念は、穢多・茶筅・宮番の総称として使用しています。

長州藩では、いろいろな呼び方が「穢多」という概念に吸収される傾向があります。萩・本藩では、身分階層が細分化され、「穢多」・「非人」の別がはっきり区分されていますし、また「穢多」内部にあっても、穢多・茶筅・宮番という存在が区分されていて、それぞれ身分階層の所定の場所に位置づけられています。

しかし、長州藩の枝藩・支藩になりますと、本藩と比して、身分階層がある程度簡略化される傾向にあり、例えば徳山藩を例にとると、「穢多」・「非人」の区別がなくなり、すべてが「穢多」として表現されるようになります。また、「穢多」の内部の穢多・茶筅・宮番等の区別もなくなり、「穢多」という言葉ですべてのことが表現されるようになります。

そういうところから、私は、大概念としての「穢多」と小概念としての「穢多」の二重定義を認識するのです。上位概念としての「穢多」と下位概念の「穢多」として識別してもいいかもしれません。広義の意味での「穢多」と狭義の意味での「穢多」が存在するわけです。

まえがきで、「ある聞き取り調査」の文章で紹介した、山口県北の寒村にある、ある被差別部落は、その村の刀禰役(中世から継続して存在する村役人で、地図を作製し、土地を管理する能力を持っていることから、支配者や支配の構造が変わっても継続してその専門職にとどまり続けることが許された人)の作成した地図上に、藩の役人が、「穢多屋敷」と注を振ります。

ここでいう「穢多屋敷」の「穢多」は、包括概念・大概念・上位概念としての「穢多」です。その「穢多屋敷」、藩の牢屋敷を守っていたのは、小概念・下位概念の「穢多」ではなく、実際は、「茶筅」と言われた人々でした。

部落史研究において遭遇するさまざまな歴史資料を読んでいて、注意しなければならないのは、この「概念」の多重定義です。ひとつの概念がいろいろな意味を持って使用されているということです。それを無視して、歴史資料を解釈すると、無理を押し通す強引な解釈に陥ってしまう可能性があります。

中上健次の名著、『紀州 木の国・根の国物語』の中に、紀州の旅を終えるにあたって中上が抱いたひとつの感想があります。それは、「私は、自分が被差別部落とは何なのか、差別、被差別とは何なのか、何ひとつ分からないのに思い至る。」という言葉です。中上の紀州の旅は、それを少しでも解明していく旅であったはずですが、中上は、旅の終わりを前にそのように記しているのです。部落差別は、中上のような感受性豊かな精神を持っているひとにしてもなおそのような言葉を語らせるほどに難解なものかもしれません。

その問いは、紀州の旅の途上においてしばしば繰り返されてきた問いでもあります。

「差別・被差別の回路を持って旅をしている」という中上の脳裏にしばしばよみがえってきたのは、「差別、被差別とは何なのだろう」という問いでした。「今改めて、被差別部落とは何なのだろう、と問う。そして、被差別部落民とは何なのだろう」。中上は、ひとつの難問の前に立ち尽くします。「被差別者でありながら、被差別部落民を差別している」という現実の前に。

長州藩の「穢多」と「茶筅」の両者は、包括概念としての「穢多」に含まれるのですが、両者は、ほとんど交流がありません。江戸時代の「穢多」と「茶筅」だけでなく、「穢多」の末裔と「茶筅」の末裔の間にも通婚ということはないのです。

長州2ヶ国のひとつ、周防の国の「茶筅寺」(茶筅を門徒に抱える浄土真宗の寺)は、すべての村の「茶筅」を抱え込むためには、3ヶ寺必要になります。相対座標によって、長州藩の歴史資料に出てくる「周防国中茶筅寺」しか、史料にはでてこないのですが、口伝(浄土真宗の僧侶の話)で確認することができる、「周防国北茶筅寺」と「周防国南茶筅寺」の3カ寺です。

たったひとりで、「周防国中茶筅寺」を調査のために尋ねたとき、その住職は、「確かに、あなたが言われる寺はこの寺のことですが、お話をする前に、あなたの身元を確認させてもらってもよろしいか」といって、私の目の前で、玄関の電話を使って問い合わせをされたのです。

電話の相手先は、浄土真宗の別院(事務局)。「○○教団に○○さんというひとは在籍していますか。山口県同和問題を考える宗教者連帯会議に参加しているということですが、今聞き取りにこられています」。「ああ、いる・・・」。「例の件で話を聞きたいと言っているのですが、話をしてもよろしいのでしょうか」。「ああ、いいのですか・・・、分かりました」。そういう電話でのやりとりだったと思います。

住職は、「分かりました。どうぞお上がりください」といって、私を、応接間に通してくださった。しかし、住職は、「こちらのことを話す前に、もう少し、あなたのことを話していただけませんか。私が納得したら、この寺のことについてお話します。」といわれました。

私は、ありのまま話をした。聞き取りの相手から、真実の話を聞きだすためには、こちらも真実の話を伝えなければならない。その話のあとで、住職はこのように言われました。「そうですか。それで、あなたは被差別部落出身ではないのに、被差別部落のひとの気持ちが分かるようになったのですか。わたしと同じです。そうですか。それでは、あなたが知りたいことはすべてお話しすることにしましょう。」といって、いろいろなことを話してくださったのです。

その話のひとつに、「周防国中茶筅寺」の通婚圏の話がありました。住職は、「○○村の長吏頭をしていた○○さんのお宅を訪ねたら、必要な資料を見つけることができるし、必要な話を聞くことができるでしょう。」といろいろなアドバイスをしてくださいました。

住職に、「私が来る前に、調査に来られた方は何人おられるのですか」とお尋ねしたら、何年か前に、「光市教育委員会の方々が調査に来られただけ」ですという返事でした。山口県の部落史研究の大半は、文献上での研究だけであって、文献に登場してくる穢多村や穢多寺を尋ねて、その伝承を調査・研究している人は、ほとんど皆無に近いことを知らされたのです。

光市教育委員会は、その調査をもとに、『茶筅についての一考察(同和問題の歴史的背景の資料)』(光市同和教育資料等調査専門委員会)を出版していますが、それは、「賤民史観」一色に塗りつぶされた、読むに耐えないものでした。「被差別地区住民に関する歴史資料は、その一つ一つがその時そのところに位置づけられていた人々の苦悩の歴史であり、耐え難い歴史なのである」と断定する姿勢から、どのような教育姿勢が生み出されるのか・・・、それを考えると暗澹たる思いがしました。彼らの手にかかると、歴史上のどのような資料も、差別者の薄汚い手で汚されてしまうような気がしました。

幕末の上関茶筅隊に対して、「国によって大切にされない民が国の為に戦うという気になるだろうか」という評価をしていますが、「国(長州藩)によって大切にされない民(茶筅)が国(長州藩)の為に戦うという気持ちになるだろうか」という主張は、歴史的な事実を無視した幾重にも過ちを積み重ねた結果でてくる表現です。歴史の曲解が、同和教育をゆがめ、同和問題をあらぬ方向へと導いているのです。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落も、光市教育委員会の地域にある被差別部落も、同じ、長州藩の牢屋がありました。しかし、あるとき、光市教育委員会の地域にある「穢多村」の中にあった牢屋は廃止され、囚人はすべて、山口県北の寒村にある、ある「穢多村」の牢屋敷に移されました。その両被差別部落の明治以降の歩みは、まったく対照的なものでした。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落の人々は、先祖の歴史を忘れることなくそれを子孫に語り伝えています。融和事業や同和対策事業の対象になることもなく、差別の風雪に耐えて、自分たちの歴史を守り抜いて生きていこうとしています。しかし、山口県南の被差別部落は、融和事業・同和対策事業の対象とされ、いろいろな事業が展開されてきました。事業の必要性を説くために、彼らは、自分たちが、江戸時代、いかにみじめな状態に追いやられていたのか、その悲惨さを強調してきました。

「人間外の人間の位置に突き落とされ、同時に居住地も辺鄙な所へ押しやられ、職業まで、厳しく制限されてしまった」、「死牛馬を処理し、皮革を生産するだけでも嫌われるのに、肉まで食い尽くしてしまうのであるから、農民にとって、胴震いするほど恐ろしいことであった。人の世にあってはならないことであり、死牛馬に群がる情景は、正に地獄図であり、浅ましい畜生の集団に見えるに違いない。」、「穢多の家に生まれたら、どれだけ努力しても、穢多の身分から、またその職業から逃れることはできない。集中的な賤視を受け、悲惨な生活を余儀なくされるのを、誰も好むものはいない、耐え難い苦痛であったに違いない・・・」といいます。

被差別部落の歴史を研究する学者・研究者・教育者と、被差別部落の当事者との間の、「賤民史観」を介したやりとりは、お互いを、被差別部落の悲惨さを露骨に強化する方向へと駆り立てていきました。被差別部落の人々が、自分たちの歴史をみじめな存在であったと認識すればするほど、歴史学者や教育者は、それを裏打ちする史料や資料を提供し、それを読んだ被差別部落の当事者が、更に自分たちの卑賤感を増幅させていく・・・、そんな悪循環が作り出されていったような気がします。

被差別部落の人々が、さんざん、先祖を露骨に卑下し、侮蔑したあとで、「私達の先祖」は、「まったく素晴らしい先祖であった」と力説し、「どのような困難にもくじけない、・・・底抜けに優しく、一人、一人の生命をいつくしみ、輝かせずにはおかない先祖を持ったことを、私達の誇りにしよう」と訴えたところで、被差別部落の子どもたちにどうして受け入れられることになるのでしょうか。

私が史料で読み取る限り、被差別部落の先祖を卑賤視し、みじめで、あわれで、気の毒な存在だと印象づける、「賤民史観」の枠組みの中での、歴史学者や教育者、被差別部落の当事者の言葉は、両者が共同でつくりあげてきた幻想に過ぎません。光市教育委員会の地域においても、「高佐郷の歌」に見られるような伝承は存在していますし、「衛手(エタ)」(まもりて)として、近世警察官として、すぐれた人材を輩出した穢多村であることを伝える史料や伝承も存在しています。山口県北の寒村にある、ある被差別部落とも、「高佐郷の歌」の高佐村ともよく似た歴史と伝承を伝えているはずの光市の被差別部落なのですが、どうして、こんなに開きが、差ができてしまったのか、私は、被差別部落の人々が、「賤民史観」を自分たちの歴史としてうけとめてしまったかどうかが深く関わると思っています。

歴史学者や教育者のいう「賤民史観」を一端受け入れると、そこから、なかなか脱出できません。しかし、「賤民史観」という幻想に身をゆだねることなく、先祖伝来の伝承をただしく継承してきた被差別部落は、風雪に耐えて、その精神を継承しているのです。所与の人生を引き受けていきるだけでなく、人間としての誇りを継承しているのです。そして、被差別部落の親は、先祖の歴史を、過大評価も過小評価もすることなく、歴史の事実を歴史の事実として語り伝えることができるのです。

しかし、自分達の先祖の歴史を限りなく貶めて、みじめで哀れで気の毒な存在に自ら貶めた末裔は、その歴史を、自分たちの子孫に語り伝えることはできないのです。その結果、被差別部落の子どもは、学校同和教育や社会同和教育の枠組みの中でしか、自分自身を認識することができなくなります。そしてまた、33年間15兆円をかけた同和対策事業終了後も、同和対策審議会答申でいう「心理的差別」が残存する中、被差別体験を余儀なくされ、悩み苦しむこどもたちも存在するのです。

同和対策事業の終了と共に、この山口県にあっても、ちょうど潮が引くときのように、みんな手を引いていきます。部落史を研究してきた人でさえ、「もう一銭も研究費がでないからしない」と宣言する人もいます。小学校も、中学校も、高校も、同和教育から明らかに後退していっています。政府からの援助がなくなったという理由で、同和加配の教師の数を減らすために腐心されている管理者もいます。

被差別部落のこどもたち、中学生・高校生の、部落差別をめぐる悩みを聞いてくれる教師はもういないという声も聞かれます。

私は、部落差別を完全解消に導き、誰もこのことで苦しんだり悩んだりしないようにするためには、差別者の中にも、被差別者の中にも存在する、近代の、明治以降の権力者や政治家、学者や教育者が、そして被差別の当事者も連座して、つくりあげてきた「賤民史観」を徹底的に破壊することしか方法はないと思っています。「賤民史観」は、融和事業や同和対策事業の前提でしたが、「賤民史観」を取り除くことによって、融和事業や同和対策事業の前提を失ってしまうことになります。しかし、それはそれでいいのではないでしょうか。日本の社会から、部落差別が完全になくなってしまうなら。「部落差別はなくならない。日本の文化や国民性に内在するものだから。だから運動で取るものをとったほうがいい」という敗北主義的考えは棄てて、差別・被差別が共働して、次の世代を担う子供たちのために、「賤民史観」を取り除いていった方がいいのではないでしょうか。

被差別部落の当事者であり、学識と経験の豊富な川元祥一の部落学と、被差別部落出身ではない、ただの無学な貧乏宗教家の私の説く部落学は、同じことを主張することができます。

古代警察、中世警察、近世警察の末裔は、近代警察・現代警察に継承されていること。

近世から近代への移行期の中で、歴史上前代未聞のできごと、近世警察の解体を余儀なくされたことで、古代警察→中世警察→近世警察→近代警察→現代警察へとその系図をたどることができる人と、明治政府の政策によって、近世警察が解体され、近世警察→近代警察→現代警察の流れに入ることができず、近世警察(穢多)→旧穢多→新平民→特殊部落民の流れをたどらされた人がいること。

33年間15兆円をかけて実施された同和対策事業は、単なる社会的経済的な底辺にいる人々への救済事業ではなく、明治初期のやむを得なかった近世警察解体の中で、日本国家の近代化の犠牲になった人々、近世警察(穢多や非人)に対する国家による包括的な賠償であったこと。それは、同和対策事業の隠れた動機でした。その動機は、かくされたままになったので、今日のような混乱が起きているのですが、日中戦争の実質上の戦後賠償は7兆円の経済援助であったし、北朝鮮との国交が回復したときの戦後賠償額は1兆2千億円とも言われていますが、15兆円は、それをはるかに凌駕する額でした。

どの国のどの歴史を見ても、後の政権が、前の政権の経済的な失策で貧しさの中に置かれた人々に対して損害賠償をしたという話は聞いたことがありません。百姓の末裔である私もそのような話は一度も聞いたことがありません。それなのに、同和対策事業は、過去の政策の結果に対して実施されたのか、それは、明治政府による国策上の都合で犠牲になった人々に対する国家賠償以外の何ものでもないことを物語っているのです。

同和対策事業は、その真意を明らかにしなかったために、「穢多村」や「穢多村」を核とする「特殊部落」ではなく、「同和地区」指定された地域を対象に実施されたのです。政府のこのあいまいさが、「似非同和行為」を誘発します。本当に受けなければならない人々のところにその資金は届かず、まったく関係がない、自称「部落」の人々のところに資金がいたずらに流用される結果になったのは、政府の同和対策のあまさにあります。

権力者や政治家、学者や教育者は、「賤民史観」を棄てて、被差別部落民の名誉を回復すべきです。

そのキーワードになるのが、「非常」民という概念ではないかと思います。「非常の民」は、穢多が穢多自らを語る時に使用した唯一の概念です。

御用の節は御忠勤尽くし奉る身分・・・

 御用の節は御忠勤尽くし奉る身分・・・

『部落学序説』の素材を、長州藩の具体的な史料から選択するとき、よく指摘されることは、「それは、長州藩だけの例外事項に過ぎない・・・」という批判です。

例外というのは、ひとつかふたつかなら、例外であると断定してもいいかもしれませんが、例外が無数に存在するようになると、果たして、それを例外として処理していいものかどうか検証しなければならなくなります。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取

「高佐郷の歌」の中で、穢多が自分たちの存在を「非常」に関わる民であると歌っているのは、決して、長州藩だけの例外ではありません。長州藩内部にあっては、「穢多」以外の「手子」も、同じように自分たちのことを表現しています。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落・・・、その村に伝えられた古文書によると、「○○○手子元之由来ハ、第一に他国御境目、御城下よりハ御手遠ニ付、火急之御間合兼候故、何ぞの節は御用役ニも可被召仕・・・」として、「先祖代々伝来の鉄砲を持伝へ、緩なく鉄砲稽古に励んでいた」と伝えられています。毛利が、周防国・長門国の長州二カ国に減封される前に、その地方にいた郷士身分がその前身であると言われています。

また、長州藩の周辺諸藩においても、同じような表現を史料の中に見いだすことはそれほどむずかしいことではありません。中国地方においても、四国地方においても、少しくその地方の歴史資料をひもとくと、同種の証言を収集することができます。

「諏訪御用之節奉御忠勤尽身分」といってのけたのは、岡山藩の「渋染一揆」に参加した穢多たちでした。「役人村」に住むことを許されている穢多たちは、「盗賊」・「狼藉」・「荒破者」・「一揆起之族」によって引き起こされる非常事態に際しては、「番人」として任命されたものだけでなく、穢多村の住人「一統」が、「不顧身命」、「御忠勤」を尽くしたてまつる存在であると証言しているのです。

長州藩・高佐郷の穢多と同じように、「上から押しつけられていやいやその仕事に従事していた・・・」というのではなく、むしろ、彼らに与えられた職務に忠実に、責任と使命を持って対処しようとする穢多の姿が描かれています。

穢多といわれた人々が、おのれを「非常の民」として了解していたという記録は、決して珍しいものでも、例外的なものでもありません。幕藩体制下のもとで、日本全国津々浦々に存在していた穢多たちの共通の姿勢なのです。

穢多たちの職務は、現代でいう「警察官」そのものでありました。彼らを指して、「衛手(エタ)」(まもりて)と呼び、「非常の民」、「非常民」と呼ぶのは決して的外れではないのです。

岡山藩の穢多が当時の警察官、「非常の民」であることを見失ってしまいますと、彼らの本当の姿を描くことができなくなってしまいます。「渋染一揆」の性格すら、間違って解釈されてしまいます。

『渋染一揆論』(柴田一著)は、渋染一揆に関するすぐれた研究書です。

しかし、「賤民史観」にどっぷりと浸かっているため、渋染一揆の本質を十分に把握できないでいます。柴田が書こうとしたのは、「差別や迫害に対して真っ向から挑戦する、たくましい部落民衆」なのでしょうか。柴田は、「部落解放の展望に役立つ新しい近世部落を再構成するための突破口」として『渋染一揆論』を執筆したといいます。そんな柴田の目に写る、渋染一揆の時の指導者の一人稲坪の友吉が、明治四年の太政官布告の次の年、稲坪の小学校の教授になったことについて、「郡中切っての秀才で頭脳がよかった」という伝承の存在を認識していながらも、「一揆を指導した弥市・友吉といった知識人は、いったいどこでどのような勉強をしてその知識を身につけたのか、いまもって謎である」といいます。

柴田の、渋染一揆に関わった穢多に対して、低く評価した上での推測でした。

時代的制約や時代的要請があったとはいえ、穢多に対する、柴田の前理解、偏見と予見がわざわいしていると思われるのです。

柴田は、「岡山藩が部落差別のしかたにもことかいて、服装・持物など、一見してすぐにそれとわかるような露骨な措置をうちだしてきた藩当局のねらいはなんであったのか」と自ら問いかけていますが、柴田は、自ら立てた問いに対する答えに失敗しています。失敗させたのは、「賤民史観」です。自らを非常民として証言する穢多の声に耳を傾けることに失敗したのです。

幕末の外交問題で揺らぐ時勢にあって、岡山藩は、藩内の警察機構を近代的なものに変えようとしました。それは、近世警察の顕在化でした。日本人だけでなく、外国の人も街道を往来する可能性のあることを認識した上で、近世警察の本体である穢多に対して、それとわかる制服(渋染・藍染)を着せ、日本人だけでなく、外国の人に対しても、警察権力そのものを顕在化させることでした。

しかし、岡山藩から出てきたお触れに対して、岡山藩の穢多たちは、近世警察としての職務遂行上の理由から、そのお触れの撤回を藩に求めるのです。穢多が一目で分かる制服を着せられると、逮捕しなければならない盗賊が、遠見より穢多の姿を見て進むべき道を変え、犯人逮捕のさまたげになる・・・というのが、岡山藩穢多の主張でした。それは、差別に対する抵抗ではなく、穢多の本来の職務に対する、穢多が穢多であり続けるための藩に対する訴えでした。

非常に関わる民が、非常を引き起こすことにためらいを持つ岡山藩の穢多たちは、普通の百姓一揆の仕方ではなく、近世警察として相応しい訴えの形式を選択します。それが、「竹槍一本持たない強訴」の形になったのです。村役人が、六尺棒を振るう中、丸腰の穢多たちは、それを手で払いながら、粛々と陳情のために歩を進めたのでした。

柴田によると、そのとき、「百姓は少なくとも藩側、役人側に加担していない」といいます。むしろ、百姓は、「皮多の者もこの責てに、二夜三日の住居(野宿)さぞ苦しかるべし、清水なりとふるまわん」と、「熱暑のもと渇きと疲れに苦しんだ」穢多たちに冷たい水を差しだすのです。

私が、渋染一揆を見るときの視点は、渋染一揆の指導者が投獄された牢庄屋・利介の目です。彼は、一番牢という、「入ったからには、まずは生きて出られない」という「重罪人の牢舎」のぬしをしていた人ですが、周防国玖珊郡柳井町の百姓(長州藩では、百姓)であった人ですが、自分たちは重罪を犯したのであるからこの牢獄に幽閉されるのもやむを得ないが、渋染一揆によって捕らえられ裁かれ入牢させられている穢多たちから話を聞くにつれ、利介は、彼らに責めるべき罪が見当たらないことを確信していきます。そして、長引く入牢生活で、一人二人と、近世警察官が倒れ息をひきとっていく様を見て、大犯罪人、長州藩周防国玖珊郡柳井町の百姓・利介は、渋染一揆の首謀者たちの赦免要求の嘆願書を提出するのです。

渋染一揆は、穢多たちに対する差別への抗議ではなく、穢多の職務熱心から出てきた要求であったのです。穢多が穢多であるための・・・。それが、牢庄屋・利介という犯罪者による、もうひとつの犯罪者への赦免要求の背景でした。

「すわ、御用の節は、御忠勤尽くし奉る身分にて・・・」と、自らを、「非常の民」、「非常民」として証言するのは、長州藩の穢多も、岡山藩の穢多も同じであったのです。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取

長州藩高佐郷の穢多の歌は、岡山藩の穢多の歌でもあるのです。そこには、穢多であることの責任と使命、近世警察としての誇りと意地があります。『部落学』は、渋染一揆に関わった穢多たちについても、その名誉を回復することをひとつの課題にしなければなりません。 

命題「穢多は非常民である」

 命題「穢多は非常民である」

穢多をして穢多を語らしめる・・・

それは、『部落学序説-「非常民」の学としての部落学構築を目指して』にとって、極めて大切な事柄です。幕藩体制下の「穢多」が、自分たちを「非常の民」あるいは「非常民」として理解していたことは、これまで述べた通りですが、この段階で、近世の「穢多」を仮説的に定義してみましょう。

命題1:「穢多は、非常民である」。

近世の「穢多」概念を、「非常民」という属性で定義します。

定義は、一般的に、内包を決めて、そのあとで外延を確定することで成立します。「非常民」という定義語は、近世の「穢多」に関する歴史資料や伝承の分析から抽出してきたのですが、この述語は、既に、民俗学等で使用されている言葉です。

民俗学の祖・柳田国男は、民俗学の研究対象を「常民」という言葉で概念化したのですが、「常民」研究としての民俗学は、「常民」の対局にある「非常民」については、さほど研究の触手を延ばさなかったといわれています。

柳田は、「非常民」をとりあげるときに、《いわゆる特殊部落の種類》にもみられるように、「非常民」よりも「特殊部落民」という言葉の方を用いたように思われます。柳田が、念頭に置いていた「非常民」は、かなり大雑把なもので、まだ未整理のものが相当含まれていたように思われます。『部落学序説』で、「非常民」という言葉を、「穢多」の述語として採用するときには、当然、再定義が必要になります。

民俗学者の宮田登は、その著書『ケガレの民俗誌 差別の文化的要因』の中で、「常民」と「非常民」の関係について、二つの説があることを指摘しています。

ひとつは、「常民」と「非常民」の区別をする必要はないとする説。「日本社会には常民と非常民と、二通り存在したわけであるが、農村社会はほとんど常民であり、非常民は歴史の流れの中で常民化してくるわけであるから、実態として両者を明確に分けて考える必要はない・・・」というのが、その理由です。

もうひとつの説は、「非常民」を「常民」に対して「非・常民」としてとらえ、「常民」と「非・常民」の関係を、「差別・被差別」の関係でとらえようとする説。この場合、「非・常民」は、近世の穢多・非人とその末裔を指すことになりますが、宮田は、この分野については、日本民俗学が未だ解明していない問題であるといいます。

私は、『部落学序説』の枠組みの中で、「穢多は、非常民である」という最初の命題を定立するとき、「常民」と「非常民」の関係について、前二者とは、別様の仕方で把握したいと思います。

「常民」と「非常民」の関係を、「常・民」と「非常・民」として、つまり、「常の民」・「非常の民」として再定義したいと思います。両者の関係を、近世・幕藩体制下の支配システムの中に、差別・被差別として捉えるのではなく、支配・被支配の文脈で捉え直すのです。つまり、「常の民」を被支配の側に、「非常の民」を支配の側において、『部落学序説』の研究対象を考察するのです。

この話は、いままで、いろいろな人にしてきましたが、部落解放運動に熱心に参加している、私が所属している宗教教団の同和担当部門の上司は、「そんな説は受け入れ難い」といいます。理由は、江戸時代、穢多と言われた人々が差別される側にいた、いわれなき差別を受けてきたということで、同和対策事業が存在しているのに、それを否定するどころか、穢多が支配の側にいて、場合によっては、百姓を虐げていたとする主張を認めた日には、運動の基盤や根拠が失われてしまう・・・」というのです。

私は、幕藩体制下はもちろん、明治に入ってからも、穢多は、「被差別」ではなく、「非常の民」として、平民に対して、支配する側に身を置いていたと思います。

しかし、諸外国に認めた治外法権を日本の国辱とみなし、一日もはやく、その条約を破棄したいと思った明治政府は、急激な政策を打ち出し、治外法権撤廃の環境を作り出そうとします。それが、廃藩置県や明治4年の太政官布告だったわけです。

その太政官布告の、「穢多非人などの称廃せられ候条、自今身分職業とも平民同様たるべき事」という一文で、穢多は、「旧穢多」とされ、「非常の民」から「常の民」に身分を落とされ、平民と同じになったということで、「新平民」とされ、そのことで、多くのひとから、嘲笑とあなどり、差別を受けるようになったと思われるのです。「非常の民」として「支配する側」にいた穢多が、明治4年の太政官布告以降は、「常の民」として「支配される側」(差別される側)に身を置くようになったのです。

部落差別問題の本質を把握するためには、部落史を、幕末から明治4年の太政官布告に至るまでの経過をもっと詳細に解明しなければならないと思っています。しかし、多くの部落史研究家は、明治4年の太政官布告から、その筆を起こすのです。「天皇の命によって出された、太政官布告によって、江戸時代三百年間差別されてきた穢多・非人等が身分を解放されて自由になった・・・。」それを前提として、また、自明の理として、不問に付して、被差別部落の歴史を追求しているのです。

その詳細は、第4章 「解放令」批判でとりあげることにして、とりあえず、「穢多は、非常民である」という命題を前に、「穢多」概念の内包と外延を検証していきましょう。

(無学な私は、こういう文章を書くとき、一般的な言葉でしか表現できず悩むのです。もっと便利な言葉がありそうだと・・・。しかし、無いものはないのですから、嘆いても仕方がありません。持っている言葉で表現し続けます。)


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※「非常民」概念は、2通りのよみ方が可能です。「非常・民」と「非・常民」。前者は、『部落学序説』でとりあげる「非常民」で、「非常・民」・「非常の民」という意味です。近世幕藩体制下の司法・警察を職務をしていたひとびとのことで、『部落学序説』では、その一端を担った人々として「穢多・非人」をとりあげますが、彼らを当時の社会から隔絶された存在としてではなく、与力・同心・目明し・穢多・非人・村方役人で構成された「非常民」システムの中に有機的に関連付けてとりあげます。後者の場合、「非常民」を「常民に非ず」と解釈します。まず、「常民」を定義して、その範疇にはいらない人々を「非・常民」として把握します。その結果、「非常・民」として把握された場合と、「非・常民」として把握された場合では、「非常民」概念の外延と内包に著しい違いが生じてしまいます。どのような違いが生じるのか、簡単に確認する方法は、筆者の『部落学序説』と、赤松啓介の『差別の民俗学』を読み比べていただければよろしいかと思います。筆者の『部落学序説』は、「非常・民」理解に立ち、赤松啓介の『差別の民俗学』は、「非・常民」理解に立っています。赤松の研究は、「非常民民俗学」とよばれているようですが、筆者の目からみると、赤松の「非常民民俗学」は、「賤民史観」に立脚した民俗学であると考えられます。赤松は、その民俗学を「解放の民俗学」(前掲書)と自認していますが、『部落学序説』の論述において、赤松啓介の「解放の民俗学」を資料とし引用することはありません。赤松は、「常民」概念は、民俗学者の祖・柳田国男によって創出されたことをみとめながら、柳田の「常民」概念のあいまいさを指摘します。柳田自身、「常民」が何であるのか理解していないと。赤松は、柳田の「常民」概念は「賤」を排除したときに成立する概念であるとして、赤松の「解放の民俗学」においては、「常民」の対極概念である「非・常民」に「賤」という属性を露骨に負わせる結果になっています。『部落学序説』の筆者は、赤松の「解放の民俗学」を排除しつつ、柳田民俗学の「非常・民」概念を抽出・評価する方向で、この『部落学序説』を執筆しています。筆者の『部落学序説』と赤松の「解放の民俗学」とは似て非なるものです。 

「賤民」概念を破棄する理由

 「賤民」概念を破棄する理由

明治以降、江戸時代の「穢多」を表現する際に、歴史学者によって、一般的に、「賤民」という学術用語が用いられてきました。

新村出の『広辞苑』(初版)をみると、「賤民」という言葉には、次のような説明が施されています。

「いやしい身分の人。一般民衆よりも低い身分として制度的に差別を受ける人々。律令制では良民と区別して五賤をおき、中世には非人・えた・散所・河原者など卑賤視された人々があり、近世幕藩体制下では四民の下にえた・非人の身分を設け、過酷な差別待遇をした。賤。」

歴史学者の多くは、この「賤民」という概念を、ほとんど批判検証することなく、歴史学の前提として使用しています。歴史学者が、この「賤民」という概念の定義付けに無関心であればあるほど、歴史学者は、この「賤民」という概念を、『広辞苑』にでてくるような、一般的、通俗的な意味で使用するようになります。

新村は、「賤民」を「いやしい身分の人」と説明するのですが、「賤民」と「いやしい身分の人」という言葉は決して同義語ではありません。

「賤民」という漢語で表現される場合、その内容は、本質概念・実体概念になります。

近世幕藩体制下では、「四民」(士農工商)の下に位置づけられた最下層の身分として、本質的に「過酷な差別」を受けた存在になります。

山口県立高校の社会科教師や研究者と話をして思うことは、そのほとんどの人が、「賤民」という概念を、穢多・非人が、その本質と実体において卑賤視されるようなものを持っていたが故に、そのように表現されるに至ったと解釈しておられるということです。「穢多」という概念についても同じです。「穢れ多し」と言われるような実体があったから「穢多」と呼ばれるようになったというのです。

確かに「賤民」というのは、明治以降の歴史学者によって、今日に至るまで、そのような意味合いで使用されてきたと思います。

しかし、「賤民」という概念と違って、「いやしい(賤しい)身分の人」という表現は、別の解釈の可能性がでてきます。

「貴」・「賤」との関連でとりあげられる「賤」は、決して、本質概念・実体概念ではないからです。「賤」だけでなく、「貴」についても同じです。江戸時代、幕藩体制下で使用された「貴」・「賤」は、江戸時代三百年間を通じて、本質概念・実体概念ではなく、関係概念に過ぎなかったのです。

部落史の研究者の言葉を引用するのは簡単ですが、少しく、江戸時代の文献をみてみましょう。

近世初期の儒学者の中に、林羅山がいます。彼は、「大学頭として江戸幕府の儒官を世襲した林家の始祖」で、「1605年家康に学識を認められ310石の知行を与えられ」、家康・秀忠・家光・家綱の四代の将軍に仕えた人です。

江戸幕府の文化の基礎を作ったといってもいい林羅山は、「差別がなくば、国は治まるまい」(以下の引用は林羅山著『春鑑抄』から)といいます。

「差別」は、幕藩体制下において、将軍をはじめとする支配者が、民衆を支配するときに必要な礼儀・法度だというのです。幕藩体制を維持するためには、「尊卑ノ序」を重んじなければならないというのです。「尊」は、「位のたかき」をさし、「卑」は、「位の低き」をさすというのです。近世幕藩体制という封建的身分制度の序列の中で、身分の高低を、尊卑であらわしているのです。「君にも天子あり、諸侯あり、その差別が何につけてもある」というのです。

つまり、江戸幕府の支配の頂点たる将軍にも、「尊」と「卑」の両方があるというのです。林羅山は、この尊卑を貴賤という言葉でも表現しますから、江戸幕府の支配の頂点たる将軍にも、封建的身分制度の枠組みの中では、「貴」と「賤」の両面があるということになります。林羅山は、この「尊」・「卑」、「貴」・「賤」を差別する制度・慣習を「法度」と呼んでいます。

林羅山がいう尊卑・貴賤は、実体概念・本質概念ではなく、関係概念なのです。

近世幕藩体制下の封建的身分制度のすべての階層は、好むと好まざるとにかかわらず、この尊卑・貴賤の両側面を持っていることになります。

地方の藩主を例にとると、身分制度の最上位に位置する藩主は、幕府の将軍に対しては限りなく「賎」の位置に置かれ、その藩の家老等に対しては、限りなく「貴」の立場に置かれます。また、家老は、身分制度の上位の身分「藩主」に対しては、限りなく「賤」の立場におかれ、また逆に、その家臣に対しては、限りなく「貴」の立場におかれるのです。つまり、封建的身分制度の中では、封建的身分制度に占めるおのれの位置の違いによって、「貴」ともなれば、「賤」ともなるのです。

封建的身分制度というのは、この「貴賤」の限りない連鎖の上に成り立っているのです。この連鎖の頂点を、絶対的な「貴」とすると、その反対の極には、絶対的な「賤」が存在することになります。しかし、江戸時代、そのような絶対的な「貴」とか、絶対的な「賤」というものが存在していたと考えることは非常に困難です。江戸時代三百年間を通じて、「貴賤」は常に関係概念として相対的な意味合いしかなく、絶対概念として使用されたことは一度もないと思うのです。

その証拠に、明治維新は、幕藩体制下、「賤」の位置にあった長州・薩摩・土佐藩が、「貴」の位置にあった徳川幕府を追い落とし、代わりに、自分たちが「貴」の位置に居すわるではありませんか。明治維新というのは、幕藩体制下の「武士道」、あるいは、「武士の精神」を完全に否定するところからはじまります。明治維新は、本質的に、封建的身分制度の「貴」・「賤」の位置を逆転するだからです。

「貴」・「賤」が関係概念であることを示すために、江戸時代のもうひとりの儒学者の言葉に注目してみましょう。

それは、新井白石です。

彼は、『新井白石』(岩波書店・日本思想体系)の解説を書いた加藤周一によると、「十七世紀末から十八世紀初にかけて、鎖国下の日本が生んだ代表的な知識人」です。彼によると、新井白石は、幕府の「行政官」としての職務の他に、いくつかの学問的な業績を残した人であるといいます。特に、「日本語学者としての白石は、話される言葉と表記された言葉とを鋭く区別し、時代・地方・社会的条件による言葉のちがいを意識しながら、一種の国語辞典を作って、日本語学の基礎を置いた」ことと、「歴史家としては、この国ではじめて資料を批判的に扱い、常に事実を尊重しながら、歴史に内在する要因から史的発展を証明しようとして、武士権力成立の歴史を書いた」ことを取り上げています。

その、比類まれなる言語学と歴史学に精通した新井白石が、「貴」・「賤」をどのように考えていたのか、それは決して意味のないことではないと思います。

新井白石はその書簡(『白石先生手幹』)の中で、彼の息子や娘のことを、「賤息」・「賤女」と呼んでいます。現代人は、「賤息」はともかく、「賤女」に対しては即差別語として受け止めるでありましょう。しかし、白石は、その手紙の中で、自分の娘に対して「賤女」という言葉を何のためらいもなく使用しているのです。それは、白石が、「賤女」ないし「賤しい女」、本質的に賤である存在として受け止めていなかったということを物語っています。白石にとって、「賤息」・「賤女」という表現は、その時代の身分関係における敬語表現、謙譲語以外の何ものでもなかったのです。白石が「賤」という言葉を使用するとき、それは、関係概念としての「賤」を表出したにすぎません。貴賎は、身分制度の身分の上下だけを指示する言葉であって、それは、決してその本質を、「賤」なる実体を表現する言葉ではなかったのです。近世において、歴史学の基本的な研究、資料批判や本文批判を行った歴史学者の白石は、歴史上の用語、その文献資料に出てくる「貴」・「賤」についても同様の判断をしていたのではないでしょうか。

今日の、部落史の研究者が、「賤民」という概念を、歴史学の基礎用語として、その身分の本質と実体を示す概念として、何の検証も批判を経由することもなく、学術用語として、無批判的に使用することは決して正しいことではないと思うのです。「賤民」という言葉を用いた瞬間、部落史の研究は、底のない、暗い迷路に誘い込まれるような気がします。「賤民」という概念は、歴史学上の「ブラックホール」として存在するようになります。歴史学者の、ありとあらゆる研究と考察が、その「ブラックホール」に吸い込まれれば、二度とその世界から出てくることはできなくなります。歴史学上の「ブラックホール」は、怠惰な歴史学者にとっては、本当に都合のいい「装置」になります。例外的な資料、「みじめで、あわれで、気の毒な人々」のイメージを、その穴の中で累積・拡大・増長し、人間としての悲惨さを強調することができます。

私は、歴史学が本当の科学なら、自らの科学の内に、そういう「ブラックホール」のような誤魔化しの装置を放置しないで、それを批判・検証して取り除き、その研究の内容を白日の下にさらけ出すのが本当であると思うのです。

この『部落学序説-「非常民」の学としての部落学構築を目指して』の原稿は、研究対象である「部落」に対して、あるいは、その前身である「穢多」に対して、「賤民」という概念を一度も使用しませんでした。明確な価値判断を伴った用語を一般用語として使用することは、特に、研究対象に対してマイナスの価値評価を伴う概念を使用することは、学問上、大きな問題があるのではないかと思います。 

「士農工商穢多非人」不要論

 「士農工商穢多非人」不要論

この『部落学序説』で最初に定立した命題は、「穢多は、非常民である」という命題でした。

「穢多」は、「非常民」ですが、「非常民」は、必ずしも「穢多」であるとは言えません。なぜなら、「穢多」は、「非常民」という概念の外延、つまり、構成要素のひとつでしかないからです。

「民」は、「非常民」と「常民」に区分されます。

民俗学の祖・柳田国男は、まず、「常民」を定義して、そのあと「常民」に非ざるものを「非常民」として提起していきます。そのため、「常民」か「非常民」か、区別しにくい中間領域的存在を、「非常民」の側に含めて論議します。

その結果、「非常民」という概念は、複雑な様相を呈してきます。私は、あいまいさを排除するために、まず、「非常民」を定義して、「非常民」にあらざるものをすべて「常民」として把握すべきであると思っています。この場合の「非常民」は、「常民」と「非常民」の間の中間領域的存在を最初から排除して「常民」の範疇に数えます。

この場合の「非常民」は、「軍事・警察に関与する人々」を意味します。

「軍事」は、本来武士の仕事、「警察」は、一部の武士と穢多・非人、そして村役人の仕事になります。「軍事」に携わる人も、「警察」に携わる人も、非常時に非常に関わる仕事ですから、文字通り非常民になります。「穢多」は、武士身分・百姓身分の「非常民」と共に、近世幕藩体制下の司法・警察に従事することになりますが、当時の「警察」は、司法・検察・警察が渾然と一体化したもので、厳密な意味では、今日の「警察」とはかなり大きな違いがありますが、その職務の本質上、近現代の警察に類似した「警察」であることは、いろいろな史料から想定することができます。

長州藩では、「穢多」は「役人」と呼ばれています。

警察職として勤務するその代償として藩から「役人」に支給される手当てを受け取っていました。名実共に、近世警察官であったわけですが、長州藩の枝藩である岩国藩の武士は、子宝にめぐまれず、御家断絶の危機に直面したとき、武士と同じ「非常民」である「穢多」身分から、文武に長けた養子を迎えたといいます。「武士」と「穢多」との関係は、私達が考えているほど遠い存在ではありません。

「士農工商穢多非人」という図式は、「士」と「穢多・非人」の距離の遠いことを示しています。

しかし、ものの見方・考え方を少しく変えると、「士」と「穢多・非人」は、極めて近い存在になります。

《中国の歴史思想》を書いた宮崎市定は、「あらゆる学問の中で、歴史学はとりわけ客観的具体性を尊重する学問である」といいます。宮崎は、「歴史学とは史料に歴史事実を語らせる学問」であり、「何を史料に使い、その史料をどう使うか、という問題に還元される」と指摘、「歴史学は結局、歴史事実をして歴史事実を語らせる学問だということになる」といいます。「すぐれた歴史家とは、史料のいうことを間違いなく受取る聞き上手のことである」と断言します。またこのようにも語ります。

「歴史を如何に理解すべきかという問題は、歴史学の専門家と非専門家とではその受け取り方が違う。というのは、一般の人にとっては歴史事実は始めからそこにあった自明なもの、与えられたものとしてそれをどう理解するかだけが問題なのであるが、歴史の専門家にとってはそうはいかない。歴史学者にあっては先ず自分で史料から歴史事実を汲み取り、造りあげることから取りかからねばならぬのである」。

少しく長い引用になりますが、歴史学の先達の言葉に耳を傾けることは意味のないことではないと思われますので、続けます。

宮崎は、「要するに政権から歴史学に対する注文があまりにも多すぎるのである。新政府の革命を偉大なものと謳歌するにはその前に暗い封建時代を前提としなければならぬ・・・」と、近代国家によって、賤民史観が発生する前提を示唆しています。そして彼は、その論文をこのように結論します。

「いったい歴史学に限らず、凡ての学問は只真実のみを注文するのでなければ順調に発達するものではない。ここにいう真実とは、人間の理性に信頼し、自由に放任された人間なら、誰しも結局は認めざるを得なくなる真実をいうのであり、闘争の末に勝った官軍によって宣言されて始めて真実たりうる真実のようなものをいうのではない」。

「賤民史観」に限定して言えば、歴史学者の多くは、「穢多」が「賤民」であることを証明するために、牽強付会的な強引な解釈を施して、「みじめで、あわれで、気の毒な」そんなイメージを含む史料をすべて「穢多」に押しつけます。歴史資料をして歴史事実を語らせるのではなく、権力や政治の要請に応えて、歴史の真実を歪曲し、捏造してしまいます。「部落史」の分野においては、「賤民史観」は暗黙の前提として、歴史学者や教育者を精神的に拘束します。

学歴も学識もない筆者は、時の権力が要請した「賤民史観」に拘束された、部落史の学者や研究家と比して、「自由に放任された人間」として、学歴・学閥などに拘束されることなく、歴史資料や論文からのみ判断材料を得て、デカルトのいう内なる「理性」に信頼して、歴史の真実を追求することができます。

歴史学的研究をする上での姿勢について学ぶところが多い宮崎ですが、この論文を読んだのは高校2年生のときでした。彼の言葉は、いまだに私の心の中にあります。

その論文の中で、宮崎は、漢代の司馬遷の史料蒐集のための旅にふれて、このように語っていました。「彼の旅行はまた彼の視野を一般市民層にまで拡大するに役立ったと思われる。ここに市民というのは、中国でいうところの「士」の階級にあたるものをさす。士とは要するに武器をとって国家防衛に参加する義務と権利を有する壮丁の謂で、上古には貴族の子弟に限られていた者が、戦国時代から各国の国都における軍士の集団を意味し、秦漢時代には広く全国の農民までも含むにいたったものである」。

「士・農・工・商」という近世身分制度上の図式を考慮する際、「士」を、「貴族の子弟」に相応する藩士のみに限定せず、士雇・中間・足軽・穢多・非人・茶筅・宮番・村役人まで、「非常の民」すべてを含む概念として、「士・農・工・商」の「士」を把握すれば、「士農工商」の下に「穢多非人」を置かなくてすみます。穢多・非人は、非常時の質によっては帯刀を許されたのですから、何ら不都合は存在しません。

鹿児島大学・大学院で東洋史を専攻した「研究家」は、宮崎市定の説は一般的ではないといいます。そんな説にのっかって論をすすめたら恥をかくことになるといいます。学歴も資格も持ち合わせていない、ただの無学な私にとって、最大の敵というのは、私が知らない学者の名前を出されて、その権威を背景に反論される場合です。彼の学識の広さを認めるものの、時々、なぜ、「史料」そのものよりも、「通説」や「学説」を重んじるのか、不思議になります。

この『部落学序説』は、学歴のなさを十分認識しつつ、それを、「足で歩いて」、「目と耳で確認した」ことを中核に構築したものです。筆者は、部落史の真実が、筆者として、この『部落学序説』を書かせていると思っています。

この節を閉じるにあたって、もうひとりの部落史の研究家をとりあげてみましょう。

立教大学で「部落学」を開講している川元祥一です。

彼の《部落学》という論文で、彼が提唱する「部落学」の概要がしめされています。彼のホームページ上で閲覧することができますので、まだお読みでない方は、是非、ご一読ください。(http://www5c.biglobe.ne.jp/~yosikazu/burakugaku.htm)

川元の「部落学」は、歴史学・社会学・民俗学・心理学などの個別科学研究の研究成果を糾合することで部落問題の全体像を把握し「新しい学問分野とする」といいます。『部落学序説』の筆者が、川本祥一を「部落学」の提唱者とする所以ですが、彼のいう「新しさ」は、彼の語る言葉のとおり、個別科学研究の「研究成果の糾合」にあるのであって、彼の部落学の背景にあるのは依然として「賤民史観」そのものです。

川元が大学でテキストとして使用している著書『部落差別を克服する思想』をあわせ読むとよく分かるのですが、川元は、「賤民史観」を継承して、部分的にその説の一部を修正しようとします。彼は、個々の史料の解析においてすぐれた研究をしているのに、それを総括する段階で、その研究成果を「賤民史観」という古い革袋に押し込めてしまうのです。

川元は、「江戸時代の身分序列は士・農・工・商・穢多・非人・雑種賤民と列記される」と一般説を述べたあとで、「江戸時代の身分呼称の全体を職業的カテゴリーとして現代的に「士・農・工・商・浄め役・諸芸」とすることができる」といいます。彼のいう「新しさ」は、「身分呼称」を「職業的カテゴリー」に置き換える点にあります。

川元は、「穢多非人」を「浄め役」と呼ぶのは、「穢多非人」という言葉が部落差別の偏見を助長する起因になることを防ぐためだといいます。しかし、近世の身分制度として日本の教育制度の中で繰り返し教えてこられた「士農工商穢多非人」という図式をそのままに、「穢多非人」を「浄め役・諸芸」という川元がいう新しい言葉に置き換えたところで部落差別の偏見を取り除くことはできないと思われます。車の色を新しく塗り替えたところで、中古車が新車になるはずがないのと同様です。

筆者の提唱する「部落学」は、個別科学研究の成果の糾合ではなく、「常民」の学として「民俗学」が、歴史学、社会学・地理学、宗教学(神道中心)を主要科目として、民俗学固有の研究方法として成立したように、「非常民」の学として、歴史学、社会学・地理学、宗教学(神道・仏教・基督教を視野に入れて)を主要科目として、政治学(外交史)・法学(法制史)を補助科目として、部落学固有の新しい研究方法を採用します。『部落学序説』の「常・民」・「非常・民」という概念は、歴史学・民俗学に対する挑戦でもあります。

川元の「部落学」が、日本の歴史学の通説、「賤民史観」の修正にとどまるのを横目で見ながら、「賤民史観」破棄に向けて、通説への徹底的な批判・検証を遂行し、差別・被差別の関係を乗り越えた、新しい人間理解の可能性に挑戦します。

『部落学序説』の筆者は、「部落学」を遂行するうえで、伝統的な「士農工商穢多非人」という図式も、最近の部落研究・部落問題研究・部落史研究を踏まえた上での新しい図式、たとえば、川本の「士・農・工・商・浄め役・諸芸」や、ひろたまさきの「天皇・皇族・華族・士族・平民・「新平民」「アイヌ」「沖縄人」」(岩波近代思想大系『差別の諸相』)という図式も必要はないと考えます。それらの図式は、鉄でできた冷たい足かせに毛皮を巻いて温かくみせたところで、足かせであることには変わりないのですから・・・。

部落学の定義

 部落学の定義

第1章で、「穢多は非常民である」と定義付けをしました。

この定義に至るまで、私は、十数年に渡り、試行錯誤を繰り返してきました。定義の仕方については、近藤洋逸著『論理学概論』(岩波書店)に依拠しています。近藤は、「問題解決の過程の中で概念が形成される」と書いていますが、部落学の固有の研究対象である「部落」を定義する場合も同じことが言えるのではないかと思います。部落差別完全解消を目的とした研究過程の中で、自ずと必要な定義が形成されていきます。

定義は、一度の定義で、完全な定義をすることはできません。

仮説的に定義された概念を、その内包と外延を検証することで、更に、より正確な定義を模索していくことになります。具体的には、まず、概念の内包(「共通な性質」)を抽出することで、その概念の外延を確定していきます。そこで確定された外延を検証して、設定された内包が正しいかどうか検証していきます。外延に問題があれば、更に、内包を定義しなおし、更にそれに基づいて外延を把握し直します。定義には、「無限」を感じさせるほど、多くの時間と作業の繰り返しが必要になります。私は、その結果として、「穢多は非常民である」と定義することになったのです。

「部落学」固有の研究対象が明確になりますと、部落学固有の研究方法は必然的に決まります。

「民俗学」が、常民に対する学であるなら、その常民の対極にある非常民を研究する「部落学」は、「民俗学」の研究方法をかなりな部分、援用することが可能になります。

「民俗学」は、①歴史学、②社会学・地理学、③宗教学の学際的研究であると言われますが、「部落学」も、それらの個別科学研究の学際的研究として設定することができるようになります。

「民俗学」と「部落学」で総合される個別科学研究の科目内容が同じであるなら、「民俗学」の対極になぜわざわざ「部落学」を構築する必要があるのかと考えられる方もおられるかも知れません。

私が「部落学」構築を提唱するのは、「民俗学」が、研究の対象にしている民俗の世界は、神道の世界を前提としているからです。柳田国男が想定している民俗の伝承の器である「村」は、仏教伝来以前の日本の村ではなく、明治政府が描いていた近代日本の構成要素たる村であったからです。柳田国男の民俗学は、多分に明治政府、日本国家のイデオロギー的側面を持っています。

五来重は、「柳田民俗学は、宗教の点においては神道のほうに傾いていたといえると思います。そんな中で私が仏教民俗学といいだしたのは、庶民の側の仏教史をどうとらえたらいいのかと考えたことからなんです」と、宮田登との対談の中で語っています(『歴史公論№52日本の民俗と宗教』)。また、「柳田国男先生のなかに神道なり国家主義なりに同調するような方向があり、その方面をおしすすめた観はありますね」とも言っています。宮田も「ほとんどの民俗学研究者たちは仏教学を知らない。だから現実に調査したときにも・・・」、正しい聞き取り調査ができない可能性を示唆しています。

私は、「部落学」の研究方法としては、宗教学に神道に仏教を付加するだけではまだ不十分であると思っています。もうひとつの宗教、キリスト教を付加すべきであると思います。

日本古来の「非常民」が、「軍事」と「警察」に二極化されたのは、嵯峨天皇の時です。

『新天皇系譜の研究-万世一系の演出と実態』を書いた角田三郎は、陸軍航空士官学校を出ますが、戦後、キリスト教に転身します。そして、天皇制批判を展開していくのですが、彼は、知る人ぞ知る、江戸時代の漢学者・新井白石の末裔です。彼は、風のうわさでは、靖国違憲訴訟を準備していく段階で、体制がしかけた罠に陥り、挫折を経験させられたと聞いています。

角田は、その書の中で、評価できる天皇の中で、最上位に推すことができる天皇として嵯峨天皇の名をあげています。

その理由のひとつに、「彼の政策の穏健さ」をあげています。具体的には、嵯峨天皇が、天皇家の血で血を洗う皇位継承問題の悲惨さを繰り返さないために、「軍事」と「警察」を分離し、「治安維持のための検非違使の創設」をしたことを取り上げています。

犯罪を未然に防ぐことを目的として設置された警察制度は、効を発揮して、「そしてこの後340年間、保元の乱まで、朝廷の手による死刑執行が止められたことも有名なことです」と言います。

検非違使が制度化される以前は、「非常民」は、「軍事・警察」が渾然と一体化したものであったのですが、検非違使が制度化された以降は、「軍事」と「警察」の両機能は分離され、戦時ではない平時にあっても有効に機能する、治安維持のための制度ができあがったわけです。検非違使制度は、古代律令制から見ると、「制度外制度」であり、そこに従事した人々は、「身分外身分」ということになります。検非違使制度は、時代を超えて温存され、日本の全国津々浦々に、「番人」として配置されていきます。彼らの姿は、藍染めの衣装(制服)を身にまとった、一目で分かる存在でした。

私は、その存在を、「衛手」(まもりて)と認識して、その「衛手」の漢語読みを「エタ」と推測したわけです。「衛手」は、江戸時代まで、文字としては「守手」(まもりて)として伝えられていましたが、文字としての「衛手」が失われ、音としての「エタ」のみが残っていったと推測したわけです。

網野善彦は、『歴史を考えるヒント』(新潮選書)の冒頭で、以下のように述べています。

「日常、われわれが何気なく使っている言葉には、実は意外な意味が含まれていることがあります。あるいはまた、われわれの思い込みによって言葉の意味を誤って理解していることもしばしばあるのです。歴史の勉強をしていると、そういうケースに直面することが少なからずあります。しかも、そうした問題を考えることによって、従来の歴史の見方を修正せざるを得なくなったり、現代に対する理解が変わって、世の中がこれまでと違ってみえてくることさえあるの">ではないかと考えます」。

今日、「穢多」という言葉については、暗くて惨めなマイナスイメージの響きしかありません。しかし、私は、「穢多」という概念を再定義していく中で、「穢多」の属性として、「衛手」(エタ・非常民)に到達したのです。

この「エタ」は、歴史の進展の中で、徐々に社会的に重要な存在になり、その職務内容が増大していきます。

様々な職務を担っていくようになります。その内容は、明治以降の近代警察の職務内容とほぼ匹敵する内容です。実に多種多様な仕事に従事していました。「穢多」の立場からすると、「穢多」という言葉は、「多くを穢す」意に受け止められていたように思われます。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取

山口県立文書館の研究員・北川健が発掘した、長州藩の近世穢多村の伝承の中に、「山部は穢す皮張場」という一節がありますが、「穢す」という言葉は他動詞です。穢多が、主体的に働きかける存在になります。ここでいう「穢す」という言葉は、『広辞苑』(初版)の説明では、「人格・実力のない者が高い地位に就く。また、自分がある地位や席につくことを、謙遜していう。」意味にあたります。

「穢多」というのは、「穢れ多し」と読むのではなく、「多くを穢す」と読むべきではないのかと、私は、推測するわけです。近世の非常民である「穢多」の特質は、その職務に、さまざまな警察機能に加えて、「宗教警察」が含まれたことにあります。ここでいう、宗教とは、キリシタンとか日蓮宗の不受不施派、悲田宗、三島派など、「邪宗門」とラベリングされ、幕藩体制下で禁教扱いされていた宗教のことです。特に、穢多に課せられたのは、キリシタンに対する取り締まりでしょう。長州藩の史料の中には、穢多たちに対しては、キリシタンを取り締まるように指示が記されたものがあります。

近世穢多のはじめと終わりは、キリシタン弾圧のはじめと終わりに平行していることは、多くの部落史の研究者が指摘しているところです。もちろん、それを解明したひとはいませんが・・・。

私は、これらのことから、民俗学レベルの宗教学(神道中心)では、非常民の本質を十分に描ききることはできないと思っています。さすれば、「仏教民俗学」を補助科目として付加すればそれで十分かといえば、それでも不十分であると思っています。やはり、「神道民俗学」・「仏教民俗学」だけでなく、「キリシタン民俗学」も視野に入れないと、穢多の本質は把握できないと思っています。

私は、「常民」を固有の研究対象とする「民俗学」の部分的修正だけでは、「非常民」について十分に迫りうるものにならない、やはり、「民俗学」とは別に、「非常民」の学としての「部落学」を構築する必要を感じてしまうのです。

ここで、命題2を設定します。

「部落学は、<穢多は非常民である>という命題を、歴史学、社会学・地理学、宗教学、民俗学の個別科学研究を総合して実施される学際的研究であり、そのことによって部落学固有の研究対象である「部落」の歴史と本質を明らかにし、差別・被差別の立場を問わず、すべての人を<賤民史観>から解放し、日本社会の病巣である部落差別の完全解消に資することを学的課題とする」。 

部落学と歴史学

部落学と歴史学

既存の部落研究・部落問題研究・部落史研究の成果としての史料や論文の累積は相当数にのぼります。

これらすべての史料や論文に目を通すことは事実上不可能です。

特に、大学で高等教育を受け、歴史学に精通した研究者ならともかく、大学での「学」とはまったく無縁な状態で人生を歩んできた、無学歴・無資格な、ただの人である筆者にとっては、すべての史料や論文に精通することは最初から不可能なことです。

この『部落学序説』を書くに際して使用する史料や論文、伝承との遭遇は、筆者にとっては、まったくの偶然の産物です。筆者が遭遇した史料や論文は、ひとつの「出会い」のようなものであると思っています。その「出会い」によって、この『部落学序説』は、大きく影響されていると思うのです。

部落史研究の大御所である沖浦和光は、その著『「部落史」論争を読み解く戦後思想の流れの中で』の中で、「人生の長い旅路で、いちばん大事なのは、いつ、どこで、だれに出会うかということであろう。それによって、行き先も、歩く道も、大きく違ってくる場合が少なくない。他者との出会いが、人生の大きな節目になる-そういう出会いは、この人生という長い路線の転轍手みたいなものだ。」といいます。

筆者にとっては、人物だけでなく、史料や論文等も同じ類の出会いです。いつ、どこで、どのような史料や論文と出会うか、その偶然によって、筆者の『部落学序説』の内容は大きな影響を受けています。

筆者は、以前にも記したように、58歳の年になるまで、大学という名前のついた場所で、大学教授という肩書を持った人から、高等教育、講義を受けたことは一度もありません。

しかし、論文や書籍を通じて、間接的に、大学教授の研究成果に触れることは度々ありました。すぐれた学者は、一般の人々に、分かりやすい言葉で入門書や啓蒙書を執筆してくれます。それが、筆者の人生を、いろいろな意味で潤してきたことは否定できません。しかし、更に優秀な大学教授は、歴史学の研究成果だけでなく、歴史学の研究方法を提供してくれます。無学なものに、歴史学が何であるのか、どうすれば、歴史学研究を自分で行うことができるのか、詳細な情報を提供してくれます。それらの書物は、知識・技術だけでなく、歴史研究をすすめる上での姿勢や、研究の途上いろいろな壁に直面したときの対処法なども提供してくれます。ときには、読者に対する配慮から、励ましや慰めの言葉を、その行間に散りばめてくださる方もいます。

歴史学についていえば、筆者は、『歴史學研究法』(今井登志喜著)と『地方史研究法』(古島敏雄著)から、大きな影響を受けました。もし、この2冊の書にであうことがなかったら、筆者は、歴史学に関心を持つことはなかったでしょう。

この『部落学序説』では、「新しい資料の発見」はひとつも含まれていません。今井は、「新しい資料の発見によって旧学説が覆る実例はしばしば見る所である。」といいますが、無学歴の筆者のよしとするところではありません。「いかに不完全であってもすでに発見し得た資料に基づいてそれによって立証される限りの真理を認識するほかはない」ことを認めざるをえません。

今井の『歴史學研究法』は、既存の歴史学研究の論文がどのように構成されているか、その舞台裏を知る上で大いに役に立ちます。部落史の学者・研究者が、歴史学のクリティークをきちんと実践しているかどうか、その論文の読者に、それを確認する様々な方法を提供してくれます。

歴史家は、個々の歴史資料を収集・分析・解釈したあと、それらの歴史資料を総合して、ひとつの歴史的研究の成果としての論文を構築しなければなりません。今井は、その構築を、「歴史的連関の構成」と呼んでいます。「一の歴史的連関の構成が未だ何人にもなされなかった題目について行われる時、それはその研究者の学的業績になる」と言います。新しい歴史資料の発見に至らずとも、既存の歴史資料を批判・検証して、研究主題に応じて「歴史的連関の構成」を新しく試みるとき、今井は、それも、歴史学的研究の一つに数えるわけです。

『部落学』は、歴史学にとどまらず、社会学・宗教学・民俗学の個別科学研究の成果を批判・検証することで、部落学の固有の研究対象にふさわしい史料・伝承、論文・研究を抽出し、個々の要素の「連関」を再「構成」することを課題にすることになります。

『地方史研究法』の著者・古島敏雄は、「歴史に関心を持った人々」に、二つのタイプがあることを指摘しています。

「一つはたとえば日本は今迄多数の研究者が永年研究をやっているのだから、もう残された問題はないだろうとする人々であり、他の一つは新しい歴史学樹立の必要を痛感し、その立場として民衆の立場ともいうべきものの必要を痛感して勉強をはじめ、あるいは成果の啓蒙運動をやってみて、数年にして所期の成果がえられないとして焦っている人たちである。一方は過去の業績を無条件に完全と認めているのであり、他方はそれを否定しながらも過去の業績の読み直しをやりさえすればそれで新しいものができると過信しているのである。両者ともに新しい・根底からやり直すような歴史研究上の問題を認めないことでは共通したものを持っている」。

「部落学」は、歴史学を過剰に評価するあまり、この二つのタイプに属する歴史学者や研究者からの果てし無き無益な論争に巻き込まれることは、極力さけなければなりません。部落史の分野においては、二つのタイプに共通していることがらとして、「賤民史観」の受容があげられます。

沖浦は、戦後の部落史研究の口火は、京都の部落問題研究所の創立ではじまったとします。その最初の成果は、北山茂夫・林屋辰三郎・奈良本辰也・藤谷俊雄・井上清の5人の研究者によって執筆された『部落の歴史と解放運動』(1954年)であったと言います。更に、上田正昭・原田伴彦・藤谷俊雄・中西義雄の4人によって、『新版・部落の歴史と解放運動』(1965年)が出版され、「賤民史に関する歴史認識の枠組みが設定され」たといます。戦後の部落史研究の基本的枠組みとして、「賤民史観」が確定されていったのです。それは、今日に至るまで影響を持ち続け、「新しい・根底からやり直すような」(「賤民史観」を見直すような)歴史研究上の問題を認めることはしません。他ならぬ沖浦自身も、「賤民史観」の支持者でした。

沖浦は、「特に90年代に入ってからさまざまの視点から多様な部落史像が語られるようになりました。活発な論争が展開されること自体は、歴史研究の水準を高める必須の契機なのだが、それにしても先学たちが苦心して蓄積してきたこれまでの研究成果(「賤民史観」/筆者注)を十分に咀嚼しない粗雑な仕事が一部にみられたことも、残念ながら否定できない。」といいます。沖浦も、「賤民史観」そのものを批判・検証して手放すことはなさそうです。

岩波書店の近代思想体系の『差別の諸相』という、幕末から明治23年までの豊富な歴史を紹介している書物の編集者・ひろたまさきは、巻末の《日本近代の差別構造》の中で、「賤民史観」支持を明確に打ち出しています。近世・近代を通じて、「賤民史観」でまとめています。近世の「士農工商穢多非人」に代えて、近代の「天皇・皇族・華族・士族・平民」「新平民」「アイヌ」「沖縄人」という図式を採用しています。

しかし、古島敏雄著『地方史研究法』(初版1955年)は、「賤民史観」を見直すためのさまざまな示唆に富んでいます。古島は、文献のみによる民衆の歴史や生活史を明らかにするためには、「民俗学的な聞きとりと文献の利用は平行しなければならない」と指摘しています。特に明治4年太政官布告以前の歴史資料の取扱方と研究の方向性を示唆している点では、『地方史研究法』は、部落学構築にとって非常に有意味な歴史学の解説書です。

「部落学」は、史料や論文の単なる「読み直し」ではなく、差別的な歴史思想である「賤民史観」という汚れに染みた歴史学者の手から、関連する歴史資料を取り戻し、「洗い直し」の作業をしていくことになります。「賤民史観」という差別思想を洗い流すことによって、歴史資料の持っている意味を、歴史資料をして語らしめるという作業を通して、「部落学」の中に取り込んでいく必要があります。

部落民がいなくなると部落差別はなくなるのか・・・?

     今朝, ルターの独訳聖書を読んだあと, 川崎修著 "ハンナ・アーレント" を読んでいました. その中に, ショッキングな言葉がありました.     "ユダヤ人を憎むのにユダヤ人をまったく必要としない"     それで, 私は, こ...